あなたとの婚約より、焼きたてのパンのほうが大切です
エレノア・フィルディングは、幼い頃からパンが好きだった。それも、朝食ではパンを選ぶことが多いという程度の可愛らしい好みではない。侯爵家の令嬢として生まれた彼女の食卓には、高価な菓子も珍しい果物も望めばいくらでも並べられた。遠い南国から運ばれてきた瑞々しい果実も、王都で評判の菓子職人が作る繊細な焼き菓子も幼い頃から何度となく口にしている。それでもエレノアが毎朝もっとも楽しみにしていたのは、厨房の窯から出されたばかりのパンだった。焼き上がった表面へナイフを入れた時の小さな音も、割ったところから立ち昇る湯気も、小麦とバターの香りも好きだった。朝食のパンがおいしければ、それだけで一日の始まりが素敵なものになる。反対に焼きすぎて硬くなっていれば、食事を終えたあと厨房まで足を運び、料理人に焼き時間について相談するほどだった。
もっとも、この国においてパンは、それほど多彩な食べ物ではない。上等な小麦を使った貴族向けの白いパンと、庶民が日常的に口にする黒っぽく硬いパン。地方によって形や大きさ、使われる穀物に多少の違いはあるものの、基本的には料理と一緒に腹を満たすための主食であり、わざわざパンそのものの味を追求する者は少なかった。エレノアには、それが幼い頃から不思議で仕方がなかった。小麦の種類を変えれば香りが変わるし、焼き時間が少し違うだけでも食感は変わる。バターを多く使ったものとそうでないものでは、同じ白いパンでもまるで別物になる。それほど違いが生まれるのだから、もっと色々なパンがあってもいいのではないかと考えていた。
十五歳の頃には、朝食に並べられたパンとチーズを交互に食べながら、一つのことを思いついた。別々に食べてもこれほど相性がいいのなら、最初から一つにしてしまえばもっとおいしいのではないか。そう考えたエレノアは、その日の午後には厨房へ向かっていた。
「パンの中にチーズを入れてから焼いてみたいの。焼きたてを割ったら、中から温かいチーズが出てくるのよ。絶対においしいと思うわ」
「お嬢様。パンとチーズでしたら、今までどおり一緒にお召し上がりになればよろしいのではありませんか? わざわざ中へ入れなくとも、味は変わらないと思いますが」
「それでは駄目なの。最初から一緒に焼くからいいのよ。お願い、一度だけ試してみましょう」
料理長は随分と渋ったものの、最終的には根負けした。しかし結果は散々だった。焼いている途中で溶けたチーズが生地の隙間から流れ出し、窯の中へ落ちて焦げついたのである。厨房には焦げたチーズの臭いが充満し、掃除にも随分と時間がかかった。料理長から真剣な顔で「今後チーズはパンの横に置いてお出ししますので、それでご満足ください」と頼まれ、エレノアもさすがに申し訳なくなって諦めた。
他にも試してみたいものはいくつもあった。果物を砂糖で煮詰めたものをパンの中へ入れれば、菓子のように食べられるのではないか。砂糖やバターをもっと使って、パンそのものを甘くすることはできないだろうか。肉料理を食べている最中には、切ったパンに肉と野菜を挟んでしまえば、皿を使わず一緒に食べられるのではないかと思いついたこともある。しかし、そのどれも実際に試すことはなかった。侯爵令嬢であるエレノアには学ぶべきことが山ほどあり、パンのことばかり考えていられるほど暇ではなかったからだ。
十八歳になった現在は、なおさらだった。貴族令嬢として必要な教養だけではなく、結婚後に必要となる知識まで学ばなければならない。エレノアには八年前から婚約している男性がおり、結婚の日も少しずつ近づいていた。相手はローデン伯爵家の嫡男、アルベルト。二人の婚約は家同士によって決められたもので、恋物語のような劇的な出会いがあったわけではない。それでも十歳の頃から互いを知り、八年間を一緒に過ごしてきた。喧嘩をしたこともあれば、一緒に夜会へ出席したこともある。エレノアは当然のように、いずれ自分はアルベルトと結婚して伯爵夫人になるのだと思っていた。
