60話
中に入り、最後の仕上げをしている内に次々とクラスメイト達がやってくる。皆校長先生に借りた会場に入るとすぐさま鼻をひくつかせていた。誰も彼も、この牛タンのシチューの仕上げをしている鍋から漂う香りを嗅がずにはいられなかった様である。
「うわ、いい香り」「朝飯をできるだけ食べずに我慢した甲斐がありそうだ!」「おいしそうな香りだ」「これ、香りの暴力よね」
なんて事をクラスメイト達が口走っている。そのうち、珠美一家も姿を見せた。やはり入ってくるなり鼻をひくつかせている。
「──すごいいい香りです。これは……」「ああ、期待できるどころじゃない。期待以上だろうな」
なんて事を、真美と父親であろう男性が話し合っていた。その後ややあって、完成した牛タンシチューを配膳し終わり皆で頂きますと言い終えて食べ始めてからは──戦争が勃発した。
「俺のだぞ!」「私はまだ3杯しか食べてないのよ!」「こんな美味い牛タンシチュー、次に食えるのは何時になるか分からん! 食えるだけ食うぞ!」「こんなおいしい物をお姉さまは……っ!」
クラスメイトだけでなく、珠美の家族、さらにはクレアに校長先生までもが参戦している。なお拓郎とジェシカだけは落ち着いて食事をしている……逆に言えば、それ以外のここに居る人たちは牛タン士シューの争奪戦に参戦していると言う事でもある。
「凄い騒ぎだなぁ……」「姉さんも大人げないです……」
呆れ半分で拓郎とジェシカは目の前で性別も歳の差も関係ない牛タンシチュー戦争を眺めている二人。牛タンシチューは大鍋で10ほど用意したのだが、2時間もすると全て売り切れてしまった。皆が十分に腹を膨らませてうんうん唸っている姿が生まれて──はおらず、むしろ……
「もうないのかよー?」「あー、もっと食べたかった……」「これは金払わないとダメだわ……こんな美味い物食っといて、お金出さないとか犯罪だ」「今日しか食えないってのは……食えないってのは……」
と、まだ食い足りない面々が残念がっていた。一方で珠美一家は──
「ああ、幸せですわ。これで明日からの訓練も一層励めますわ」「満足だ……ここまで満足できたのは何時ぶりだろうな」「とてもおいしかった、それしか言えませんね」
と満足していた。その姿を確認した拓郎は、内心でほっと息を吐いていた。期待には応えられたのだから、拓郎がそう安堵するのも無理はないだろう。これで珠美が家でやり玉にあげられることもないだろう、と。所でその肝心の珠美だが。
「あー、美味しかったぁ」
などと言いながら、お腹をさすっていた。その姿に拓郎は苦笑しつつも、満足してくれたのであればそれで良かったと思う拓郎。その彼の前に、珠美一家がやってきた。そして父親であろう人物が口を開く。
「いや、素晴らしい料理だった。真美が押しかけて無理を言ってしまって申し訳なかったが……出されたものは予想をはるかに上回るものだった。正直に言えば、店を出してほしい位だ……定期的に通いたい、というのは偽りのない本心ですよ。まさか学生がここまでの素晴らしい牛タンシチューを作れるとは、いい意味で想定外でした」
こちらも満足してくれたか、と拓郎は内心で頷いていた。そして口を開く。
「まあ、教えてくれた人がみっちりと仕込んでくれましたので。満足して頂けたのであれば、こちらとしても安心できます」
拓郎の答えを聞いて、次に口を開いたのは珠美の母親と思われる人物だ。
「私は夫ほど舌も鼻も敏感ではありませんが、それでもとても美味しいというのが正直な感想でした。若い子達に混ざって我先にと牛タンシチューを器に盛りつけて食べるなんて行動をしてしまったのは、生まれて初めてです。そこまでさせる物が、確かに貴方が作ってくださった牛タンシチューにはありました。素晴らしい物を口にできる機会を下さったことに感謝いたします」
この言葉に、拓郎は「満足いただけた様で安心しました」と返答。最後に口を開いたのは真美だ。
「淑女としてはしたない真似をしたにもかかわらず、このような場を設けて頂いたことに感謝いたします。実に素晴らしい料理でした……父には申し訳ないのですが、今まで食べた料理の中で一番おいしかったと思える料理でした。多くの皆さんが取り合いをしたのも納得という物です。最高のひと時を過ごさせていただきました」
真美の言葉に、拓郎は静かに頷いて応えた。そして、珠美の父親から差し出されるお金。仕込みにかかったお金を考えても十二分の金額であり、拓郎は素直にそれを受け取った。
「代金、確かに受け取りました」「いや、金額以上の価値がありました。むしろ申し訳ないぐらいです……それと、今後ももし時間があれば腕を振るって頂けるとありがたいです」
そのやり取りの後、クラスメイト達も次々とお金を出してきたので受け取る。このことは校長先生にも前もって伝えられているので、問題はない。そして解散となる訳だが……当然のごとく拓郎とジェシカ以外の面子は大きく動けず、結局帰りの途につけたのは2時間ぐらい後だった。
クラスメイト達と別れ、拓郎はクレアとジェシカと一緒に帰り路を進んでいた。当然今日のお昼の事が話に上がる。
「コックとしてもやっていけそうね」「教えてくれた人の腕が良かったからだけどなぁ……正直に言えば、クレアの作る牛タンシチューの方がさらに美味しいと思う」「それでも、格段に美味しくなりましたよ。今後も腕を磨けばお姉さまの作るものにかなり近づけると思いますよ」
なんてやり取りを交えながら平和なひと時を過ごす。その一方で珠美の方は──
「素晴らしい味だった。正直、ここ数年で食べた料理の中で一番の味だったと思う。まさか、学生があれだけの味を出せるとは……いまだに信じ難いが、事実だからな」
珠美の父親が、帰宅途中でそんな本音を漏らす。その本音に追従したのは真美だ。
「あれだけの味を出すには長年をかけて相当な修行をするか、持って生まれた天性があるかとかじゃないと出せませんよね? お姉さま、彼は一体どういうお方なんですの?」
真美の問いかけに、珠美は困りながらも返答する。
「うーん、正直あそこまで拓郎君の料理の腕が凄いなんて知ったのはそんな前の事じゃないんだよね……彼の作る牛タンのシチューだって、初めて口にしたのは先週の土曜日だったし。それに、普段はクレア先生やジェシカ先生の指導を受けながらの魔法の訓練に邁進してるから……いつ料理の修行をしてたんだろうってのは正直謎なのよねー」
珠美も正直な感想と事実を交えて真美へ返答する言葉を紡ぐ。珠美も拓郎の料理の腕に関して知ったのはそう昔の事ではないので分からない事の方が多いのだ。
「でも、確かに凄かったわね彼の料理は。彼の所に突撃したと真美から聞いた時は何をやっているのと怒ったけれど……今日の味を知ってしまったらあんまり怒れないわ。それでも真美、もう彼の元に押し掛けるなんて真似はしないで頂戴ね……これ以上の迷惑はかける物じゃないわ」
と、珠美の母親は拓郎の料理を褒めつつも、真美が暴走しないように窘めていた。こうしてこの件はいったん落ち着くのだが、クラスメイトの視線が、時々拓郎に対して上手い物を作って欲しいとねだるようなモノになったのは仕方がない事だろう……
関東はかなり暖かくなりましたね。まあ、また寒くなるんでしょうけど。




