ガルデニア
アシルは、アランブール侯爵の第二子息である。
柔らかそうな蜂蜜色の髪と、同色の瞳。
服や身の回りの物では黒い物を好んでおり、屋敷の侍女達からは密やかに"黒の君"と呼ばれている。
そして世の女性達を虜にする美しい容姿で、屋敷の侍女の殆どは彼に翻弄されている。
そんな女性の扱いに慣れた彼でも、一人の少女にはお手上げ状態だった。
それは、つい最近新しい侍女見習いとしてこの屋敷に来たエルである。
恐ろしく整った顔の彼女は、恐ろしく無表情で。
アシルが何か話し掛けても、興味無さげにぼんやりとしているだけだった。
原因は分からないが口が聞けない様子のエルは、人と対話するという事に特に必要性を感じていないようだ。
そんな彼女は、白い肌の美しい容姿から侍女達の間では美しく白い花―ガルデニア―の様だと大変気に入られ、愛でられていた。
「お前、何で口聞けないの?」
午後のお茶の時間。
この日は初めてエルに一人での給仕を任されていた。
テラスへ続くガラスの扉を開け放ち、その側にテーブルを置いて静かにお茶を楽しむ。
そんな心地よい空間の中で溢された言葉に、エルは表情を変える事無く視線だけをアシルへ向けた。
感情の籠っていない虚ろな瞳。
外から差し込む光に照らされたガラス玉の様な緑色のそれを、アシルは不覚にも美しいと感じた。
暫くアシルへ向いていたそれは、ゆっくりとした瞬きと共に再び手元に戻された。
やはり成り立たなかった会話に、アシルは小さく息を吐いてカップに口を付けた。
こちらの声に一応反応するところを見ると、耳が聞こえないわけではないらしい。
なら、何故口が聞けないのか。
生まれつきか、それとも何か病気にかかったのか。
そんなことをぼんやりと考えていたアシルは、再びエルへ視線を向けた。
―――ガルデニア、か…
アシルは侍女達が漏らしていた会話を思い出す。
確かに、この少女は美しい。
容姿もだが仕草や表情佇まい等この少女から滲み出る雰囲気は、町人の娘のそれではない様に感じる。
例えるなら、貴族の娘のそれに近い物だ。
間違ってもボロを来て森をうろうろと徘徊しているような育ちではないように思うのだが、しかし口が聞けぬこの少女からは何の情報も得られなかった。
何故、このような美しく気品ある少女が、あの様な森でうろついていたのか。
疑問を胸に抱きながらも、対話の成り立たない状況ではどうすることもできない。
「親はいないのか?」
少しでもエルの感情を覗き見ようと試みて言ったアシルの言葉に、エルの瞳に微かな影が落ちた。
それを見逃さなかったアシル。
即座にカップを置いてエルへ手を伸ばした。
不意に自分の手を取ったアシルにびくりと身体を震わせたエルは、アシルへ視線を向けた。
相変わらず無表情にも見えるが、その瞳には僅かな恐怖が見え隠れしている。
「大丈夫、何もしないから」
視線を合わせて落ち着かせるようにアシルが言うと、強張っていたエルの体から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
何も言わずにじっとこちらを見るエルに、アシルは何故か胸を強く掴まれたような気持ちになった。
虚ろなままだがしっかりとアシルを映し出しているその瞳が、自分を縋っているような気がした。
表情も無く声もない少女の、助けを叫ぶような声が聞こえてくるようで。
この少女の声が聞きたい。笑顔が見たい。
アシルは、そう思った。
「エル、俺の側に遣えろ」
じっと目を見据えて言ったアシルに、エルは一瞬目を見開き、そして小さく頷いた。