13.結局「語彙」ってなんでしょう
しばらくぶりの更新です。
自分が昔書いた文章がちょっと気恥ずかしかったりするのですが、大筋では考えも変わっていないのでそのままにしておきます。
ご無沙汰してます彦星です。
最後に更新してから、んー、小説全体で見ても一年以上。その間に論文を四本ほど書いたり、芝居の脚本のお仕事から発展して演じる方に開眼したり、自分のサイトを持ったりと色々活動しておりました。
正直、自分がこんな風にハウツー風の文章術エッセイを書いてよいものかと考えることもなくもなかったのですが、自分の得たものをフィードバックしてナンボとの考え方もあると思い直し……あと、このエッセイは発表後かなり時間がたっているにも関わらず結構アクセスがあると気付き、もうちょい自己アピールしてみようと思った気持ちもなくもないです。
そんなわけで、少々アカデミックに進化した彦星のエッセイに、今後もお付き合いいただければ幸いです。
さて、今回お話したいのは「語彙」について。
(彦星はこの「彙」の字を書くのが非常に苦手です。パソコンがあってよかった)
まあ念のため、念のため言葉の説明をすると、要するに「言葉をどのくらい知っているか」ということ。英語で言うところのボキャブラリー。
つづりはvocabularyなんですが、誰も「ヴォキャブラリー」と書かないところを見ると、結構古くからある外来語なのかもしれないと思います。単にテレビ番組の影響かもですが。
自分がいくつくらい言葉を知っているのか数えるのはまず不可能ですが、「語彙力」で検索すると様々な調べ方が出てきます。
オーソドックスなものは、単語のリストを見て何番までわかるか調べるもの。あと、フラッシュなどでゲーム風になっているものもあります。内容も、目安としての単語量を測るものや、紛らわしい選択肢から選ぶもの、経済用語など現代の言葉をターゲットにしたものなど様々です。
えーと彦星の場合、検索して最初に出てきた「語彙力推定テスト」を使った結果、おおよそ53100語を知っているという結果になりました。ま、それなりによい結果だと思います。
あとで検索すればわかることですが、このテストによれば高校生レベルで40000語前後、中学生でも最低20000語は知っている(べき)とのことです。
さてでは本題、この「語彙力」は、小説を書く上でどのくらい必要なのか。
彦星の主観を先に言ってしまいましょう。「何が書きたいかによる」
語彙力はあった方がいいに決まっています。しかし、語彙力をひけらかすような書き方をしてしまっては、無自覚に読者層を絞ることになってしまいます。また、意図が思ったように伝わらない可能性もあります。
・彼は朴念仁だった。
と書く場合と、
・彼は無口で無愛想だった。
と書く場合。「大差ないな」と思うのであれば、後者を使うに越したことはないでしょう。
そういった意味では、変に難しい言葉は知らない、という方が書きやすい場合があるかもしれません。
かといって語彙力が軽視できないのは、語彙力がなければ「その単語は簡単な単語なのかどうか」さえ判断しにくいためです。
人間、自分が興味を持っている分野に関してなどは、全体的な語彙力に関係なくやや難しい単語を知っているものです。また、一部地域でしか使われていない言い回しや、業界用語の類もあります。「これはマイナーな単語だ、使わない方がよい」と判断するためには、やはりそれなりの語彙力が必要となってくるのです。
ここまでまとめると、「語彙力はあるに越したことはない。但し、意味もなく難しい言葉を使うのはやめよう」。ま、妥当な考えだと思っています。
では、これが本当に実践できるのかといえば、そこには一つ、大きな壁があります。
それは、「難しい言葉を言いかえる」技術。
具体的な例をあげましょう。
これは秋田大学の後藤文彦さん(先生ですがこう呼ぶことを推奨されています)が、プレゼンテーションのノウハウについて語っているページに出てきた例です(該当ページはクリエイティブ・コモンズ…えーと、要するに条件付きで複製とかができるよ、ということなので、あとがきにクレジットを載せておきます)。そのまま引用します。