昔のアルベルトは、エレノアのパン好きを笑って受け入れてくれていた。パン屋で新しいものを見つけたと聞けば、興味はなくとも話くらいは聞いてくれたし、エレノアが十五歳の時に作らせた失敗作についても随分と笑われたものだった。しかし、二人が成長して結婚が現実味を帯び始めると、その態度は少しずつ変わっていった。
「またパン屋へ行っていたのか?」
ある日の午後、フィルディング侯爵邸を訪れたアルベルトから尋ねられ、エレノアは素直に頷いた。王都の一角に新しい店ができたと聞き、侍女を伴って出かけていたのだ。北部で採れた小麦を使っているという珍しい店で、普段食べているものより香りが強かったことを話すと、アルベルトは楽しそうに聞くどころか、呆れたように眉を寄せた。
「エレノア、君ももう十八だろう。いつまでそんなことを続けるつもりなんだ? パンが好きなことまで悪いとは言わないが、君はいずれ伯爵夫人になる。どこの店がおいしい、この小麦は香りが違うなんて話ばかりしているわけにはいかないだろう」
「もちろん、結婚すれば伯爵夫人としてのお仕事はきちんといたしますわ。今だって必要なことは学んでいます。それとパンが好きなことは別ではありませんか?」
「それでも限度はある。君は昔から何かというとパンばかりだ。もう子供ではないんだから、そろそろ卒業したほうがいい」
卒業という言葉が、エレノアの胸に妙に引っかかった。パンが好きなのは子供じみたことなのだろうか。自分では分からなかったが、アルベルトが将来のことを真剣に考えているのだと思えば、無視することもできなかった。結婚すれば伯爵家の女主人になる。領地について学び、使用人をまとめ、夫とともに社交へ出席し、いずれ子供が生まれれば母親にもなる。いつまでも好きなことだけをしていられないのは当然なのかもしれないと、エレノアは自分を納得させた。
それから半年ほど、エレノアは少しずつパンから距離を置いた。新しい店ができたと聞いてもすぐには出かけず、厨房へ顔を出す回数も減らした。朝食で気になるパンが出ても料理長を呼び止めることはなくなり、チーズを中に入れる方法をもう一度試したいと思っても口には出さなかった。代わりにローデン伯爵領について学ぶ時間を増やし、アルベルトの母が主催する茶会にも積極的に参加した。好きなものを少しくらい我慢するのも結婚するためには必要なのだろうと思っていたし、それによってアルベルトとの関係が以前のように穏やかになるのなら悪いことではないとも考えていた。
ところが、その努力が報われることはなかった。
初夏のある日、アルベルトから話があると呼び出された。指定されたのは王都にある貴族向けの庭園で、エレノアが約束の時間に到着すると、アルベルトは既に待っていた。ただし一人ではなく、その隣には淡い金髪を美しく結い上げた若い女性が立っている。クラリッサ・モートン伯爵令嬢。社交界でも評判の女性であり、エレノアも何度か夜会で顔を合わせたことがあった。そして最近、アルベルトと親しくしているらしいという噂も耳にしていた。
「エレノア。突然こんなことを言って申し訳ないが、君との婚約を解消したい。私にはクラリッサのほうが合っていると分かったんだ」
予想していなかったわけではない。それでも八年間という時間は、たった一言で切り捨てられるほど軽いものではなかった。エレノアは胸の奥へ冷たいものが落ちていく感覚を覚えながら、それでも感情的にならないようアルベルトの言葉を待った。
「彼女は社交にも長けているし、私の仕事にも理解がある。伯爵夫人として私を支えてくれると思っている。それに……君とは価値観が違いすぎる。君は昔から何をするにもパン、パン、パンだった。子供の頃なら可愛らしい趣味だと思えたが、十八になってまで続けるとは思わなかった。私は普通の家庭を築きたいんだ。妻が暇さえあればパン屋へ出かけたり、厨房で料理人と話し込んだりするような生活を望んでいるわけじゃない」
