聖女の力を失くしたら~王都を追放された瞬間、腹黒貴公子が迎えにきた~
「それって、セラが聖女の力を失いつつあるってこと?」
目の前に座る親友イレーネは、気遣わしげに私の顔を見返した。
「……多分」
「じゃあ、やっぱりあの言い伝えは、本当だったってことよね……?」
「そう、なるわよね……」
私たちは顔を見合わせ、この重大事態をどう乗り切るべきか、思案する。
いやそもそも、聖女の力を失いつつあるという時点で、もうどうにもならないだろうしどうにでもなれよ知らんがな、なんて内心やさぐれてはいたのだけれど。
ここはバルダック王国、王都神殿の最奥に位置する一室。
十二歳で聖女としての力を発現させた、私の自室である。
バルダック王国には、「聖女」が存在する。
聖女は、人々に祝福と加護をもたらす精霊の力――「癒しの力」と呼ばれる――をその身に宿すと言われている。
聖女の証とされる「癒しの力」がその身に発現すると、王都神殿で正式に聖女として認定され、そのまま神殿で暮らしながら聖女としての務めを果たすことになる。
聖女の最大の役割は、怪我や病気に苦しみ、救いを求めて王都神殿を訪れた人々を癒しの力で治すこと。
そして、朝晩二回、我が国の安寧と繁栄を願うべく礼拝堂で祈りを捧げることである。
私は十二歳のときに、癒しの力を発現させた。
力の発現は、常に何の前触れもなく起こるらしい。
それは「精霊のきまぐれ」によるものとされ、当代の聖女が亡くなってすぐに次の聖女が力を宿すこともあれば、聖女のいない時代が何十年も続くこともある。
前の聖女が亡くなって、すでに半世紀以上。久しぶりの聖女出現に、国中が沸いた。
その頃まだ領地にいた私は、突然のことに「なぜ自分が?」と驚いたし、聖女として生きていくという未来をすぐには受け入れられなかった。そりゃそうだ。はっきり言って、不安しかない。
でも、拒むという選択肢は、もちろんないわけで。
レムス伯爵夫妻である両親は「つらかったらいつでも帰っておいで」と涙ながらに見送ってくれたし、四歳年上の兄オルランドはすでに王立学園に入学して王都に住んでいたから、神殿に移った私にたびたび会いに来てくれた。
「つらかったらすぐに言えよ」
みんながみんな私のことを心配してくれたけど、神殿での生活は思っていたものとは少し違った。それほど悪いものではなかったのだ。
まず、神官たちが全員優しい。
若者も年老いたベテランも、神官たちのトップオブトップである神官長までもが、まだ十二歳の私にとても親切だった。そりゃそうだ。聖職者だもの。無体を働くような者はいない。
それどころか、聖女とはいえ十二歳の子どもに対して「聖女様」「セラフィナ様」と日々恭しく接してくれる。朝晩のお祈りだの神殿に大挙して押し寄せる人たちの治癒だのととにかく忙しい毎日だったけど、神官たちが「聖女様、そろそろお昼を召し上がってください。このままだと倒れてしまいますよ……!」とか、「セラフィナ様! 今日はもう三十人もの患者を診たのですから、これで打ち止めです! え、まだできる? 無理は禁物だと、あれほど言っているでしょう!」とか、どちらかというとみんな必要以上に過保護だった。
急に親戚のおじさんが異常に増えた、みたいな感覚である。
聖女や神殿は清貧をモットーとしているから華美なぜいたくはできないけど、神殿最奥の一番陽当たりのいい明るい部屋を用意してくれたし、毎日の食事は普通においしかったし、ささやかながらも温かな誕生会を毎年必ず開いてくれたし、神殿での生活はむしろ至れり尽くせりで笑いが絶えなかったように思う。
そんな、忙しさに追われつつも賑やかで優しい人たちに囲まれて過ごす中で、私の婚約が決まったのは学園に入学する直前、十四歳のときだった。
相手は、この国の王太子マクシムス殿下。
この国では、聖女が現れると王族と婚約するという慣習がある。たまたま殿下と私が同い年だったこともあり、「これはもはや運命!」と浮かれた国の上層部が双方に確認もなく、あっさり婚約を決めてしまったのだ。
顔合わせと称して、初めてマクシムス殿下とお会いしたその日。
殿下がぼそりとつぶやいた言葉が、私の耳に届いてしまう。
「……地味な聖女だな」
できれば聞きたくなかった失礼発言である。悔しいかな、事実ではあるけど。でも、もう一度言う。失礼である。
マクシムス殿下は、光を集めたかのような明るい金髪に若葉色の目をした美丈夫で、さながらおとぎ話の王子様そのもの。
対する私は、ありふれた茶色の髪に、真っ黒な瞳。確かに地味である。残念ながら、対抗できる派手要素は一つもない。悔しい。
殿下は自分の独り言が私に聞こえてしまったことになど気づきもせず、その後は王太子としての矜持もあるのかそつなく振る舞った。正直本音はわからないけど、「これからよい関係を築いていきたいと思っている」と言ってくれたし、実際婚約者として当初は誠実に向き合ってくれていたと思う。
それが一変したのは、学園に入学してからである。
十五歳で入学したあと、殿下は何を思ったか、いきなり数多の令嬢たちと浮名を流すようになった。
まあ、あの見た目である。我こそはと思う強者令嬢たちが、放っておくはずはない。
