その1
『怪盗ヘルハウンド現る』
小林秋彦は新聞の一面を上にして二つ折りに持ち、でかでかと書かれたひねりのない見出しを一瞥したあとでその記事の本文にこれで何度目かになる目を通した。
本年七月一日、目黒区某所の高級住宅街で盗難事件が発生した。盗まれたのは時価一千万円を超えるドヤ作の絵画で、額縁の中には消えた絵画の代わりに黒い犬の描かれたカードが挟まれていた。――警視庁は犯行の手口及び現場に残されたカードから怪盗ヘルハウンドの犯行と見ている。
「この怪盗ヘルハウンドとかいう窃盗犯が、本当にこれから俺たちが行く場所にいるんですかね」
紙面から正面に向かい合わせに座っている上司に視線を移し、秋彦はなかば独り言のつもりで質問をした。
「知らねぇ―……多分いるんじゃねえの、課長が多分いるって言ってたし」
一本木鶫は現地のパンフレットを目隠し代わりに顔の上に乗せて、いつものかったるそうな調子で答えた。返答があるだけまだマシで、機嫌が良くない時は部下への対応をすべてジェスチャーで済ませる女だ。
「どうやって当たりをつけたんですかね、廣田課長は。怪盗ヘルハウンドが美倉島にいるって」
今度はパンフレットに弾かれて、彼の言葉は上司の耳まで届かなかったようだ。秋彦はため息をついた。
「……これからうちが行くのってどんなとこ? いい男いる?」
太平洋のくすんだ海面を秋彦が窓越しにぼんやりと眺めていると、一本木が尋ねた。パンフレットに口を塞がれているためくぐもっていてはっきりとは聞き取れなかったが、秋彦は察した。この上司の言いそうなことだ。
「若者はいそうにないですね、人口三百人程度の里が島内に一つあるだけですし。郵便局も一つ、レンタカーどころか島内は自転車も禁止らしいですよ」
「ほぇー…………もうだめ」
「まだ着いてもないですよ」
刑事だと気付かれないように潜入捜査をして怪盗ヘルハウンドの居場所を突き止めるのが今回の秋彦たちの任務だ。一応のカモフラージュとして夫婦に見せかけるため年頃の一本木と秋彦が選ばれたのだが、秋彦は気乗りがしていなかった。一本木は顔とスタイルだけはいいため、それだけが救いと言えば救いだった。
「ほぇー…………る……」
一本木のささやかな悲鳴が、船内に虚しく響いた。
二人を乗せたフェリーが美倉島に着くと、数人の乗客が船着場へ降りた。いずれもお年寄りでこの島の住人に違いなかった。ここは美倉島村です――という潮風にさらされて錆び付いた看板が目についた。その向こうには崖が立ちはだかって、里へ通じる階段がくの字状に走っている。
やる気はなくとも現役刑事の二人は息一つ切らさずに階段を登り切ると、ホテルの場所を確認するために地図が描かれたパンフレットを探した。しかしいくら探しても見つからなかった。
「ホテルまで案内しましょうか」
一緒にフェリーから降りた初老の婦人が声を掛けた。よく日に焼けていて背筋も伸び、健康そのものといった身体だ。目を細めて好意的な笑顔を浮かべている。
秋彦が隣の一本木を見ると、彼女は真面目くさった顔で友好的に口をへの字に曲げていた。そこで秋彦が応えた。
「ご親切にどうも、お願いします」
老婦人のあとに続いて二人は土手を歩いた。船着場は里の北西部にあって、崖沿いに東へ進むと広場、小じんまりとした商店があった。そこを過ぎると三叉路になっていて、交番と郵便局、診療所が三本の道に挟まれるようにして建っていた。南に進むともう一つ商店があり、そこを東に曲がると里にある唯一のホテルに到着した。船着場から十分ほどの距離だ。
秋彦は意外に若い住民が多いことに驚いた。といってもせいぜい四十代前半で、一本木の好みに合いそうにはなかった。
「シュノーケリングをしに観光客が来るのよ、凪の日の夜は珍しい鳥も集まるし。イルカもよく来るから遊覧船も出ているよ」
移動中、一本木の様子を見て気を使ったのか老婦人は一言二言会話をしただけだった。ただ、秋彦がお礼を言って別れ際、野生の獣が出るから里からは離れないようにしたほうがいいと助言をした。
ホテルはそのまま『美倉荘』といった。建物は新築したばかりで、荘内には島の巨樹や草花を描いた絵画が展示されていてちょっとした美術館になっていた。
「うち温泉いってくるはー、あっきーは主人に色々聞いといてー」
フロントでキーを受け取ると、一本木は秋彦を置いてさっさと階段を登って行ってしまった。夫婦に偽装しているため上司と同じ部屋に泊まらなければならないこと気付き、とたんに秋彦は憂鬱になった。
「ふぇふぇふぇ、新婚かえ?」
一本木にキーを渡した七十過ぎと思われる男性が呼びかけた。入れ歯をしていて発音が聞き取りにくいが、こちらも体つきはしっかりしている。
秋彦は気を取り直して適当に話を合わせながら里の地理や政治、最近起こった出来事、ほかの宿泊客の情報などを尋ねた。宿泊客は秋彦たちのほか四組いるようだった。夫婦が一組、母娘が一組、残り二組は単身との話だった。
「母娘って、父親は来てないんですか?」
