その5
主の悲鳴が館中に響き渡ると、不測の事態が起こったことを察知した中河原が『トルコ石の間』に駆け寄った。しかし、黒塗りの扉にはしっかりと内側から鍵がかかっていた。
椋露路は広間を見渡した。椅子から立ち上がったばかりの安部、美貴、佐倉に秋彦、食事を台車に載せて運んでいたシェフ、扉を叩く中河原。悲鳴を聞いて女の子が紅水晶の間から出てきた。メリーヴェールと鬼一郎を除き、全員が広間にいる。
「旦那様!? 大丈夫ですか!?」
中河原と秋彦が扉をぶち破ると、床に仰向けに倒れている鬼一郎の姿が目に入った。驚愕の表情を浮かべて右手を前に伸ばしている。一目散に中河原と佐倉が駆け寄った。
「ドールが……動いた……」
かすれた声で鬼一郎が呟いた。見ると、彼の腹部には包丁のような刃物が刺さっていて、周囲が赤く染まっていた。
トルコ石の間はほかの部屋と同様に展示室となっていて、ガラスケースの中にドールが飾られていた。
椋露路は鬼一郎の視線と右腕の先をたどった。そこには彼女がこれまで見たこともないほど精工なドールたちが並べられている。椋露路はその右端で視線を止め、なにか重大な証拠を発見したように、興味深そうにそれを眺めた。
「中河原さん、急いで救急車を!」
秋彦が指示を出した。鬼一郎は頬を叩いてもまったく反応がなく、完全に気を失っていた。
「わ、わたしは医学部卒なんです。応急処置くらいならできます」
佐倉が中河原の助けを得て、右隣の部屋へ通じる扉を開けて鬼一郎を運んでいった。その扉には鍵がかかっていて、鬼一郎のポケットから取り出した鍵を使って開けなければならなかった。
「小林刑事、メルが気になるから僕は一度部屋に戻るよ」
部屋を出る前に椋露路は立ち止まってもう一度秋彦を振り返り、微笑を浮かべた。
「この事件ほど簡単なものはきっとないね」
紫水晶の間へ入ると、そこは変わり果てていた。ベッドの上にお菓子の包みが散乱して床にはチョコレートが転がっていた。トランクは蹴飛ばされたように蓋が開いたまま横倒しになっていて、展示品の人形が無事なのが不思議なくらいの有り様だった。
「なんだいこれは、一人でパーティでもやってたのかい」
メリーヴェールはベッドの上でまだ無事なチョコレートをつまんで口に放り込んだ。
「はっちゃけちゃった」
もぐもぐと頬を動かして、興奮しながら呟いた。
「まったく、君が無事でなによりだよ。僕がいない間何もなかったかい?」
「髭男の悲鳴がうるさかった」
「館中に断末魔の如く響き渡ったからね、そのくせ、あの男の容態は心配するほどのものじゃないだろう。ショックで気を失ったようだけれど。さてさて、今更人形のふりをする必要もないけれど、君はここにいるかい?」
ちょっと考えて、メリーヴェールはこくりと頷いた。
「それじゃあ、いい子にしてるんだよ」
椋露路がトルコ石の間に戻ると、そこには鬼一郎の看病をしている佐倉を除く全員が集まって騒然としていた。
「朱寧さん、電話が故障して使えないみたいなんだ。俺たちの携帯電話も保管場所から失くなっていたらしい」
小林秋彦が言った。
「山から降りるにはロープウェイか展覧館の裏道を車で行くしかないのですが、ロープウェイは朝になるまで動きません」
「車で病院まで運ぶしかないな、車はどこにあるんだ?」
「右隣の、旦那様を寝かせている『柘榴石の間』に裏口へ通じる通路があります。急いで車を準備しましょう」
中河原が慌てて退室した。椋露路は改めてじっくりとトルコ石の間を見渡した。扉は広間に通じるものと右隣に繋がるものの二つ、悲鳴が聞こえた時には両方とも鍵が掛かっていた。天井の近くに換気窓があるがそれらも鍵が降りていて、人間が通れる大きさではない。そのほか室内には大理石の台座に展示されたドールたちと、鬼一郎の執務机が一つ、左の壁に飾り用と思われる小さめの暖炉があった。椋露路が近づいて観察すると、暖炉は三十センチ四方の大きさでマントルピースの中に子どもの足あとがはっきりと残っていた。
「誰が舘谷氏を刺したんだ?」
安部陽馬が切り出した。
「誰って……舘谷鬼一郎の悲鳴が聞こえた時私たちは広間にいたじゃない」
そう言って、美貴は青ざめた表情をして立っている女の子を見た。
「わ、わたしは、部屋にいました」
「だけど、君は舘谷氏に恨みがあるんじゃないのか」
安部の言葉を聞き、女の子ははっと息を呑んだ。