――例えば、日本語のあまり得意ではない留学生と 日本人の学生が日本語で会話していると、日本人の学生が発した単語や言い回しが留学生に理解されないことが よくある。そんなとき、 私はそばで聴いていて、 もっと簡単な単語だけを使って話してあげればいいのにとつくづく思うのであるが、 学生さんたちは、どうしてなかなか、 簡単に言い換えることができずに、同じ(理解されていない)表現を 何回もゆっくりと繰り返したりしてしまうのである。 例えば、「健康診断」が理解されなかったら、「身長を測ったり、体重を測ったり」とでも言い換えればいいし、それでも理解されなかったら、「体の長さを測ったり、体の重さを測ったり」とか 身振り手振りを交えてどんどん(わかってもらえるまで)言い換えていけばいいものを、こういう言い換えもそれなりの 慣れと語彙力・作文力・語学力が必要とされているということなのかも知れない。
もうひとつ、今度は実話です。
ある日うちの大学に来た講師の方が、ポケットサイズの英英辞典(英単語に英語の説明が付いている辞書)を持ってきました。様々な単語について、一行かそこらで説明がついています。
さて、日本語で構いません。「dog=犬」について、一言で説明してください。
できましたか?
はい、辞書はこうなっていました。「家屋などの番をさせることのある動物」
ここまで短く書けた人は、なかなか珍しいのではないかと思います。
講師の解説から受け売りですが、ここで「足が四本あって体長が……」と考えてしまうと上手くいきません。他の様々な動物にも当てはまってしまうからです。動物だということは「動物」と書いてしまえばわかるので、「犬」と「他の動物」では何が違うのか、を考える必要がある、とのことでした。
だいたい言いたいことは伝わったでしょうか?
今、書きたい小説を表現するのに必要な語彙力は持っているとしましょう。それを存分に発揮し、わかりやすい文体で仕上げるには
・それぞれの単語が難しすぎたりマイナーだったりしないか、気付く事ができる
・よろしくない単語をわかりやすい表現に変えることができる
という、二つの技術が必要になります。前者は推敲の際に心がければよいですが、後者は私もしょっちゅう悩まされる難題です。
もちろん逆の技術もあって、「この単語はここで使うには幼稚だ」という判断もできるに越したことはありません。どちらの技術が必要かは、当然何を書いているかによります。
どちらにせよ、「同じものについて、複数の方法で表現できる」技術は様々な場面で非常に役に立ちます。例えば、文学的な文章では「同じ言い回しを何度も使わない」ことがしばしば求められます(「10.文章を改良しよう(後編」を参照してください)。そういうときに複数の言葉を知っていれば、変化のある文章にすることが出来るでしょう。また、ファンタジーなどでどうしても「設定の説明」をしなければならない時、設定資料に書いた自分の言葉そのままを引用するのではなく、例えばこの登場人物(地の文の語り口を含む)ならこう話すだろうと考えたり、前提を長々と示さずに今必要な事柄だけを説明できないか試したりといった事は、読みやすい文を作る上で非常に価値があります。
長々と書きましたが、要するに「自分が読ませたい相手がこれを読んで、ちゃんと理解できるか客観的に判断する」これに尽きます。
もちろんすぐに出来るようにはなりませんが、頭の片隅に置いておくだけで少し変化があると思います。
次回は……そうだな、また少しざっくりした話になるかもです。
文中の引用は、
後藤文彦:良いプレゼンと悪いプレゼン(準備中),http://www.str.ce.akita-u.ac.jp/~gotou/tebiki/purezen.html
です。
クリエイティブ・コモンズ (表示-非営利-継承 2.1 日本) のもとでライセンスされているので、私の文章についても同じことが言えます。
まぁ、もし私の文章を引用・改変したいという奇特な人がいれば、調べてそれに従ってください。
その時は教えてくれると嬉しいです。