黒の君の異変
「……」
ゆさゆさと自分を揺さぶる感覚にアシルが目を覚ますと、そこには無言で顔を覗き込む美しい少女の姿があった。
やっとアシルが目を開けた事に安堵したのか、ほっとしたように表情を緩めたエルが目に映る。
「……おはよ、エル」
アシルがそう言って目を細めると、エルは一瞬目を見開き、瞬きを繰り返しながら小さく頷いた。
そんなエルの頭をぽんぽんと撫でたアシルは欠伸をしながら起き上がり、朝の支度を始めた。
服を着替えて寝室を出るアシルの後ろを、エルがとてとてと小さな足音をたてて続いていく。
そしてアシルが食卓につくとおぼつかない手で給仕を始めた。
その様子を繁々と眺めていると、それに気付いたエルは大きな目を瞬かせてこてんと首を傾げた。
「……なんでもない」
そう言って朝食に手を付けながらも、アシルはぼんやりと考える。
エルがアシル付きの侍女見習いになってから約一月が経った今、漸くエルはアシルの行動に反応を示すようになった。
前は無表情で視線だけを左右する事が殆どだったのが、今ではこうして目を瞬かせたり首を傾げたりと年相応の可愛らしい仕草をする。
アシルは、そんなエルの些細な変化に自分が喜びを感じている事に気付いた。
しかし人間とは欲深い生き物で。
ここ最近のアシルはエルの些細な変化に飽き足らず、次なる変化を強く求めていた。
―――笑った顔はどんなものなのだろう?声は?
エルの事を深く、もっと深く知りたいと感じている自分に驚きを隠せなかった。
しかしその想いとは裏腹に、一月経った今でもアシルがこの美しい少女について知っている事は"エル"という愛称だけだった。
美しく煌めく金色の髪に手を伸ばすと、エルは怯える事なくそれを受け入れた。
さらりと触り心地の良い感触を指先に感じながら髪を梳くと、エルは喉を鳴らす猫の様に心地良さそうに目を細めた。
―――……
ハッとして手を引っ込める。
不意に過った不思議な感情に戸惑ったアシルは、咄嗟に緑色の瞳から目を逸らした。
―――何だ、今のは……?
くい、と引っ張られる感覚を感じて視線を移すと、エルがアシルの服の裾を遠慮がちに引っ張っているのが見えた。
視線を上げると、眉をハの字にして困惑したように首を傾げたエルが目に映った。
そしてまた、あの感覚が一瞬心を掠めて。
気が付いた時には、アシルはエルの手を振りほどいて咄嗟に距離を取っていた。
そして再びハッとした時には既に遅く、エルの瞳は悲しげに揺れていて。
暫し視線を下の方でさ迷わせたエルは、小さく頭を下げて部屋を出ていった。
「……くそ、っ」
一体何なんだ今の不愉快な感覚はと眉を顰め、今しがた自分がエルに対して取った行動に胸に小さな刺が刺さったような気分になった。
と、そんな時。
部屋の扉が無遠慮にもノック無しで勢い良く開け放たれた。
扉を開けた張本人は、ずかずかとアシルの前へ歩み寄るなり物凄い形相でアシルを睨み付けた。
「俺の可愛いエルを悲しませたのはお前か?」
仮にも自分を雇っている屋敷の人間に対してそんな目を向けていいものか。
と言いたくなる程蔑みと怒りを込めた瞳で言ったのは、かつてアシルとその双子の兄の教育係であったフィリクス・ベルクールだ。
肩下辺りまでの艶やかな黒髪は後ろで一つに束ねられ、左耳にはシルバーが光る。
海のように深い蒼の瞳に怒りを滲ませた彼は、そんな表情ですら"色気"という物に変わる程の整った見目をしている。
アシルよりも四つ歳上なだけあり、アシルよりも大人っぽい雰囲気を醸し出している。
対してアシルも、フィリクスの言葉にぴくりと反応した。
「俺の……?エルはいつからお前の物になったんだよオッサン」
「あんだけ懐いてりゃ俺のもんも同然だろぉがクソガキ」
それに俺はまだ二十代だ!と更に眉にシワを寄せた。
彼の言う事はあながち間違いではなく、エルはこの屋敷の中で唯一アシルとフィリクスだけに懐いているのだ。
「何キモい事言ってんだよロリコン野郎が」
「俺がロリコンならお前もロリコンだろぉが」
「ふざけんな。自分とあいつの年齢差考えてみろよオッサン」
「そっくりそのまま返すわ。お前だって十は軽く離れてんだろ」
「はぁ?……そもそもあいつって何歳なんだよ」
「………知るかクソガキ」
フィリクスは今はエルの教育係について、屋敷に住み込んでいる。
もしかして言葉が分からず話せないのかと気にかけたアランブール侯爵が最低限の教養を付けさせるように頼んだのだ。
しかし結局のところ言葉は理解してるみたいなので、今はこの国の歴史や算術を教える(という名目でエルを相手にして癒される)日々を送っている。
「で、何したんだよ。泣きそうな顔してたぞ」
"泣いてないけど"と少し表情を曇らせ、フィリクスは視線を落とした。
エルは、泣かない。
この一月間、アシルはエルの親の話題を何度か振った。
その度に泣きそうな目になるのに、泣かない。
きっと感情が無いのではなく、隠している。
喜びも、怒りも、悲しみも。
それら何一つ、アシル達の前で見せようとしないのだ。
「何したか知らねぇけど、取り敢えず慰めてこい。俺の部屋にいるから」
「は…?何でお前の部屋にいるんだよ」
そう言いながら、アシルは眉間にシワを寄せた。
「何だよお前、泣かしといて一丁前に妬いてんのか」
くく、と忍び笑いを漏らしたフィリクスに、アシルが更に鋭い視線を向ける。
「まだ泣いてねぇんだろ」
「泣いてるよ」
「…は?」
フィリクスは、不意に真面目な顔をしてそう言った。
「あの子はここへ来た時から、ずっと泣いてる」
そう呟いたフィリクスはあまりにも真剣な表情で、アシルは暫く口を開けなかった。