Page-Final 来栖杠葉の魔導書
次の日。
土曜日の半日授業を終えた月葉は、その足で是洞古書店へ向かっていた。
「まさか理音さんが魔術師だったなんて……驚きです」
「やはは、黙っててごめん、依姫」
隣には理音と依姫が歩いている。理音は昨晩、真夜と一緒に日和の本格的な治癒魔術を受けていた。重傷だった真夜は学校を休んだけれど、理音は普通に登校してきたのだ。彼女も骨が折れていてまだ完治はしていないらしいが、依姫に直接自分のことを話したいがために無理をしたようだ。
流石に昨夜の戦いのことは依姫には言っていない。戦闘の傷跡が残された学校だったが、どういうわけかあまり騒ぎにはならなかった。なにかしらの事故ということで処理されている。
理音曰く、魔術師協会が働きかけたかららしい。凛明高校は元々協会の魔術師が創設していて、その辺りの繋がりがあったので迅速に事後処理をできたとか。生徒や教職員は驚いていたが、授業も普通に行われていた。学校全域にそういうのをあまり気にしなくなる魔術でもかけられていたのだろうか。
アドリアンも所持していた魔書ごといつの間にか魔術師協会に引き渡されていた。魔術師協会本部の牢獄に幽閉されると聞いたが、それがどこにあるのか月葉は知らない。
商店街を歩き、裏通りを越え、自転車がやっとのことで通れるほどの狭い路地を抜ける。そうすると見えてくる古風な屋敷――是洞古書店の前に三人並んで立つ。
雲一つない澄み切った蒼穹の下、荘厳な雰囲気を纏う是洞古書店は超然と構えている。
「いよいよだね、月葉」
理音が言う。
「う、うん。どうしよう、すっごくドキドキしてる……」
ぎこちなく頷く月葉は期待と緊張で体がうずうずしていた。
これからこの是洞古書店で来栖杠葉――月葉の母親の魔導書を開くからだ。
昨日はあれからドタバタしていたので、そういう気分にはなれなかった。月葉も疲れていたし、念のため魔導書を店に預けて日を改めることにしたのだ。それが次の日、つまり今日である。
「楽しみですね。わたくしもワクワクしています。一体月葉さんの本にどのような秘密が隠されているのでしょうか? ああ、膨らんでいく想像が止まりません!」
理音は当然として、依姫も仲間外れにしたくなかったので連れてきた。魔術の存在を知っている上にオカルトマニアな彼女は、店に近づくにつれてテンションが上がり続けている。瞳を恍惚とさせて息を荒げる彼女の様子に理音が若干引いていた。
「いらっしゃーい。待ってたわよん」
店の中に入ると日和が笑顔で出迎えてくれた。彼女にも依姫が来ることは番号を交換した携帯電話で連絡していたので、なんの問題もなく軽く挨拶を交わして三人は地下書庫に案内される。
そこでは包帯を巻いた真夜がいつものどこかムスッとした無表情で待っていた。
「……」
彼は月葉たちを見てもなにも言わない。きっと挨拶という言葉を知らないのだ。だけど彼に笑顔で挨拶されると、それはそれで鳥肌が立ちそうだから嫌だ。
「……始めるぞ」
素っ気なく言って、真夜は手に持っていた来栖杠葉の魔導書を月葉に渡した。
「え? あれ? 真夜くんがやってくれるんじゃないの?」
てっきりそうだと思っていた月葉は戸惑ってあたふたする。
「この魔導書には最初に開く人間が指定されている。言うなればそれが最後の封印だ。そしてその鍵となる人物はお前だ、月葉」
「わ、私……?」
いきなりのことでつい自分自身を指差してしまう月葉。だが、封印に込められたメッセージを思い出せばそれが自然だろう。
「あ、だからあたしじゃ開かなかったのか」
理音が得心のいった様子でポンと手を叩いた。その横では依姫が地下書庫のオカルト的光景に頬を上気させつつ『?』を浮かべている。
「えっと、ど、どうすればいいの?」
「普通に開くことを意識してページを捲ればいい。そうすれば恐らく――」
月葉は緊張で狼狽えながら言われた通り表紙を繰る。
「――その魔導書は勝手に発動する」
瞬間――ピカァアアアッ!!