一方、婚約者の私は聖女とはいえ地味を極めた女。そりゃあ、華やかで可憐な見た目の(中身は肉食な)ご令嬢たちに目移りするのも仕方がないな、と思った。腹は立たなかった。幸いにも、そこまでの感情は育っていなかった。
ただ、殿下が私を蔑ろにするせいか、学園の生徒たちも私を遠巻きに眺めては「ほら、あの方が……」「聖女って、もっと清楚で美しい方だと思っていたのに」「聖女のくせに、地味なうえに性格も陰険なんですって」などと陰でコソコソささやき合うようになった。
ちょっと、待て。
誰よ。地味なうえに性格も陰険、なんて出鱈目を言いふらしてるのは。
見た目が地味なのは認めるけど、陰険なんて今まで誰にも言われたことないわよ。神官たちはいつも、「セラフィナ様ほど裏表がなくて真っすぐで、可愛らしい令嬢はおりませんよ」って言ってくれるわよ。いや、褒めすぎか。
とまあ、若干の居心地の悪さを感じながら、学園生活を送っていたある日のことだった。
「あなたが当代の聖女様、セラフィナ・レムス伯爵令嬢ですか?」
同じクラスの令嬢が、臆することなく声をかけてきたのだ。
「……そうですけど」
警戒心をむき出しにした事務的な声で答えると、途端に令嬢は柔らかな藤色の目をパッと輝かせる。
「まあ! じゃあ、ぜひお友だちになっていただけないでしょうか? 私はデファクト侯爵家が長女、イレーネと申します」
透き通るような銀髪の令嬢は一見儚げな印象でありながら、話してみると意外に気さくで、そしてちょっと毒舌だった。根が正直者の私たちは、とても気が合った。
すぐにイレーネは私のことを愛称の「セラ」と呼ぶようになり、私もイレーネのことを「レーネ」と呼ぶようになった。
デファクト侯爵家は建国当初から続く由緒正しい家柄で、精霊への信仰心が篤く、神殿に対しても毎年多額の寄付をしているらしい。
レーネは、聖女としての多忙な生活と学園生活との両立に四苦八苦する私のことを気遣い、さりげなくフォローしてくれたし何度となく侯爵邸に招いてくれた。
侯爵夫妻も常に私を歓迎して日々の苦労をねぎらってくれたし、レーネの四歳年下の弟ラルスなんか、初対面のとき突然こう言った。
「きれいなお姉さん、僕と結婚してください」
自己紹介すらすっ飛ばし、いきなりのプロポーズである。
侯爵が苦笑いしながら「セラフィナ嬢は、すでに王太子殿下と婚約しているんだよ」と話すと、ラルスはこの世の終わりみたいな顔をして、どこかに走り去ってしまった。まだ十一歳のラルスはしょぼくれたまま、その日はとうとう顔を見せてくれなかった。
それでも、何度となく侯爵邸に顔を出すうちに、ラルスはすんなり私に懐いてくれた。
私が行くと、真っ先に飛び出してきては「待ってたよ、セラ!」とはしゃいだ笑顔を見せるラルス。子犬のようにじゃれつく様は、弟みたいでなんだか可愛い。
「セラは私の友だちなのよ? なんであんたが毎回セラを出迎えてるのよ?」
「セラは姉様の友だちであると同時に、僕の憧れの人でもあるんだよ。それに、姉様はこれからもずっとセラと一緒にいられるけど、僕のほうはそうもいかないんだし」
ラルスはいずれ、隣国ロストルム王国のアンバール侯爵家に、養子として迎え入れられることになっていた。アンバール侯爵家にはデファクト侯爵の姉に当たる方が嫁いでいるのだけれど、残念ながら子どもに恵まれなかったのだ。
ちなみに、我が国は長子相続が基本なので、デファクト侯爵家を継ぐのはレーネである。
私を取り合う姉弟の不毛なやり取りに気恥ずかしさを感じつつもだいぶ救われていた一方で、王太子マクシムス殿下との関係は修復不可能なくらい冷め切っていた。
殿下は学園で私を軽んじ、蔑ろにするだけでなく、婚約者としての交流をことごとくすっぽかすようになった。見かけるといつも、自慢げに毎回違う令嬢を左腕にぶら下げて愉悦に浸っている。もはや誕生日の贈り物も、お茶会でのエスコートも、何もない。
「これはまったくもって、由々しき事態です」
普段は凪いだ海のように穏やかな神官たちのトップオブトップ、神官長は珍しく語気を強めた。
「聖女の力は愛の力。いつ誰に発現するのかはわかりませんが、それでも発現するのは十分な愛情を受けて育った女性です。聖女は深く愛されることでその力を増大させますが、愛を失うと力も枯渇するのですよ」
それは、古い言い伝えだった。
聖女の力の源は、「愛」だという。
親愛、友愛、慈愛、敬愛、いろんな形の「愛」があるけれど、さまざまな形の「愛」を存分に受け取ることで聖女の力は極限まで増幅し、絶大な効果を発揮するらしい。
神官たちが当初から子どもだった私を敬い、親切に接してくれたのも、この言い伝えを知っていたからだ。
「それだけではありませんよ。セラフィナ様は、ここへ来たときから私たちにとっては娘も同然の可愛いアイドルでしたから」
と、たくさんの神官たちが口をそろえて言っていたのも事実ではある。照れる。
とにかく。
『聖女を蔑ろにしてはいけない』
それは、神官たちにとって最も優先すべき至上命題だった。
もちろんこの言い伝えは、我が国の人間なら誰もが知っている。貴族はもちろん、平民だって子どもだって、もしかしたら野良犬とか、馬車を引く馬だって知っている(かもしれない)。
ではなぜ、マクシムス殿下はこの言い伝えを無視するような行動を繰り返しているのか?
