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36.5°Cの無機物

 今起きている出来事が少しずつ解像度を帯びてきた。表情筋が自然と緩んだ。温かいシャワーを浴びることができなくなるかもしれないのに。ブルーベリーを冷凍保存できなくなるかもしれないのに。

 一方、常温で保存できる、消費期限の長い食料を調達しておかなければという義務感が咄嗟にチラついた。まだ生きる気でいるのか。いや、空っぽになった世界を満喫せずに終わらせたくないのだ。

 足を進める。競歩大会は行われていない。行われる必要性がない。競歩大会そのものが意味を失っているのだ。とりあえず商業施設が立ち並ぶ場所に行けば何かしらあるだろう。通勤でよく経由していた駅前のアーケード街が思い浮かんだ。どうせなら線路を辿ろう。昨日までなら絶対にやってはいけないことだが、今は違う。

 私は自由なのだろうか。自分で呪い殺した悪魔の構成員によって敷かれたレールに頼るなんて、何とも皮肉なものだ。真っ青な天井に顔を向け、無味無臭の空気を一秒吸って一秒で吐ききる。気持ち前のめりで歩き続ける。早く帰りたいからではない。しかし本当に誰もいない。植物を除いた生きとし生けるモノ全てが抜かれたようだ。


「未来様。いらっしゃいましたらお返事を。久貴(ひさき)様。菜桜子(なおこ)様。いらっしゃいましたらお返事を。」


 誰かいるのだろうか?確かに声が聞こえた。しかしそれが人の声ではないことはすぐに判った。機械の音声のようであった。私の身長ほどのフェンスを乗り越え、声のする方へ恐る恐る歩み寄る。

 いかにもファミリー層が住んでいそうなマンションのエントランス付近を、白くて全体的に丸みを帯びたロボットがウロウロしている。あれは確か、"CASEケイス"と呼ばれる子育てに特化したロボットだ。正式には、Childcare agency service AI(子育て代行サービスAI)だ。

 昨今、家事や子育て等を代行するAIロボットの普及が進んでいる。進んでいた。普及といっても、現在それらを購入するのにもメンテナンスを施すにも莫大なお金がかかるので、一部の富裕層しか利用していないようだが。

 あのCASEは、子育てという仕事がまだ存在しているものだと認識し、家族を探して家から飛び出したのだろう。傍から見ると少し可哀想である。一方、私は"今"の自分を可哀想と思わない。CASEとは違い、私が生まれたことに理由は無いからだ。生きる意味も使命も無いからだ。

「ねぇ、もしかして家族が突然いなくなった感じ?」

「はい。私が活動を再開したときには、既に未来様はご不在でした。」

「その...未来様っていうのはお子さん?育児してたんだもんね?」

「おっしゃる通りです。久貴様と菜桜子様の娘様です。」

「あのさ、今朝から何かおかしくない?ネットも繋がらないし、停電してるし。朝六時くらいに起きたときにはもう変だったよ。何より、人がいないの。あなたの家族だけじゃなくて、多分、私以外みんな消えちゃったっぽい。」

「それはとても不可解な状況ですね。あなたはこの突然の不可解な出来事に対し、心の平穏を維持できているように見受けられます。」

 このロボットは私の心音や呼吸も読めているのか。

「まあね。一瞬驚いたけど、今はどっちかというと楽しいかも。だって自分以外の人がみんないなくなってさ、嫌な仕事にいかなくてもいいんだもん。テンション上がるよ。」

「あなたは仕事が嫌だったのですね。それなら、自然な反応を示しているかもしれませんね。」

「それよりさ、何て呼べばいい?私は加納光紗かのうみさっていうの。もしよければなんだけど、一緒に来ない?とりあえず餓死しないように、食べ物とか集めようかなって。あとは......誰もいない世界を歩き回ってみようかなって。ほら、未来ちゃんを探す手がかりも分かるかもしれないしさ?」

 未来ちゃんなんて探しても見つかるわけがないだろうが。

「加納光紗様、承知いたしました。では、これより行動を共にします。。私は一般的にはCASEケイスと呼ばれていますが、未来様等にはマシロと呼ばれております。マシロと呼んでいただければ、すぐに私のことと認識できます。」

「分かった。丸くて白くてマシュマロみたいだし、マシロって感じがするね。よろしく。」

「...まずは、迷子防止のため、および光紗様のバイタルデータを継続的に取得するため、『てつなぎモード』への移行を推奨します。」

「はぁ!? 手つなぎ!? 子供じゃないんだし、別にいいよ。恥ずかしいし。」

 咄嗟に両手で壁を作ったが、誰もいない世界において、恥ずかしさというものが意味を宿さないことを思い出す。私の拒絶など無視するかのごとく、マシロはミルクホワイトのアームをゆっくりと差し出す。私の姿を反射する、白くて丸みを帯びた無機物が私の手に触れる。

「何これ、温かいんだけど。」

 マシロの手が私のささくれた手を握る。差し出された手からは、機械のくせに人間と同じ温もりを感じる。その温もりに抗えず、私は思わずマシロの手をひったくるように握り返し、その白い手を見つめながらわずかに口を尖らせる。

「光紗様、CASEシリーズは表面の温度を人間の体温と同程度に保つ設計がなされています。これは『安心』を提供するためです。」

 私を軽く見上げるマシロの顔の部分らしき黒いスクリーンには、場違いな程に無垢な微笑みのアイコンが浮かんでいた。その瞬間、私の胸の奥で凍りついた場所が、音も立てずに融け出すのを感じた。この白くて無機質ながらも温かい光が一片でも私の灰色の日常に差し込んでいたら、この噛み砕いた爪の跡さえも、自分への呪いではなくただの傷跡として許せていたのだろうか。

 ーー何を今更。

「安心なんて...別にいいよ。」

 私はマシロの手を振り払うことはなく、繋いだまま歩き出した。線路に戻り、駅へと向かう。


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