思わず目を瞑ってしまうほどの眩い光が魔導書から発せられ、「きゃっ」と月葉は短い悲鳴を上げた。
光はすぐに収まり、視力が回復していく。
恐る恐る月葉が瞼を開けると、そこには魔導書などなく――
「んん~……はふぅ。やっと発動かぁ。十年って長いなぁ」
研究者のような白衣を着た女性が目の前で思いっ切り伸びをしていた。
セミロングの髪に端整な顔立ち。モデル的スタイルは日和といい勝負であり、大人とは思えない瑞々しさを持つ肌は研究者のイメージとは違って健康的な白をしている。ツユクサを模した縹色のヘアピンで前髪を留め、くりっとした大きな瞳で地下書庫内を見回している彼女は――
「お、おっきい月葉だぁ」
「大人な月葉さんです」
まるで十年後の月葉を見ているのではないかと思うほど瓜二つだった。突然の事態を処理できず呆けている友人たちは置いといて、月葉は彼女を知っている。
「お……お母さん……?」
「「「お母さん!?」」」
日和、理音、依姫が声を揃えて驚愕する。写真の中の姿しか月葉は覚えていないが、確かにこの女性は月葉の母親――来栖杠葉で間違いない。
女性はこの場で一番放心している月葉を見つけて感激に目を丸くする。
「あらあらあら? その髪留め、もしかしてあなたが月葉? キャー♪ すっごく可愛い! 昔の私そっくり!」
近い距離を音もなく駆けてきた杠葉は犬のように月葉の周囲をくるくる回り、様々な角度から娘の成長を観察している。月葉はどうしたらいいかわからずただオロオロするだけだった。
「この人が、月葉のママ……?」
「おやおやおや? そういうそっちの子はもしかして……フォーチュンさんちのリオンちゃん? うわー、美人になっててビックリ。ウチの月葉ほどじゃないけど」
「あ、あたしを知ってるのか?」
ハイテンションで詰め寄られた理音がたじろぐ。杠葉は「あ、そっかぁ」となにかを納得したように息をつき、
「私のメモリーでは最近会ってるんだけど、覚えてないかなぁ? まあ、こんなにちっちゃかったから仕方ないよねぇ」
両手を小さく広げて当時の理音の身長を表現する。それは人間に対する表現方法とは違う気もするが、そんなことよりも先程からなにがなんだかさっぱりわからない。状況に置いてけぼりをくらって目を回しそうになる月葉である。
「その姉さんみたいなテンションをやめろ、来栖杠葉」
と、真夜がこの上なくウザったそうな口調で杠葉に言った。向こうでは日和が「え!? 私こんなの!?」と軽いショックを受けている。
「どういうことなのか説明しろ」
そう要求する真夜には答えず、杠葉は目を細めて彼をしばし凝視する。
「ん~? この子はデータにないなぁ。月葉かリオンちゃんの彼氏?」
「「とんでもない!?」」
真夜を指差してこちらを向く杠葉に、月葉と理音の否定の声が重なった。写真で見る母親の印象とはまるで違う。優しそうではあるけれど……。
「じゃあ、そっちの二人のどっちかかな?」
「いえ、わたくしは違います」
「私は姉よ、姉」
「あらそう? とにかくみんな月葉のお友達ってことでいいのね?」
「……第一段第三列」
「真夜くん待って攻撃しないで!?」
怒り沸点到達といった様子で〝書棚〟から魔導書を取り出そうとする真夜を、月葉は必死に手振りして諌めた。その遣り取りを眺めていた杠葉が考え込むように手を口元に持っていく。
「……なるほどなるほどなるほど、ここにいるほとんどの人間が魔術師もしくは魔導書使いってことか。じゃあ、月葉にその辺りの話はしなくてもよさそうね」
腰に手をあてて皆の顔を見回す杠葉。どうやら少しテンションが盛り下がったらしい。
「それで、どうして魔導書があなたに変化したのかしら?」
場が一旦落ち着いたことを見計らって、日和が代表して杠葉に訊ねる。
「もっともな疑問ね。確かに先に説明しないとみんな混乱するか」
コホン、と杠葉は態度を改めるように咳払いする。
「それはこれが私自慢の最新作――〝精神保存〟の魔導書だからよ。この時代からだと作ったのは十年前になるのかな? まあそこはいいとして、これは知識・記憶・人格の全てを永久的に保存し、発動中はこうやって思念体となって自由に動き回ることができるの」
ふわり、と〝浮遊〟の魔導書も使っていないのに杠葉が空中に浮かんだ。彼女はそのまま両腕を飛行機の翼のように広げて地下書庫内を飛び回る。その際、本棚を擦り抜けて通っていた。まるで幽霊だ。