殿下の言い分は、こうだった。
「聖女を蔑ろにしないようにとまわりはみんな言うけど、これまでの聖女たちが愛されなかったことで力を失った、なんて事実は存在しないんだよ。そもそも聖女の力の発現は精霊のきまぐれによるものなんだし、それが失われるということは、聖女に相応しくないと精霊に見放された結果なんじゃないの?」
いやはや、腹立たしいほどもっともらしいことを言う。
つまりは、これまで力を失った聖女はいないのだから、愛が必要かどうかなんて本当のところはわからないのでは? という、詭弁的な解釈である。
確かに、殿下の主張を完璧に否定できる根拠はなかった。
これまでの聖女たちが力を失わなかったのは、婚約者でありその後夫となる王族に、しっかりと愛されていたからである。その他大勢の貴族や民たちに、心から敬われていたからである。
でも力を失った聖女というものが存在しない以上、言い伝えが本当かどうか、実際には確かめる術がない。
殿下はそんな持論を展開し、神官や王城の使用人たちや両親である国王夫妻にまでその行動を咎められ、諫められても改心することはなかった。
それどころか、殿下のこうした態度に呼応するように、神殿を訪れる民たちまでもが聖女の力に不満をもらすようになったのだ。
「なんで完全に治してはもらえないんですか?」
聖女の力を使い、神殿を訪れた平民の怪我を八割程度回復させたところで、不服そうな声が返ってくる。
私は神官たちから、怪我にしても病気にしても、完全に治してはいけない、とたびたび諭されていた。
「人には怪我や病気を自分の力で治そうとする、自己治癒力というものがあります。あなたが聖女の力を使い、よかれと思って百パーセント治してしまったら、人々は逆に自らの自己治癒力を弱めてしまうことになるのですよ」
だから八割程度回復させたところで、力の行使をやめるようにしていたのだ。
はじめのうちは、それでもみんな涙を流して喜んで、「聖女さまにも精霊のご加護がありますように」なんて優しい言葉をかけてくれる人もいた。
それなのに、だんだん「治してもらうこと」が当たり前になっていく。
奉仕されることに慣れ、「治してくれて当然」という思いが横柄な言動につながり、思い通りにならないと「聖女のくせに」と暴言を吐く。
そんな理不尽な状況に戸惑う中、唐突にラルスの留学が決まったと聞かされる。
ロストルム王国は我が国とは違い、十三歳から五年間、学園に通うらしい。
ラルスは「どうせ養子に入って向こうで生きていくことになるんだから、早めに行ってしっかりと地固めをしたい」と言い出したのだ。
急に決まった留学に、私は少しだけ弱音を吐いた。
「ラルスとお別れなんて、ちょっとさびしいかも」
薄く笑うと、ラルスは一瞬顔を歪めた。
そして、なぜか切羽詰まった表情になって、一歩だけ私に近づいた。
「セラ、僕は諦めてないよ」
「……え?」
「絶対に、また会えるから。それまで待ってて」
そんな謎の言葉を残して、ラルスは呆気なく旅立っていった。
それからも聖女としての私の生活は特に変わることなく、レーネや神官たちに支えられながら、やがて学園を卒業した。
そのあとすぐに、今度は王太子妃教育が始まった。でも聖女としての役割のほうが重視され、王太子妃教育はそれほど厳しいものではなかった。
多分、誰もが「王太子殿下と聖女は本当にこのまま結婚するのか?」という疑念を抱いていて、もっと言えば「聖女は正妃として迎え、別の令嬢を側妃として迎えて公務を任せるつもりなのでは」という噂がまことしやかにささやかれていたことも背景にあると思う。
それほどまでに、マクシムス殿下の女遊びは、ひどかった。
学園を卒業してからもあちこちの令嬢をとっかえひっかえしていたけれど、最近のお気に入りはカロリナ・ヘルバ子爵令嬢らしい。だいぶ肩入れしているようである。困ったものだ。
そうして、学園を卒業して四年。聖女になって、丸十年。
私は、二十二歳になっていた。
淡々と聖女としての務めをこなしつつも、最近の私はある重大な不安を抱えていた。
……自分の「癒しの力」が、だんだん弱まっている気がする。
それは、半年ほど前から感じていたことだった。
怪我や病気の治癒に、どんどん時間がかかるようになっていたのだ。
以前と同じレベルでの治癒を目指そうとしても、なぜか以前より格段に時間がかかる。それでもどうにかこうにか自分自身に鞭を打ち、ひたすら聖女の力を酷使し続ける。その結果、精神的にも身体的にも疲労が蓄積されていき、ますます治癒に時間がかかるようになる。
この緊急事態を、私は親友であるレーネに打ち明けた。
レーネは突然の告白に面食らいながらも、私を気遣い、そして言った。
「もし本当にセラの癒しの力が弱まっているのだとしても、悪いのはセラじゃないわ。どう考えても、あの『ふしだら殿下』のせいでしょう?」
『ふしだら殿下』とは、言わずと知れたマクシムス殿下のことである。
レーネは私を蔑ろにし続ける殿下のことを、よく思っていない。というか、完全に敵視している。だから呼び名も『ふしだら殿下』『ポンコツ殿下』『痴れ者殿下』『素行不良殿下』と多種多様で、虫の居所が悪いときにはもっと直接的に『クズ殿下』と呼ぶこともある。ストレートすぎる。
ひとまず今日は、『ふしだら殿下』で行くらしい。
「『聖女の力は愛されることで増大し、愛を受けないと枯渇する』なんて言い伝えは、誰でも知っていることよ? 知っていてセラを邪険に扱っていたのだから、責めを負うべきは殿下だわ」