「夕食の時の君の態度が気になって、考えてみたんだ。俺たちが吉永しずえの話をしている最中に君は怒って部屋に戻っていった。たしか、吉永しずえの相続人になったのは君ぐらいの年代の一人娘だったはずだ。君が舘谷氏から招待されたのは吉永しずえの娘だからじゃないのか」
戸惑う女の子を、安部は記者特有の探るような目つきで眺めた。
「あ、あなたには関係ありません」
突き放すように言うと、女の子は安部の視線から逃げるようにしてトルコ石の間から出て行った。
「面白くなってきたわね。でも、あの子の部屋からこのトルコ石の間に来るには広間を通らなければいけないわ。そもそも、ここは密室だったわけだし」
「まあな、状況から考えて犯人は決まってる。しかし、仮に人形が動いて舘谷氏を刺したことになれば部数は延びるぞ、ラッキーだぜ」
すると、中河原と佐倉がひどく落胆した様子で戻ってきた。言い難そうに報告をする。
「車のタイヤがパンクさせられていました。これでは朝になるまで旦那様を運べません。皆様にも展覧館に残ってもらうしか……」
「じょ、冗談じゃない! 状況から考えてドールがやったとしか考えられないじゃないか! こ、こんな不気味なドールだらけのところにいられるか!」
佐倉はひどく狼狽して、人形が鬼一郎を刺したと信じて疑わない様子だ。
「中河原さん、そこの、一番右の台座なんですが」
椋露路が並べられた人形の右端を指さした。そこはガラスケースが外されて、空っぽになっていた。
「おや、おかしいですね。先ほどは余裕がなくて気付かなかったのですが、今朝この部屋を掃除した時には確かにそこにドールが飾ってありました」
「どんなドールですか?」
「金髪の特に美しいドールです。値段にしたら一億円は下らないでしょう。まさか、騒ぎに乗じて誰かが盗んだのでは」
中河原は招待客を疑ったことを失言と感じたふうで、口を閉じた。
「しかし俺が悲鳴を聞いてこの部屋に入ったときには、そこにドールはなかったよ」
「そうね、私も見たわ」
安部と美貴が椋露路に向かって言った。
「いや……俺もはっきりとは見てないけど……そこにはドールがあったような? どういうことだ」
佐倉が額に汗を浮かべて独り言のように呟いた。突然、広間に繋がる扉へ駆け出すと振り向いて告げた。
「いいか、朝まで誰も俺の部屋に近寄るな! 人形もだ!」
誰にともなく叫ぶと、佐倉は自分に割り当てられた五時の方角『翠玉の間』へ立て籠もった。
「こいつは、いよいよ面白くなってきたな」
安部が走り去る佐倉に向かってカメラを構え、シャッターを押した。
※
「簡単に状況を書き出してみたよ」
椋露路が自筆の手書きメモを小林秋彦に見せた。
十二時:『トルコ石の間』舘谷鬼一郎
――吉永しずえのドールが展示されている。装飾用の暖炉あり。
中河原によれば、今朝あったはずの金髪のドールが一体消えた。
一時 :『柘榴石の間』中河原、矢川
――現在鬼一郎が寝かされている。裏口へ通じる通路あり。
電話が故障。保管していた携帯電話が消えた。車がパンク。
中河原と矢川の証言によれば、裏口の鍵は掛かっていなかった。
二時 :『紫水晶の間』椋露路、メリーヴェール
――メルが待機中。散らかっている。
三時 :『藍玉の間』展示専用
――希少なドールが展示されている。
四時 :『金剛石の間』小林
――特になし。
五時 :『翠玉の間』佐倉
――内側から鍵を掛けて立て篭もり中。
六時 :正門へ通じる通路。そのほかロッカーとレストルーム。
七時 :『紅玉の間』藤森美貴
――特になし。
八時 :『橄欖石の間』安部
――特になし。
九時 :『青玉の間』展示専用
――希少なドールが展示されている。
十時 :『紅水晶の間』狭間毬奈
――特になし。
十一時:厨房。倉庫。
厨房と正門へ通じる通路に面した壁には扉がないが、それ以外には部屋と部屋を繋ぐ扉がある。ただ、その扉を開けるには鬼一郎が持つマスターキーが必要。このマスターキーは複製ができない構造になっていて、中河原の証言によれば今日は一日中鬼一郎が持っていた。悲鳴が聞こえて駆け寄った時に鬼一郎のポケットに入っていたのを椋露路と小林が確認している。
広間に繋がる扉は内側から鍵が掛けられる。それを外から開けるには、マスターキーか各部屋専用の鍵が必要。専用の鍵は中河原が保管している。
各部屋にはトルコ石の間と同様の換気窓があるが、人間が通れる大きさではない。
臨時の客室として使用している各部屋にはランクの低いドールが展示されている。