「私は、この半年ほどパン屋へ行くことも控えておりましたわ。厨房へ行くこともほとんどありませんでした。それでも足りなかったということでしょうか?」
「ああ、それは知っている。だから君もようやく分かってくれたのだと思っていた。いずれ卒業しなければならない趣味なのだと」
あまりにも当然のように言われ、エレノアは返す言葉を失った。この半年、行きたい店があっても我慢した。厨房へ顔を出すこともやめ、思いついたことを試したいと思っても諦めた。それはすべてアルベルトと結婚するためだったのに、彼にとっては努力ですらなく、ようやく当たり前の状態になっただけだったらしい。
それでも八年間の時間に多少の迷いが残っているのか、アルベルトは少しだけ声を和らげた。
「私だって君を嫌いになったわけではない。もし君が本当に変わるつもりなら、まだ考え直す余地はあると思っている。結婚後はパン屋巡りをやめ、厨房へ行くこともしない。パンは食事として楽しむだけにして、伯爵夫人としての務めを第一にする。それを約束してくれるなら、八年間の婚約をすべてなかったことにする必要はない」
隣にいるクラリッサが僅かに眉を動かしたことには、アルベルトは気づいていないようだった。エレノアは黙ったまま考えた。八年間一緒にいた男性である。幼い頃から知っていて、いずれ夫になるのだと思っていた。ここで頷けば、今まで思い描いてきた未来を失わずに済むのかもしれない。しかし、その未来では好きなパン屋へ行くこともできず、厨房で料理人と話すこともできず、新しいパンを思いついても試してみることすらできない。それを一年や二年ではなく、これから先ずっと続けるのだ。
その時、ふいに風向きが変わった。庭園の向こうには商店の並ぶ通りがあり、その一角にエレノアが以前よく通っていた小さなパン屋がある。ちょうど午後の分が焼き上がったのだろう。風に乗って、小麦の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。少し焦げた皮と、たっぷり使われたバターの香りまで分かる。半年もの間、我慢していた匂いだった。
あの店の焼きたてを食べたい。そう思った瞬間、エレノアの中で何かがすとんと落ちた。八年間を失うことは悲しい。それでも、八年間を惜しむあまり残りの人生すべてを我慢して生きる必要があるのだろうか。どうして好きなものを好きだと言うだけのことに、これほど遠慮しなければならないのだろう。エレノアはゆっくりと息を吐き、アルベルトを見た。
「申し訳ありません。やはり無理ですわ。私はパンを諦められません」
「エレノア、今は私たちの結婚について話しているんだぞ。八年間の婚約とパンを本気で比べるつもりなのか?」
「ええ。ですから、きちんと考えました。八年間の婚約と、これから一生好きなものを我慢して暮らすことを比べたのです。その上で決めました」
アルベルトは言葉を失い、クラリッサまで目を丸くしていた。しかし、口にしてしまえばエレノアの心は驚くほど軽くなった。もちろん八年間を惜しむ気持ちはある。それでも、ここでパンを選んだことを後悔する未来だけは想像できなかった。
「婚約解消をお受けいたします。八年間、ありがとうございました。それでは失礼いたしますわ。先ほどから、とてもいい香りがしておりますので」
「まさか、本当にパンを買いに行くのか?」
「ええ。焼きたてを逃す理由がありませんもの」
エレノアは二人へ一礼すると、そのまま庭園を出た。背後から呼び止められることはなかったし、振り返ることもしなかった。店へ着くと、午後のパンが大きな籠いっぱいに並べられていた。焼き上がったばかりで、まだ触れると温かい。一つ買って半分に割ると、中から白い湯気がふわりと立ち昇った。ひと口食べれば香ばしく、ほどよい塩気があり、中は柔らかい。
半年ぶりに食べた大好きな店のパンは、泣きたくなるほどおいしかった。