「でも殿下はきっと、自分のせいじゃない、私が精霊に見放されたせいだ、と言うでしょうね」
「そんなのおかしいわよ。単なる詭弁よ。ねえ、神官たちは、何て言ってるの?」
「……神官たちには、話していないのよ」
決まり悪くて目を逸らすと、レーネの表情はますます険しくなった。
「……話してないの?」
「だって、今まであんなによくしてくれたのに、私の力が弱まりつつあるなんて知ったらどう思うんだろうって……」
これまでの十年間、神官たちはどこまでも優しく、そして温かかった。
成長しても神官たちの過保護ぶりは変わらず、とにかく休めとかちゃんと食べてとか早く寝ろとか、いったい何歳だと思ってるのよ、という塩梅である。もう子どもじゃないんですけど。
今や領地にいる家族よりも家族らしい、神殿の神官たち。
その神官たちに力の枯渇を知られてしまうのは、正直怖かった。彼らの期待を裏切ってしまったような罪悪感に囚われて、どうしても足がすくんでしまう。
「でも、いずれ知られてしまうんじゃない? セラを猫かわいがりしているあの神官たちが、セラの不調に気づかないわけがないと思うのだけど」
「そう、かしら……」
「それもこれも、全部あのクズ殿下のせいよ。生誕祭だのなんだのと浮かれてる場合じゃないってのに」
来月には、マクシムス殿下の生誕祭が大々的に開かれることになっていた。
もちろん、一応婚約者である私にも、出席の義務がある。でも普段は夜会の類いなんて、ほとんど声がかからない。今回だって出席するよう王城からの通達が届いたものの、殿下本人からの連絡は一切ない。
それを知ったレーネとデファクト侯爵家は、ドレスやアクセサリーの用意を早々に申し出てくれた。本当に、ありがたい。
でもその生誕祭で、かつてないほど絶体絶命のピンチに襲われることになるとは、夢にも思わなかったのだ。
◇・◇・◇
「このドレス……」
デファクト侯爵家から贈られたドレスは、淡いブルーラベンダー色に銀糸の刺繍が施された、見るからに上質な一級品だった。
「ちょっと、ぜいたく過ぎない?」
「これくらい、普通よ?」
「それにほら、色だって……」
見事なまでに、マクシムス殿下の色が一ミリもない。金でも若葉色でもない。かすりもしない。
このドレスで生誕祭に出席したら何を言われるかわからないと怯む私に、レーネは堂々と胸を張る。
「どうせあのクズは、最近お気に入りの『なんちゃって清純派子爵令嬢』に自分の色のドレスを贈ってるだろうし、正式な婚約者であるセラを差し置いて彼女をエスコートするに決まってるもの。だったら、こっちはこっちで好きにさせてもらえばいいのよ」
強い。強すぎる。正論である。そしてとうとう、殿下を『クズ』呼ばわりである。
私はどぎまぎしながら上品なドレスを身に纏い、侯爵家の馬車で生誕祭に赴いた。
「今日はね、ちょっとしたサプライズがあるのよ」
馬車の中で、レーネが悪戯っぽく笑う。
「このドレスだけでも、十分サプライズなんだけど?」
「ふふ、もっとびっくりするわよ?」
楽しげなレーネの笑顔につられて、足取りも軽く会場に入ったときだった。
「セラフィナ・レムス!」
会場の中央で私の到着を待ち構えていたのは、クズ殿下、もとい、マクシムス殿下と件の令嬢カロリナ様である。
「貴様との婚約は、今日を限りに破棄させてもらう!」
いきなり私を指差して、尖った視線を投げつける殿下は突き刺すような声で言い放つ。
「なぜなら貴様はすでに、聖女でもなんでもないからだ! そうだろう!?」
「え……?」
「貴様が聖女の証である癒しの力を失っていることは、とうに調べがついている!」
ざわり、と会場に動揺が走る。
集まる人たちの声なき声が、静かに伝播する。
「貴様はすでに力を失っているというのに、それを隠して聖女を名乗り続けた極悪人だ! そのような心根だから、精霊に見放され聖女の力を失う羽目になったのだ! 恥を知れ!」
殿下の糾弾を受けながら、もしやこれが、レーネの言っていたサプライズなのかとぞっとする。
でもちらりとレーネに目を向けると、わかりやすいほど顔面蒼白だった。私と目が合うと、全力で首を横に振る。どうやら、レーネの言っていたサプライズはこれじゃないらしい。
ホッとしたのも束の間、殿下がいよいよ、とっておきの最終奥義を繰り出した。
「聖女を騙った貴様の罪は、到底許し難い! よって聖女としての身分を剥奪、貴様との婚約は破棄したうえで、王都追放を命ずる!」
誰のものかもわからない小さな悲鳴が、聞こえた気がした。
私はただただ目を見開いて、殿下を見返すことしかできない。
殿下は満足げに、いやらしく口角を上げている。
その腕にしなだれかかる『なんちゃって清純派令嬢』も、同じ角度で口角を上げている。すごいシンクロ率である。
ここへきてようやく私は、逃げ道などとうに絶たれているのだと悟った。
弁解も言い訳も聞き入れてはもらえず、すべてを甘んじて受け入れるよりほかは、ないのだと。
「……承知しました」
それだけ言って、踵を返す。
せめて最後くらいは聖女としての矜持を保ったまま、毅然とこの場を去りたかった。
「セラ!」
会場を出た私を呼び止めたのは、なんとも予想外な声だった。
聞き覚えのあるようなないような声の見知らぬ貴公子に、私は思わず怪訝な顔を向ける。
「……えっと、どちらさま――」
「俺だよ! ラルス! イレーネの弟の!」
