121話
それから二週間ほどが経過し、拓郎の料理教室は盛況な状態が続いていた。ジェシカも加わり、四苦八苦しながらも料理に挑んでいる。そして拓郎の目論見通り──
「いやあ、こういう料理を学ぶ良さってのが分かってきたぜ。勉強ばっかりで滅入った時の気分転換に本当良いって感じでな……教えて貰ったハンバーグを家族にふるまったら驚かれたぜ」「私も驚かれた、予想以上に美味しいって。どれだけおいしくないのが出てくるのと思っていたのかってちょっとだけイラっとはしたけど」
なんて言葉が拓郎に伝えられる。拓郎はそういった声にサムズアップで応えながらどういう料理を学びたいかのアンケートを取っていく。学びたい料理があれば、今後の郷里教室にも力を入れられると思ったからだ──そしてそのアンケートの上位に来た料理の一つに牛タンのシチューが上げられていた。
「本気か? もっと楽なものを選んだ方が良いと思うんだが……」
アンケートの結果を受けて、拓郎が頭を抱えていた。その拓郎の姿を見た雄一と珠美は予想できたことだろうと呟いた。
「拓郎の作った牛タンのシチュー、あれを自分でも作れるようになりたいってのは無理のない感情じゃないか? 同じもの、とはいかなくてもできる限り近い味を出せるようになれば、食いたいときに食えるんだしよ」
雄一の言葉に珠美も続く。
「そうよねー。あれに近い味が作れるようになるとなれば、そりゃみんな必死で料理の訓練を続けられる原動力になると思うよ。妹の真美も、最近ちらちらっと私の方を見ながら時々「シチュー」とか口にしてるよ。拓郎君にまた作ってほしいって伝えろと言う圧がもの凄いの。気持ちは分かるけど、わが妹ながら食い意地が張りすぎなのよ」
雄一と珠美の言葉を聞いて、拓郎は盛大にため息をついた。牛タンのシチューも比較的簡単にできる方法はある。が、クラスメイトの皆が作りたいシチューはそれではない。しっかり仕込んでうまみがぎっしりと詰まった拓郎が出した牛タンのシチューが食べたいのである。
「まあ、このタイミングだから言うけどな? 以前拓郎が真美のご家族や校長先生に牛タンのシチューを出した時があったじゃないか? あの時家に帰ったら、家族からすごいいい香りがするんだが、何を食べて来たって詰め寄られてな。特に姉と弟からはすごく突き上げを喰らった。で、正直に言わざるを得なくなったんだが滅茶苦茶羨ましがられた」
どうやらあの日の夜、雄一もかなり家族からあれこれ言われたようである。
「食いたいとか、レシピを教えて貰えない? とかすげえ詰め寄られた。流石にそれは無理だって言ったんだが──もし教えて貰えるなら、良い目標になるというのは保証するぜ。もちろん作れるようになるのはずっと後でいい、卒業までに作り方と、それが出来るだけの腕を磨く方法を教えて貰えれば」
雄一からの言葉に、拓郎は腕組みをしてうーんとうなった。あの牛タンシチューは、本格的な作り方をしているため一朝一夕で作れるだけの腕が身につくわけではない。無いが、これから卒業まで頑張れば何とかある程度近い物は作れるようになる可能性はある。そこから先は個人個人で腕を磨くほかないが──
「しかしそうなると、気分転換を兼ねた物から、かなりガチ目の訓練に移行する事になる部分が出てきてしまうぞ? それだけやってなお、時間的にある程度レベルにしか行けないだろう。そこから先は各個人が学んだ事を下敷きにして努力してもらうしかなくなる。それじゃあ受験勉強の息抜きとは絶対言えないぞ?」
拓郎があと何回料理教室を開けるかの計算から導き出される結果を想像し、雄一と珠美に告げる。拓郎としてみれば、受験版今日を第一にすべきなこの時期にさらにタスクを積み上げるような真似をするのは間違っているんじゃないかという心境になるのは当然だろう。が、それを否定したのは雄一でも珠美でもなく──
「あれに少しでも近い味が作れるならやるさ! 拓郎にプレッシャーをかけたくないから伝えなかったけど、実は親に無理を言って遠めの牛タンシチューを出す店に連れて行ってもらったんだ。で、食べて見て思った事は美味しいのは事実だったんだけど物足りないなってなっちまった。親は美味しいと言ってたけど……な」
というクラスメイトの男子の言葉だった。そこからは雪崩のように次々と拓郎にあの時の味を求めたが、出会う事は出来ていないという声がいくつも続く。最後に珠美がぽつりとつぶやいた。
「うちの家族もあれから何回か牛タンのシチューを求めていくつかのお店を回ったのよねー。でもやっぱり、あの時の拓路君が出してくれた美味しい牛タンのシチューは出てこなくて。父と妹がおいしいんだけど、物足りないっていうのよね。いや、嘘ついちゃダメか……私もそう思ったし、今まで食べ物にそこまで執着していなかった母までも、牛タンのシチューだけは同じ感想を持つようになっちゃったのよ」
珠美の言葉に、クラスメイト達がうなずく。自分の家族が拓郎の牛タンシチューを食べれば、同じようになる姿が簡単に想像できたからだろう。そう思わせるだけの味があったのだ。
「みんなの意見は分かった。そのうえであと一回だけ聞くぞ? 本気でやるのか? あの味をある程度でも出すとなれば、残りの料理教室の時間は修行レベルの厳しさに代わるぞ? 包丁の使い方、材料の切り方と言った部分から滅茶苦茶厳しくなるぞ? 適切な材料の処置が出来なかったらあの味は出せない。だからおしゃべりを挟みながら学ぶっていう空気は消えるんだが」
拓郎の最終確認に、反対意見は上がらなかった。そして、自壊からの料理教室は各自の料理の腕を上げるための修行場へと姿を変える事になった。
「ほんとに物好きだな、皆。受験勉強で大変で疲れてるだろうに」「そうさせるだけの味が、あのシチューにはあったって事だよ拓郎。明確なゴールが見えているなら頑張れる、受験勉強でも料理でも同じだぜ」
拓郎の言葉に一人のクラスメイトが返答し、他のクラスメイトたちは皆頷いた。食欲がどんな苦労があってもかまわないとクラスメイト達に決断させた瞬間であった……
「という事で、次からは厳しめにやる事になりそうなんだ」
その日の夜、拓郎からの報告を聞いたクレアとジェシカはぷっ、と噴出した。
「やっぱりあの味を忘れる事は出来なかったようね」「食欲はなかなか抑える事はできませんからね。笑うのは失礼とは分かっているのですが、どうしても」
それからしばしくすくすと笑った後にクレアが口を開く。
「でも、それだけのやる気があるなら合宿前にそこそこの腕にはなりそうね。そこで料理の腕前を披露してもらいましょうか、初日の夜辺りで」
景品も用意しようかしら、とクレアは楽しそうに考える。ここで拓郎はその事は前もって伝えて置くかサプライズにするのか、どっちがいいだろうと問いかける。
「そうですね、サプライズにしましょうか。その方が面白そうですし……腕がはっきりと見れそうです。ですので、拓郎さんは教えないようにお願いしますね」
とジェシカに言われたことで拓郎は頷いた。こうして受験勉強だけでなく料理にも励むことになったクラスメイトの知らない所で、一つの話が進む事となった。