実際、その夜エレノアは少しだけ泣いた。八年間も一緒にいた人を失ったのだから、何も感じないはずがない。アルベルトとの思い出がすべて嫌なものだったわけでもなければ、彼を憎んでいるわけでもなかった。それでも翌朝目を覚ました時、胸の中にあったのは後悔よりも、もう我慢しなくていいのだという不思議な解放感だった。伯爵夫人になるために使っていた時間もなくなった。パン屋へ行くことを咎める婚約者もいない。そう考えているうちに、三年前から頭の片隅に残り続けていたことを思い出した。
朝食を終えたエレノアは、その足で侯爵家の厨房へ向かった。久しぶりに姿を現した令嬢を見て料理長は驚いたが、エレノアの目が妙に輝いていることに気づくと、すぐに嫌な予感がしたらしい。
「三年前の続きをしましょう。チーズを入れたパンよ。あの時は全部流れ出してしまったけれど、ずっと考えていたの。生地を厚くするだけでは駄目だと思うわ。溶け方の違うチーズを試して、それから包み方も変えてみたいの」
「お嬢様、まさかまだ諦めていらっしゃらなかったのですか? あの時は窯の掃除に半日もかかったのですよ」
「お願い。もう好きなことを我慢しなくてよくなったの。失敗したら、窯の掃除は私も手伝うわ」
侯爵令嬢に窯を掃除させるわけにもいかず、料理長は頭を抱えた。それでも三年前と違い、エレノアは簡単には諦めなかった。使うチーズを変え、生地の厚みを変え、包み方を変える。最初の数回はやはりチーズが漏れたが、量を減らしすぎれば今度は物足りない。焼く温度を変えると生地だけが硬くなり、別のチーズを使えば今度は期待したほど柔らかくならなかった。失敗するたびにエレノアは原因を料理長や職人と考え、また翌日に試した。
十七回目の試作で、ようやく理想に近いものが出来上がった。丸いパンを二つに割ると、柔らかくなったチーズが中に残っている。熱で香りも強くなり、焼きたての生地と一緒に口へ入れれば、別々に食べた時とはまるで違った。エレノアは嬉しさのあまり三つ食べ、散々反対していた料理長も黙って二つ食べた。それを見たエレノアは、自分以外にもおいしいと思う人がいるのなら、もっと作ってもいいのではないかと考え始めた。
次に手をつけたのは果物だった。季節の果物を砂糖で煮詰め、冷ましてから生地で包んで焼く。最初は水分が多すぎて生地が破れ、次は煮詰めすぎて硬くなった。それでも何度も調整しているうちに、噛めば中から甘酸っぱい果実の味が広がるパンが出来上がった。さらに砂糖とバターを多く使った甘い生地、乾燥させた果物を混ぜ込んだもの、表面に砂糖を薄くまぶしたものと、エレノアの思いつきは次から次へと形になっていった。
侯爵家の厨房で作って家族や使用人に食べてもらっているだけだった試みが外へ出るきっかけになったのは、母が開いた小さな茶会だった。菓子と一緒にエレノアの作った果実入りのパンを出したところ、招かれていた令嬢たちから思いのほか評判がよく、どこの菓子店で売っているのかと尋ねられたのである。自宅の厨房で作ったものだと答えると、ぜひ売ってほしいという声まで上がった。その時初めて、エレノアは自分が食べたいから作ったものを、他の人も欲しいと思ってくれるのだと知った。
翌日には、以前から馴染みのある王都のパン屋を訪ねていた。店主は最初、侯爵令嬢が思いつきで妙なことを始めた程度に考えていたようだったが、持参したチーズ入りのパンと果実入りのパンを食べると態度を変えた。特にチーズ入りのものは温かいうちに食べれば非常に相性がよく、作り方も既存のパンから大きく離れてはいない。職人として興味を持ったらしく、翌日には店の厨房で一緒に試作することになった。
試験的に二種類を店頭へ並べたところ、その日のうちに売り切れた。翌日は倍作ったが、それも夕方まで残らなかった。一週間後には焼き上がりの時間を尋ねてくる客が増え、一か月もすると朝から買いに来る者まで現れた。エレノアはそこで初めて、自分が考えたものを知らない誰かがお金を払って買い、おいしいと言ってくれる喜びを知った。それは新しいパンを初めて口にする時とはまた違う、これまで経験したことのない嬉しさだった。