「……えっ!? ラ、ラルス、なの……?」
飛び上がるほど驚いてしまったのも、無理はないと思う。
だって五年前、十三歳で隣国ロストルムに渡ったラルスは、まだ私より少し背が低くて、もっと華奢な体つきで、声だってあどけない可愛らしさが残っていたのに。
今目の前にいるラルスは、見上げるほどの長身で、すらりとした体格で、端正な顔つきをした美貌の貴公子に変貌を遂げていたのだ。いや、びっくりである。まじまじと、上から下まで食い入るように眺めてしまう。人って、変わるのねえ。
「ずいぶん大きくなって――」
「今はそれどころじゃないだろう? なんだよ、さっきのあれ」
「あれ? ああ、殿下の婚約破棄宣言?」
「そうだよ。それに、身分剥奪だの王都追放だのと一方的に命じるなんて、ほんと馬鹿げてる」
そうだった。私は王都追放を命じられてしまったのでした。
言われた言葉がやっと現実感を伴い始めて、私は途方に暮れてしまう。これからどうしよう。
ラルスはラルスで、「馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、ここまでだったとは」とか「俺のセラを貶めるなんて、いい度胸だな」とか「馬鹿にはこのまま、痛い目を見てもらったほうがよさそうだ」とか、ぶつくさ言っている。独り言がどんどん不穏になっている気がしないでもない。
「セラ、このまま俺の馬車で帰ろう」
流れるような自然な仕草で、ラルスは私の手を取った。
思った以上に大きな手が私の手をすっぽりと包み込むから、どきりと心臓が跳ねる。
「か、帰るって、どこへ? 侯爵邸に戻ったら、迷惑をかけてしまうんじゃ……?」
「侯爵邸は侯爵邸でも、ロストルムの侯爵邸だよ」
「……は、はい?」
そこからの動きは早かった。
私を乗せたラルスの馬車は、一旦王都神殿へと向かった。
ラルスは神官長に先程の一部始終を伝えたかと思うと、このまま私を連れて帰ります、なんて言い出す。
「もともとそのつもりで、ロストルムから一時帰国したわけですから。あれこれ根回ししていたものが全部吹っ飛んだのは癪に触りますが、セラをいち早く迎え入れることができるのは望外の僥倖ですし」
「殿下の所業は、断じて許し難いことです。しかし、これでようやくセラフィナ様を解放できるというもの。ラルス殿、この子をどうかよろしくお願いしますよ」
「もちろんです。レムス伯爵家からも承諾は得ておりますし、今回の件についてもすぐに書簡を送るつもりですよ。伯爵は相当お怒りになるでしょうけど」
気のせいか、まったく話が見えない。
だいたい、ラルスと神官長は、知り合いなのか?
初対面とは思えないやり取りの連続に、私は首を傾げる。それに、なぜお父様の名前が?
「セラフィナ様」
唐突に、神官長が真剣な目をして言った。
「これまでの十年間、あなたは本当によくがんばった。我々神官の生きる希望でしたよ」
「……え?」
「あなたの力が失われつつあることは、神官全員が気づいていました。このような事態を引き起こしてしまったのは、ひとえに我々の力が及ばなかったがゆえ」
思い詰めたような表情をする神官長の言葉に、私は慌てて前のめりになる。
「ち、違います! みんなのせいじゃ……」
「あなたが苦しんでいると知っていながら、我々はどうすることもできなかった。どうしてあげたらいいのか、どうすることがあなたのためになるのか、悩むばかりで答えは一向に出なかったのです。でもこれで、ようやくあなたは自由の身になれる」
「神官長……」
「幸せにおなりなさい。あなたには、誰よりもその権利があるのだから」
いつもすぐそばで私を見守り、温かく導いてくれた神官たちに見送られ、私は少ない荷物を持って、再び馬車へと乗り込んだ。
「このまま帰ったら姉上に怒られるとは思うけど、まあ、あとで謝ればいいか」
ラルスがまた何やらぶつくさと独り言ちる。
そういえば、留学前のラルスは自分のことを「僕」と言い、レーネをことを「姉様」と呼んでいたのに、いつのまにか「俺」とか「姉上」とか言うようになっている。
すっかり大人になっちゃって、なんて悠長なことを考えている場合ではなかった。
だって気づいたら、私は国境を越えていたのだから。
◇・◇・◇
侯爵邸は侯爵邸でも、隣国ロストルムのアンバール侯爵邸へ向かっていると知ったのは、国境を越えてすぐのことだった。
「いらっしゃい! 待っていたのよ!」
アンバール侯爵邸で出迎えてくれたのは、ラルスやレーネに似た銀髪のにこやかな貴婦人である。恐らく、彼らの伯母上さまなのだろう。
「本当によく来てくれました。これで我が家も安泰というものよ」
「伯母上。まだその話は」
「あら、そうなの? 珍しく仕事が遅いのね」
「俺は慎重なんですよ」
「慎重と臆病は、似て非なるものよ?」
「……わかってますよ」
またしても、謎の会話勃発である。まるで意味がわからない。
しかも侯爵夫人の言葉に、ラルスはなぜか仏頂面である。
「セラ、ちょっと来て」
そのまま私は、有無を言わさず中庭のガゼボに連れていかれた。
侍女が用意してくれたお茶を飲んで一息つくと、向かい側に座っていたラルスが無言で隣に移動してくる。そして距離を詰める。なんかやけに近い。
「セラ、いきなりで悪いんだけど」
「なに?」
「俺と婚約してくれないかな」
「……はい?」
数秒間、思考が停止する。
……婚約? 婚約って、あの婚約よね……?