「ちなみに、これでも今は暴走中だったりするのよ。勝手に発動したのはそのため。魔導書に封じられた私の意思で魔力を制御できるから、正直言うと暴走って感じじゃないんだけどねぇ」
天上擦れ擦れを旋回していた杠葉が元の位置にふんわりと着地する。
「ただまあ、保存できる精神は一人分だけ。そしてこれには既に私の精神が入ってるから、もう他の人には使えないのよね」
すると、真夜が微妙に感心した様子で鼻息を鳴らす。
「なるほど、文字通り〝来栖杠葉〟の魔導書ということか」
「あ、君それうまい。座布団一枚」
「いらん」
一言で切り捨てる真夜は、自分が恥ずかしいことを言ってしまったように顔をそむけた。
未だに困惑気味の月葉は母親をまじまじと見詰める。
「じゃあ、本当にお母さんなの?」
「そうよ、月葉。大きくなったわね。おいで、ぎゅってしてあげる」
優しくそう言って『胸に飛び込んでおいで』のポーズを取る杠葉。瞬間、月葉は思い出す。幼い頃、杠葉は帰って来る度に月葉をこうして抱き締めてくれていた。その時の光景が脳内で映像となって蘇ってくる。
今まで表に出て来なかった母親に対する感情が湧き起こり、涙腺の緩んだ月葉の目から嬉し涙が溢れた。もう自分を抑え切れない。
「お母さん!」
果たして幼かった頃の自分は彼女をそう呼んだことがあるのだろうか。そんなことを考えながら、月葉は母親の抱擁を受けるために彼女の胸へと飛び込んだ。が――
「あっ、この私は思念体だった」
「きゃうっ!?」
コテン、と母親の体を擦り抜けた月葉は勢い余ってすっ転んだ。そのまま本棚に額をぶつけて「う~」と唸る。
「フン、忘れっぽいところもそっくりだな」
嫌味を垂れる真夜に月葉は額を抑えながらムッとする。と、理音がおずおずと挙手した。
「あたしから質問いいかな? なんで月葉のためにこの魔導書を残したのさ?」
「いい質問ね、リオンちゃん。それはもちろん、忙しい本体の代わりに娘の誕生日を祝ってあげるため、かな」
「え?」
と月葉は間の抜けた声を上げた。誕生日、関係あったらしい。
「でもでも、お母さん、私の誕生日なら今までもあったよ?」
言うと杠葉は顔の横で人差し指を立て、思案するようにくるくると何度も小円を描きながら、
「充分な発動時間を稼ぐための魔力を溜めるのに十年かかる計算だったってこともあるけど、月葉は今日で十六歳よね? もしかしたら十年の間で変わってるかもしれないけど、十六歳と言えば日本だと結婚できる歳だったはず。それを祝おうと思ったのよ。ついでに魔術の存在も教えとこっかなって考えてたけど、そっちは必要なかったね」
結婚できる歳……まさかそんな理由だとは予想外過ぎた。そもそも結婚なんてまだまだ先の話だ。どうせなら二十歳の方がよかったのではないだろうかと思う月葉である。
ただ、一つ謝っておかなければならない。
「えっと、その、お母さん、ごめんなさい。誕生日は昨日だったんだけど……」
「え? あれあれあれ? 私としたことが娘の誕生日を間違えちゃった感じ?」
絵に描いたように狼狽する杠葉に釣られて。月葉も慌てて訂正する。
「ううん、違うの。昨日はいろいろあって魔導書を開けなかったから」
「あらそうなんだ? だったらいいんだけど。てっきり私の本体が忙しくて連絡遅れたのかなぁって思った」
「――あっ」
そこで、月葉はようやく気がついた。
――このお母さんは、本物のお母さんが死んじゃったことを知らないんだ。
当然だろう。彼女は本物の杠葉が魔導書に込めた時の記憶までしかないのだから。現に幼い理音に会ったことが最近と言っていた。
「そうそうそう、ところで今の私ってなにしてるの?」
好奇心旺盛な笑みを満面に咲かせた杠葉が、とんでもないことを訊いてきた。
…………。
地下書庫が一気に静まり返った。日和と理音、依姫は杠葉と目を合わさないように俯き加減で顔を反らしている。月葉もなんと言えばいいのかわからず石化したみたいに固まっていた。
「え? え? え? なになになに? みんなどうしたのかなぁ?」
月葉並の慌てっぷりでキョロキョロする杠葉。そういう自分と似ているところを見ると、やはり彼女は母親なのだなと月葉は実感する。
皆が黙り込んでいると、仕方ない、というように真夜が溜息をついた。