そこからエレノアは、さらにパン作りへ没頭していった。パンに切れ目を入れ、焼いた肉と野菜を挟んでみると、最初は貴族よりも忙しい商人や職人たちから支持された。皿と食器を用意しなくても一度にパンと肉を食べられるため、仕事の合間の食事に都合がよかったのである。砂糖と卵を多めに使った柔らかな生地へ乾燥させた果実を練り込んだものは、反対に貴族の女性たちから人気になった。日持ちするよう水分量と焼き方を調整した小型のパンは、長旅をする商人がまとめて買っていくようになり、それを知った職人たちからは保存性をさらに高められないかと相談されるようになった。
エレノア一人の思いつきだけではなくなっていったのも、この頃からだった。職人から「この材料を使ったらどうか」と提案されれば一緒に試し、地方から珍しい小麦が入れば焼き比べた。パン屋同士でも新しい作り方について意見が交わされるようになり、最初の店だけでは需要に追いつかなくなったため、エレノアは他の店にも製法を教えることにした。作り方を独占すれば莫大な利益を得られたかもしれないが、それよりも色々な場所で焼きたてを食べられるほうが彼女には重要だった。
ただし、無条件で好き勝手に作らせたわけではない。粗悪な材料を使ったものまで同じ商品として売られれば、せっかく気に入ってくれた客が離れてしまう。そこでフィルディング侯爵家の商会に協力してもらい、小麦や乳製品の仕入れ先を整え、一定の品質を満たした店へ製法を教える仕組みを作った。本人は単においしいパンを増やしたかっただけだったが、それによって小麦農家や酪農家にも新しい需要が生まれ、パン屋ではこれまでより多くの職人が必要になった。
婚約解消から一年も経つ頃には、王都のパン屋の景色は以前とは随分変わっていた。かつては大きさの違う似たようなパンが並んでいた店先に、チーズを包んだもの、果実を入れたもの、甘いもの、肉を挟んだものと様々な種類が並ぶようになった。人々もパンを単なる主食としてではなく、その日の気分によって選ぶようになり、新しいパンが出ればわざわざ店まで買いに行く者まで現れた。
そしてその頃になって、アルベルトはようやく奇妙なことに気づいた。最近、社交の場でエレノアの名前を耳にすることが増えていたのである。ある夜会では知人の貴族が皿に載せた小さなパンを指し、最近これに凝っているのだと嬉しそうに話していた。
「中にチーズが入っているんだ。温め直しても旨い。最初に考えたのはフィルディング侯爵令嬢だそうだぞ。最近流行している果実入りの甘いパンも彼女の発案らしい。君は長く婚約していたのだから、当然知っていると思っていたが」
「……エレノアが、これを?」
「知らなかったのか? 王都では随分と有名な話だぞ。妻も新作が出るたびに買いに行かせている。単なる令嬢の道楽かと思っていたが、最近はパン職人たちのほうから彼女へ相談を持ち込むらしい」
アルベルトにはすぐに信じられなかった。しかし注意して見れば、至るところにエレノアが始めたものが存在していた。商人たちの間では肉を挟んだパンが手軽な昼食として広まり、貴族の茶会では果実入りの甘いパンが菓子と一緒に並ぶようになっている。地方から王都へ来たパン職人が、エレノアと関わりのある店で製法を学んでいるという話まであった。
自分がくだらない趣味だと思っていたものが、一つの流行になっていた。
それだけでも十分だったが、決定的な知らせはさらに後からやってきた。遠征する騎士や兵士向けの携帯食として、エレノアと職人たちが改良した保存性の高いパンが正式に採用されたのである。従来のものより持ち運びやすく、保存しやすいうえ、固くなってもスープへ入れれば食べやすい。その功績だけではなく、王都の食文化と小麦産業へ与えた影響まで評価され、エレノアには王家から正式な感状が贈られることになった。