ちょ、ちょっと待って。本当に待って。
え……?
「ええぇぇぇぇ……!?」
「いや、びっくりしすぎでしょ」
「だ、だって、だって、ええ……?」
「俺、最初に言ったよね。結婚してくださいって」
「最初って、初めて会ったとき? あれって、あなたが十一歳のときでしょう?」
「そうだよ。俺の気持ちは、あのときからずっと変わらないから」
「ずっと……?」
驚きすぎて、ちょっと呼吸すらままならない。息ができない。空気が、酸素がほしい。
そんな私を、愛おしげに見つめるラルス。その瞳の奥に、これまで目にしたことのなかった情欲の炎が見え隠れする。
「俺はずっと、セラが好きだった。でもセラは、あのクズと婚約していただろう? しかも当代の聖女だ。どうやったらセラを自分のものにできるか、ずっとそればかり考えてたんだ」
十一歳かそこらの少年が、そんなことばかり考えていたとは。空恐ろしいというか、なんというか。ほかにやることはなかったのか。
「でも、いくらあいつがクズで最低な女たらしでセラのことを蔑ろにし続けたとしても、このままじゃセラはあいつと結婚してしまう。だったら、あいつに対抗できるだけの力をつけるしかないと思った。だから留学を早めたんだ。ロストルムのほうがバルダックよりも国力が高いし、国際的な影響力もある。この国でがんばってのし上がることでしか、セラを奪えないと思ってさ」
「う、うばう……!?」
ちょっと。「奪う」なんてあなた、表現が生々しすぎない?
でも当の本人は恥ずかしがる風もなく、むしろ悩ましいくらいの蠱惑的な笑顔を見せる。
「セラと離れるのは正直不安だったけど、あいつは馬鹿だからセラの魅力に気づきそうもなかったし、面白いくらいほかの令嬢たちに夢中になってくれたからね。姉上もいろいろ協力してくれたし」
「レーネが? 協力って、何を?」
「セラの状況を手紙で逐一詳しく教えてくれて、必要以上にあいつが近づかないよう牽制してくれて、それからあいつ好みの令嬢たちをそれとなくけしかけてくれて」
「そんなことしてたの?」
「まあね。最初は嫌がられたんだけど、なんとか頼み込んでさ」
あとでレーネに聞いたところによると、「だって、ちょっと渋ったら『じゃあ、この国が滅んでも、助けないよ?』とか言うのよ? 何それ、怖っ! ってなるじゃない。あんた、この国を滅ぼす気なの? って思うでしょう? でもセラを手に入れるためなら、やりかねないと思っちゃって」などと顔を引きつらせていた。確かに怖い。
「ロストルムに来てからの五年間は、必死で勉強したし、剣術の訓練も欠かさなかったし、社交もがんばったし、何より王太子殿下に能力を買われて、側近にまで抜擢されたんだよ」
誇らしげに語るラルスが、褒めて褒めて、と言わんばかりの顔をする。
だから「がんばったのね」と返しただけなのに、「全部セラのためだよ」なんてとろりと甘い視線で見つめるものだから、もうどうしていいかわからない。誰か助けて。
「それに、この国はバルダックよりも歴史が古いから、聖女のことや精霊信仰についても何かわかるんじゃないかと思って調べ尽くしたんだ。セラは聖女の務めとして民を癒し続けていたけど、民のほうはだんだん感謝することもせず、『ちゃんと治せ』だの『もっと早くしろ』だのと横柄になっていっただろう?」
「……そうね」
「それが、許せなくてさ。聖女の力は愛の力だとみんな知っているのに、敬愛も親愛も示さない相手に、なぜ聖女ばかりが奉仕し続けるのかって。だから聖女について調べながら、セラを聖女という立場から救う手立てがないか、ずっと探してたんだ。セラがもう嫌だと言ったときには、すぐに解放してあげられるように」
言いながら、ラルスが私の手をそっと握った。
温かくて、優しくて、なんだかとても、泣きたくなる。
「でもそのためには、王都神殿やセラの父上のレムス伯爵の協力が不可欠だと思ってね。それで連絡を取ったんだ。神殿の神官たちもレムス伯爵も、セラが搾取され続けていることには不満があったみたいだし、マクシムス殿下の態度にも当然腹を立てていたからね。せめて殿下との婚約を解消できないか、国の上層部と水面下で長いこと交渉を続けていたんだよ」
「そんなの、神官たちもお父様も、何も言ってなかったのに……」
「国の上層部が、なかなか首を縦に振らなかったんだよ。特に、陛下は最後まで拒んでたし」
確かに、神殿が主催する大きな祭事でお会いするたびに、陛下は愚息の至らなさを詫びながらも「あんなやつだが、よろしく頼む」と懇願するかのような顔をしていたっけ。
「まあ、それも最後には、どうにか決着がついたんだけどね」
「決着って、どうやって?」
「有り体に言うと、脅迫かな」
「脅迫」
「つまりはさ、ロストルム王国が中心になって『バルダック王国内での聖女の扱いはひどすぎる』『個人の尊厳を傷つけ、一方的に奉仕と献身を強いる行為は人権侵害と言っても過言ではない』とか言って、バルダックを派手に糾弾したんだよ」
「え!? えぇ……?」
知らないところで、そんな大ごとになっていたとは……!!