「来栖杠葉はとっくに死んでいる。〝精神保存〟の魔導書が十年前に作成した物だと言うのなら、恐らくそれが最後の一冊だ」
真夜が告げた事実を聞き、杠葉はポカンとして一時停止ボタンでも押されたかのように固まった。そのまま何秒か経った後に、彼女は静かに目を伏せてゆっくりと口を開く。
「……そっか。死んじゃったのかぁ、私。なんか未来のことを告げられたみたいで実感湧かないなぁ。ていうか、そうなるとこの私って差し詰め幽霊みたいなもんだよねぇ」
「お母さん……」
月葉も悲しくなってくる。これまではそんなことなかったのに、実際にこうして母親と会話してしまうとどうしても感情が揺さ振られてしまう。
そんな娘の姿を見た杠葉は、「よし!」と気合いの入った大声を発する。
「はーい! この話はここまで! 私のことなんて気にしない気にしない気にしなーい!」
パンパン! と杠葉は手を叩いたつもりなのだろうが、思念体なので音は鳴らなかった。
「私は娘の誕生日を祝うためにここにいるのよ? 私の本体のせいで空気重たくなっちゃったけど、月葉のために気を取り直してパーッと盛り上がろう盛り上がろう! も一つおまけに盛り上がろう!」
オー! とグーに握った手を天井に突き上げる杠葉。そのおかげで地下書庫内に籠っていた重たい空気が払拭される。
「そうですね。わたくしたちもまだ、月葉さんのお誕生日パーティーをやってませんし」
と笑顔で、依姫。
「おっしゃあーっ! そんなら早速ケーキ買ってこようケーキ! あのバイキングの店ってもう直ってるっけ?」
そう人一倍元気よく、理音。
「飲み物とお菓子ならウチにいっぱいあるわよん」
ぐっとサムズアップとウィンクをする日和。
「……フン」
真夜は相変わらず鼻息を鳴らして明後日の方向を向いているが、その横顔が心なしか微笑んでいるように月葉には見えた。
「みんな……くすん……」
自分を想ってくれる皆の心が伝わり、月葉の相好も自然と崩れる。嬉し涙が止まらない。
「うんうんうん、こういう楽しい空気が一番よ。まあ、私の参加はここまでだけど、みんな明るくね。ウチの月葉を悲しませないでね」
「え? お母さん、それってどういう意味?」
「おっと月葉、悲しまないで」
表情を曇らせかける月葉を、ビシッ! と杠葉は掌低を突きつけて制する。
「この〝精神保存〟の魔導書は、一年分の貯蓄魔力で一分しか発動できないのよ。もうすぐ十分経つから、こうやって具象できる時間も残り少ない。だから、最後に言っておくね」
杠葉はそこで一旦言葉を切り、娘を想う感情を声に載せるような『溜め』を作ってから、穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「月葉、一日遅れたけど、十六歳のお誕生日おめでとう」
母親としての最高の微笑みを浮かべる杠葉に、月葉はもう自分でもどうしようもないくらいとめどなく目から感涙が溢れていた。
「お母さん」
母を呼ぶ。
「お母さん」
もう一度、呼ぶ。
「……時間ね」
来栖杠葉の思念体が光に包まれる。いっそ神々しさすら感じる光を纏った杠葉は、触れられないと知っているのに、涙を流す月葉の頬にそっと手を添えた。
「大丈夫。この記憶は次の発動の時に引き継がれるから」
触れられないのに、杠葉は月葉の愛撫をやめない。そして――
「またいつか、会いましょう」
最後にそう残して、母親の光は一点に収斂し、元の魔導書へと変わった。
月葉は床に落ちた魔導書を拾い、ぎゅっと大切に胸に抱き締める。
「よかったですね、月葉さん」
「えぐ、えぐ……あれ? おっかしいなぁ。なんであたしが泣いてんだぁ?」
貰い泣きをしてくれる友人たちに月葉は微笑みを返す。
「きっとすぐに会えるわよ」
「はい、私もそう思います」
慰めではなく確信を持った日和の言葉に、月葉も強く共感する。
それから、月葉は腕を組んで人形のように佇んでいる真夜を見る。彼にはなによりも先に言いたいことがあるのだ。
「真夜くん」
「……なんだ?」
呼ぶと一秒ほど間を開けて応えてくれる。これはいつも通り。
月葉は目尻に溜まった涙を指で拭い取りながら、
「お母さんの魔導書を守ってくれて、私をお母さんに会わせてくれて――」
この想いを輝く笑顔と一言に込めて、言う。
「――ありがとう」