アルベルトは、その知らせを聞いて初めて、自分が何を見落としていたのか理解した。エレノアは婚約していた頃から、何度も新しいパンについて話していた。チーズを入れてみたい、果物を包んだらどうだろう、肉を挟んだら一緒に食べられるのではないか。アルベルトはそのすべてを聞き流していたし、十八にもなってパンの話をしていることを恥ずかしいとすら思っていた。
もし、あの頃に一度でも真面目に耳を傾けていたら。
そんな考えが頭をよぎるようになった頃には、もう遅かった。
クラリッサとの婚約話も、結局まとまらなかった。婚約解消の直後こそ、アルベルトは当然彼女と結婚するものだと思っていたが、両家で具体的な話を進めようとした頃には、クラリッサのほうが距離を置き始めていた。
「エレノア様に、パンに関わることをすべてやめなければ結婚しないと仰ったそうですね。あの時は私も深く考えておりませんでしたけれど、今になって少し怖くなりましたの。私にも好きなものがあります。社交も音楽も、友人たちと過ごす時間も好きです。結婚後に責任を果たすことは当然ですけれど、妻になるためにはそれ以外を捨てなければならないと仰る方と、私は安心して結婚できませんわ」
アルベルトは、何も言い返せなかった。エレノアのパン作りが成功したからクラリッサがそう言っているのだと思いたかったが、もし成功していなかったとしても、好きなものを捨てさせようとした事実そのものは変わらない。結局クラリッサとの縁談は白紙となり、フィルディング侯爵家との婚姻を前提に進んでいた商会との取引もいくつか見直された。伯爵家が傾くほどの損失ではなかったが、アルベルトが思い描いていた未来よりも随分と厳しいものになった。
それからも、アルベルトがエレノアと顔を合わせることはなかった。エレノアのほうから会おうとする理由がなかったし、アルベルトにも今さら何を言えばいいのか分からなかった。ただ社交へ出れば、嫌でも彼女の名前を耳にした。新しいパンが流行した。地方にも店が増えた。フィルディング侯爵家が新しい小麦の生産を支援している。パン職人を育てるための工房まで作られた。聞くたびに、アルベルトは自分が「卒業しろ」と言ったものがどこまで大きくなっていくのかを思い知らされた。
エレノア自身は、そんな元婚約者の後悔など知ることもなく、相変わらずパンを作っていた。婚約解消から数年が経つ頃には、彼女が最初に考えたパンをそのまま作るだけではなく、各地の職人が土地ごとの材料を使って新しいものを生み出すようになっていた。北部では濃厚なチーズを使ったもの、南部では甘い果物を使ったもの、海沿いの町では魚と香草を挟んだものまで登場し、エレノア自身が思いつかなかったパンも次々と生まれた。彼女が始めたのは数種類に過ぎなかったが、「パンはこういうものだ」という長年の常識そのものが崩れたことで、職人たちの発想まで自由になったのである。
かつて数種類しかなかったパン屋の店先には、色も形も味も違うパンが並ぶようになった。人々は朝食のためだけではなく、今日はどれを食べようかと選ぶために店を訪れる。子供は甘い果実の入ったものを欲しがり、仕事へ向かう者は肉を挟んだものを買い、旅人は日持ちするものを荷物へ入れる。貴族の茶会にもパンが菓子と一緒に並び、王宮の食卓にまでエレノアたちの考えたものが出されるようになった。
やがて、この国の食文化について記した本には、エレノア・フィルディングという一人の侯爵令嬢について大きく記されることになる。チーズを包んだパン、果実を入れた甘いパン、肉や野菜を挟んだパン、菓子として楽しむためのパン、旅へ持っていけるよう改良されたパン。後世では当たり前のように食べられるそれらの原型を生み出し、さらに多くの職人へ新しい考え方を広めた人物として、彼女はいつしか新しいパン文化の生みの親とまで呼ばれるようになったのだった。