しかも私ごときに、御大層な大義名分を振りかざしすぎじゃない……!?
「ああ、ロストルム側はね、わりとノリノリだったよ。ほら、王太子の側近に抜擢されたって言っただろう? 俺がセラのことをちょっと王太子に話したら、『それは許し難い行為ではないか!?』って騒ぎ出してさ。あの人、義憤に駆られやすいから」
ふふ、と悪そうに笑うラルスに、なぜか私の心臓が変な具合に跳ねる。
なんか、ラルスって、実は結構、いやだいぶ、ちょっとやばいくらい、腹黒なのでは……?
「そんなこんなで、バルダック側もセラと王太子の婚約解消を認めるしかなくなってさ。ひとまず婚約を解消させたうえで、今後はデファクト侯爵家が聖女の後ろ盾となり、神殿と協力しながら聖女個人の権利や尊厳を守っていこうという話になったんだ」
「デファクト侯爵家ってことは、つまり……」
「父上は最初から、俺たちの味方だったよ? うちは昔から、神殿とも近い関係にあったからね」
「私、なんにも知らなくて……」
「だって、セラは毎日聖女としての務めに追われて、疲れ切っていただろう? これ以上、セラに煩わしい思いをしてほしくなかったんだよ。交渉が粗方終わって、やっとセラに会いにいけると思っていたところに、今度は神殿と姉上から火急の知らせが届いたんだ。セラの力が弱まってるらしいって」
「あ……」
ひた隠しにしていたつもりの真実を、改めて突きつけられる。
指先からすーっと冷えていくような感覚に襲われて、なんだか息苦しい。
「ラルスも、とっくに知っていたのよね……」
ぽつりとつぶやくと、不意に優しい腕が伸びてきた。
「つらかったよね、セラ」
気がつくと、私は抱き寄せられていた。私より華奢だったはずの手も腕も胸もあの頃とは違っていて、私を柔らかく包み込む。
「力を失いつつあったのは、あのクズとバルダックの民のせいだよ。聖女を敬い、尊ぶことを忘れたやつらのせいだ。セラが悪いわけじゃない」
「でも……」
思いは言葉にならず、ただ涙だけがあふれてくる。
ラルスは切なげに微笑んで、私のまぶたにそっと触れた。愛おしげに涙を拭いながら、「泣かないで」と低くささやく。
「セラが悪いわけじゃないだろう? 言い伝えのことは、バルダックの人間なら誰もが知っている。それを無視した浅慮な民のために、これ以上セラが尽くす必要なんてないんだよ。だからあのクズの生誕祭にかこつけて帰国して、正式に婚約を解消させたあとセラの今後について話し合おうと思っていたのに、あいつがとんでもないとこで暴走しやがって」
ラルスが忌々しげに吐き捨てる。
マクシムス殿下が、どこでどうやって聖女の力が失われつつあることを知ったのかはわからない。
でも彼はその情報を聞きつけ、これ幸いと喜んだのだろう。そして「聖女の力はすでに失われている」ことにして聖女の身分を剥奪し、王都追放を命じて私の排除を目論んだのだ。
恐らく、あの左腕にぶら下げていた『なんちゃって清純派令嬢』と新たに婚約を結ぶために。
「まあ結果的に、俺はどさくさに紛れてセラを連れ帰ることができたから、あいつの愚かさには感謝してやってもいいんだけどさ」
言いながら、ラルスはとても意地の悪い顔をした。腹の奥の闇深さが、じわじわともれ出しているような、そんな顔。
と思ったら、今度は焦がれるように切実な目をして、私をじっと見下ろしている。
「俺がほしいのは、聖女としてのセラじゃない。セラ自身だよ」
ねだるような艶めいた声は、容赦なく私を貫いた。
「セラが聖女だったから好きになったわけじゃないし、聖女として何かしてほしいわけでもない。セラさえそばにいてくれればいいし、セラ以外は何もいらないんだ」
「でも、聖女じゃない私なんて、何の価値も……」
「聖女かどうかなんて、どうでもいいよ。聖女でも、聖女じゃなくても、それ以外の何かでも、もう関係ない。だからセラ、俺の、俺だけのセラになってよ」
妖しいほどに甘やかな熱を宿す瞳に射抜かれて、身動きができない。
そのブルーラベンダー色の瞳を見返しながら、あのドレスはラルスの瞳の色だったのねと今更ながらに気づくのだった。
◇・◇・◇
その後。
私はアンバール侯爵邸で、穏やかに過ごしていた。
あのあとすぐ、デファクト侯爵とレーネが慌てた様子でやってきて、それから私のお父様であるレムス伯爵も到着して、ラルスの養子縁組と私との婚約に関する手続きがあっという間に進められた。
そうして、ラルスは「ラルス・アンバール侯爵令息」となり、私は正式に彼と婚約を結んだ。
「ほんと、今更なんだけど、いいの?」
レーネは弟の狡猾なまでの用意周到さと手加減のない腹黒さ、それより何より私への一途な独占欲と執着心に恐れをなしているらしい。
「あいつ、あんなだし、それにほら、四つも年下だし」
「そうなんだけどね……」
確かに、留学前のラルスは私に懐いてくれて可愛くて、弟みたいと思ったこともあった。
でも今のラルスは、あの頃とは全然違う。見た目はもちろん、中身はもっとである。
