その8
椋露路朱寧は澄ました顔で硝煙の立ち昇る銃口を下ろして、鬼一郎の傍らに佇む人物を眺めた。依然として意識の戻らない鬼一郎の腹部に向かって今まさに振り下ろされようとしていた凶器は、彼女の放った弾丸に弾かれて柘榴石の間の片隅に転がっている。
何故分かった、とでも言いたげな犯人の瞳に椋露路は哀れみと軽蔑を込めた視線を返した。
「この館で起こった二つの事件は、多くのものと同様にいくつもの解釈が可能だけれど、全体を通して筋の通った説明ができるのはそのうちの二つだけだ」
彼女は拳銃を持っていないほうの手を持ち上げて人差し指、続けて中指を立てた。
「ドール犯行説と執事犯行説」
いつの間にか薄暗い室内に灯りが射し込んでいた。トルコ石の間に繋がる扉が開け放たれて、その前に人影が並んでいる。中河原はもはや逃げられないことを悟って歯ぎしりをした。
「言うまでもなく犯人が押し通すつもりだったのはドール犯行説だ。不可能犯罪として検察も公訴できずに迷宮入り。ドールが自分の意思で動き館の主人を刺したという奇怪な噂が客を呼び展覧館は大盛況、というのが舘谷鬼一郎の考えたシナリオだ」
小林秋彦が隣で口を挟もうとしたのを感じ取った椋露路は、立てた二本の指を彼の眼球に突き立てて黙らせた。
「なんの根拠があってそんなデタラメを」
「決定的な証拠がこの柘榴石の間に幾つもあるけれど、その減らず口に敬意を評して順を追って説明しようか」
椋露路は一呼吸置いてから語り始めた。
「一つ目の、トルコ石の間で起きた騒動。発生当時、現場はまさに人形一体抜け出す隙間がないほど完璧な密室だった。え? 暖炉の中に足跡があったって、観察力が足りないよ小林刑事。目は大丈夫かい。それはよかった。君、装飾用の暖炉がわざわざ何処かに繋がってるわけないじゃないか、ちょっと首を突っ込んで覗いてみれば行き止まりになってることが分かるよ。
「そう、あの足あとは人形の犯行に見せかけるための偽装工作の一つだ。偽装工作といえば、舘谷鬼一郎は招待客の中にサクラを仕込んでいたね。展覧館に来ておきながらろくに鑑賞もせず聞かれもしないのに半で押したような生半可な知識を披露して招待客を煽っていたあの……こほん、亡くなった憐れな佐倉弘孝だよ。錯乱して人形を壊すのも演技のうちだったはずだ。ところが、彼をそそのかして利用しようと企んだ悪魔がいた。
「話を一つ目の騒動に戻そう。舘谷鬼一郎の計画では、密室で鬼一郎が人形に刺され、車で病院に運ばれて一命を取り留めるというシナリオだった。ところが、予定外の事態が二つ起こったんだ。僕の助手のいたずらと執事の謀反だ。
「実はね、君と殺された佐倉弘孝以外は全員知っていたけれど、鬼一郎の悲鳴が聞こえた時、トルコ石の間には二人の人間が居たんだ。そう、僕の助手は全て見ていたんだよ、鬼一郎が自分のお腹に赤色の塗料と偽物の刃物を仕込んでいるところを。なぜかって? 鬼一郎が僕の助手を拉致したのさ。もっとも、あの子はああ見えて凶暴だから、人形だと思い込んでいる鬼一郎を絶叫させるほど驚かせてやったみたいだけれど。どうやってトルコ石の間から出たかだって? 僕と一緒に正面扉から出て堂々と紫水晶の間に戻ったよ。君と佐倉は鬼一郎に薬を嗅がせて気絶させるのに夢中で気付かなかったみたいだけどね。ほら、記者たちは台座の上に人形はなかったって言ってただろう? そこには僕の助手が乗っかってたのさ。ふふっ、状況から考えて、僕の助手が鬼一郎を刺したと思えただろうね。
「もう一つの不測の事態、それが君の裏切りだ。君はあろうことか主人の自作自演を利用して一億円の価値がある人形を盗もうと考えた。そのために佐倉を買収し、鬼一郎を気絶させて、殺すチャンスを作るために車のタイヤをパンクさせたんだ。これが一つ目の騒動の裏側さ」
椋露路は追い詰められた狼のような表情をしている中河原に歩み寄り、彼の目の前で鬼一郎の包帯を解いてみせた。赤く染まった包帯の下には傷一つなかった。