「んみゃあ、えらあ別嬪で今どきのぎゃるちゅー感じやっちゃい。娘もおしゃれしてゃぁ」
「へえ、一人で来る客も多いんですか?」
「めっちゃにいにゃーが、ここんとこ増えちょるげ……あー……」
主人の言葉が急に途切れたので、秋彦は首を傾げた。
「どうしたんです」
「今入院しちょるげ」
「入院? 宿泊客がですか、なぜ?」
細かい情報は主人の言葉からは聞き取れなかったが、宿泊客の一人が大怪我をして診療所にいるらしかった。解読に時間がかかったため、聴きこみを始めてからかなりの時間が経っていた。秋彦がそれらの情報を持って自室のドアを開けると、一本木は浴衣を着て窓際の椅子に座っていた。
「あっきー、先にやってるよー!」
彼女はビールを片手に全身からほかほかと湯気を立てながら、なんと笑顔で言った。
「ご、ご機嫌ですね……一本木さんのまともな笑顔初めて見ました」
「うちオンオフはしっかり切り替えるタイプだから」
秋彦がホテルの主人から聞き取った内容を話すと、一本木は露骨に顔を歪めた。聴きこみに漏れがあったかと秋彦は懸念したが、そうではなく仕事の話をしたのが嫌だったようだ。
「ほぇー……」
スイッチがオンになっていつもの調子を取り戻した役立たずを置いて、秋彦は診療所に向かった。日はすっかり落ちていて、辺りは闇に包まれていた。電灯などというものはなく、都会暮らしに慣れた秋彦には精神的に堪えるほどの暗闇だった。野生の獣が出る――と案内をしてくれた初老の婦人が言っていたことを思い出し、彼は身震いをした。思わず懐中電灯でぐるりと周囲を照らしたが、見えるのは暗闇の中に切り取られた薄闇だけだった。
「ふぅ……」
三叉路に到着した秋彦は安堵の息を吐いた。幸い診療所はまだ開いているようで、砂利の転がった地面に明かりを落としていた。扉を押し開くと待合室に客はなく、受付にも人の姿はなかった。呼び鈴を鳴らすと、看護婦が奥からからからと椅子を引いて現れた。
「こんばんは、どうされました?」
「あ、ええと……大怪我をして入院している観光客がいると聞いたんですが……」
夜道を一人で歩くだけで精一杯だったため、秋彦は病人の個人情報を教えてもらうための口実を考えていなかった。一本木も一緒に来ていれば、という考えが一瞬頭をよぎったがどちらにせよ同じことだと気付いた。
「ああ、毒蛇に噛まれた久保田さんですね、五号室ですよ」
と看護婦は秋彦の焦りをよそに言った。よく考えたら、このように小さな里では住民は全員家族のようなもので部外者は一目でわかるし、仮に事件が起こったとしても犯人の特定は容易なのだろう。そう秋彦は納得して看護婦にお礼を言い、五号室へ向かった。
「あなたも、猛獣に会いたくなかったら里より奥に行かないほうがいいわよ」
離れ際、看護婦から再度の注意を受けて秋彦はそうならないようにと心の中で祈った。
「しかし、毒蛇に噛まれただって、怖いなぁ」
病室のドアを叩くと、少し間を置いて、どうぞという返事が返ってきた。意外と力強くはっきりとした声で体調の心配はなさそうだった。
「おや、誰だ」
ベッドの上で上半身を起こし、手帳に書き物をしていた三十代後半から四十代といった男性が入室した秋彦を見て怪訝そうに眉を寄せた。ノックをしたのは看護婦だと思ったのだろう。秋彦は慌てて自己紹介をした。
「私はこの美倉島の動植物の研究をしている者ですが、毒蛇に噛まれた観光客がいると聞いたので、いらぬお世話かと思いますが様子を見に来ました」
「これはわざわざどうも。一時は死んだかと思いましたが、もうなんともないですよ」
男は秋彦が心配して来てくれたことを喜んでいるようだった。続けて、こんなところに一人で来たりするんじゃなかったとボヤいた。
「あなたも興味本位に近付いたりしちゃ駄目だよ、あの怖ろしい屋敷には」
「怖ろしい屋敷って、何です?」
思いがけない言葉に、秋彦は刑事としての直感が反応するのを感じた。
「里を外れたところにひっそりと建っている犬屋敷だ。屋敷の正式な名前は知らないが、敷地内は荒れ果てていて猛犬が大勢走り回っている。あれはもう完全に猛獣さ。だから俺は犬屋敷と呼んでる」
「犬屋敷……」
秋彦は牙を剥きだして涎を垂らしながら走る凶犬の群れをイメージして、ぞっとした。
「ところが、いつもはやかましく獰猛に吠え立てている猛犬どもが今日に限って静まり返ってたんだ。変だろ? 好奇心に負けて柵を乗り越えて敷地に入ってみたら、やっぱり犬の姿は見えない。それで油断したところを毒蛇に足を噛まれたんだ」
「今日に限って……犬が静まり返っていた」
「でも、俺はもっと奇怪なものを見たんだ。もっとも、毒にやられて意識が朦朧としていたから幻覚だったかもしれない」
「なんです、もっと奇怪なものって」
男はその瞬間を思い出しているのか、まだ夢と現を彷徨っているような、幻覚を見ているような表情で焦点の合わない目を秋彦に向け、言った。
「俺は見たのさ、人の顔をした犬――人面犬を」