一緒に暮らすようになってから、ラルスは私をとことん甘やかし尽くそうとするし、常に自分の隣に座らせようとするし、すぐに触れるしすぐに抱きしめるし、至るところにキスしてくるし、もうてんで収拾がつかない。
侯爵夫人に助けを求めたら、「あの子はずっと、もう呆れるくらいあなたに恋い焦がれていたのよ。だから大目に見てあげて?」などと言われてしまう始末。助けてもらうつもりが、逆にダメージを食らう羽目になるとは。
日々ラルスの甘々攻撃にさらされ続ける私は、もはや息も絶え絶えである。最近はちょっと、ラルスを直視できないくらい。
「それはもう、『弟』に向ける目じゃないよね」
当たり前のように私の隣に座りながら、ラルスはとろけそうなほど甘く微笑む。
「セラはとっくに俺のものなんだから。姉上は邪魔しないでよ」
そう言ってふわりと私を抱きしめたラルスは、耳元でこうささやいた。
「もうセラを逃がすつもりはないからね」
かくして、一年後。
私たちが名実ともに夫婦となった夜、私の中の失われた聖女の力が完全に復活することになるなんて、このときの私はまだ、知る由もない。
◆・◆・◆
セラをこの国に連れ帰って、一年余りが経った。
このところ、隣国バルダックに関する不穏な噂をよく耳にする。
一年前、勝手にセラの聖女としての身分を剥奪し、王都追放処分を下した王太子は、国王陛下や国の上層部から厳しい追及を受けることになったらしい。
国王陛下も宰相も、自分たちの与り知らぬところであんな茶番が繰り広げられていたとは、夢にも思わなかっただろう。
幸か不幸かあのクズが廃嫡を免れたのは、ほかに跡を継げるような王族がいなかったからだ。
あのとき王太子の腕にぶら下がっていた子爵令嬢との婚約は叶ったものの、あの女もまた正妃を務めるに足る才はなく、浪費と社交に明け暮れていると聞く。王家の資産は、底をつきかけているらしい。
しかも、突然の聖女追放によって聖女の治癒を受けられなくなったバルダックの民たちは、元凶となった王太子を激しく非難したという。今も治癒を求めて王都神殿を訪れる民はあとを絶たず、バルダックの民たちがいかに聖女の癒しの力に依存しすぎていたのかを如実に物語っている。
王家の求心力が著しく低下する中、今度はバルダックの西の端に位置するフラムの森に、得体の知れない魔物が現れるようになった。
魔物はどうやら群れをなして生息しており、辺境に住む人々の生活を脅かしているらしい。事態を重く見たその地の領主は王国騎士団の派遣を要請したものの、現状まったく歯が立たず、魔物の被害は拡大する一方だという。
俺はロストルムに来てから、聖女と精霊信仰について手当たり次第に調べまくった。
ずっと、疑問だったのだ。
精霊信仰は各国共通でありながら、なぜ聖女はバルダックにしか出現しないのか、と。
あれこれ調べていくうちに、俺は精霊信仰に関する古い文献を見つ出した。
それによると、大昔、バルダック王国の西に位置する森には凶暴な魔物が群れをなして棲んでいたというのだ。
精霊は人々を守るため、その地に結界を張ることで魔物の侵入を防ごうとしたらしい。
そして、一人の女性に自分の力の一部を分け与えた。魔物の攻撃を受けた人々の傷を癒し、結界を強化し続けるための「祈り」の力だ。
それがのちに、「聖女」と呼ばれる存在になったという。
セラはかつて、聖女には二つの務めがあると話していた。
一つは、癒しの力を使って、人々の怪我や病気を治すこと。
もう一つは、朝晩二回、国の安寧と繁栄を願って祈りを捧げること。
この「祈りを捧げる行為」こそが、魔物から国を守る結界の強化を促していたのではないか。
だとしたら、聖女を失ったバルダックの結界はいずれ弱まり、再び魔物の侵入を許すことになるのではないか。
その可能性に気づきながら、俺は何もしなかった。セラにも話してはいない。
俺たちが結婚したその日、もっと言えば初夜のあと、セラの聖女の力が戻ったことは知っているし、戻るだろうとも思っていた。それほどまでに、俺の愛は深くて重い自覚がある。
力が戻ったセラにこの事実を話せば、すぐに結界を強化すべく、祈りを捧げようとするだろう。
でも俺は、セラを虐げ搾取し続けたバルダックの民を、許すつもりはなかった。だからこの先も、セラに話すつもりはない。
正直、バルダック王国がどうなろうと、知ったこっちゃない。
自分の実家やセラの実家、それから王都神殿の神官たちには、当然すべてを伝えてある。彼らは頃合いを見計らって自分たちの身の振り方を決めてくれるだろうし、そのための協力を惜しむつもりはない。
もしかしたら、うちの王太子がなんとかしてやろうなんてしゃしゃり出て、ロストルムの国力で魔物を一掃してしまうかもしれない。
でもそうなれば、近い将来バルダックはロストルムの属国となり、国の名前など消えてなくなってしまうだろう。
いずれにせよ、俺にとって大切なのは、たった一つ。
いま俺の腕の中ですやすやと眠る最愛の幸せを、未来永劫守ることだけだ。




