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サマー・レガート  作者: 雪村灯里
『サマー・レガート』 夏瀬 透花

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3/5

#3 彼の異変

 昨日は変な目に遭った。


 それでも、子供が楽しそうに創りだす姿を見て心が洗われた。いい夏の思い出だ。さぁ、これで私の創作活動を邪魔するものは居ない!


「はりきって描くぞー!」


 と、拳を突き上げた時だった。勢いよく入口の戸が開く。


透花トーカさん!」


 昨日、私に絵を教えろと言った少年がまた現れた! 彼は息を切らし、目を輝かせている。 それよりも私は彼の姿に驚愕きょうがくした。


龍巳タツミ君? 背、伸びてない?」

「え?……成長期だからね。これ位普通だよ」


 彼は珍しく戸惑ったが、すぐ笑顔で答えた。

 目線が確実に昨日より近い。それでも私の方が身長は高いが……


「そんな直ぐに成長する訳無いでしょ?」

「事実、成長しているんだから仕方ないじゃん。それより透花さんに逢えて良かった。もう来ないんじゃないかと思った」


 可愛い事を言うなぁ、照れるぞ。

 まぁいい。百歩譲って身長の話は置いておこう。気を取り直して質問する。


「絵を教えるのは、昨日だけじゃないの?」

「昨日? ああ。 誰が一日だけって言ったの?」


 彼は得意げな顔で屁理屈を言った。確かに一日だけなんて約束はない。でも、連日とも言ってない。私は心の中で歯ぎしりをする。何なら心から漏れていたかもしれない。弟なら、頬をつねってやるのに!


「透花さんのお陰で絵を描くのが楽しくなったんだ」


 え! 嬉しい。おや〜?


「それはよかった。じゃぁ、私の役目終わりじゃない? 悩み解決したでしょ?」

「だからもっと巧くなりたくて、デッサンをしてみたいんだ。あんな感じ」


 龍巳君は教卓の上に積み重なった石膏デッサンの束を指差した。

 描かれているのは青年マルスの石膏像――西洋の兜をかぶった青年の胸像だ。石膏像初心者が挑む像でもある。しかし、昨日まで絵を描くのが苦手だった小学生がいきなりマルス?


「いきなり難易度高過ぎじゃない? ちなみにデッサンは?」

「やったこと無い」


「ちなみにカッターで鉛筆削った事は?」

「ある」


 私は頭を抱え、彼の望みを叶えるプランを練った。いや、さすがに今日いきなりは無理。横目でチラリと彼を見ると、真剣な目で私を見ている。


「分かったけど、今日すぐに石膏像は難しいから、小さい物や身近なものから描いていこう?」

「なんで?」

「野球だってキャッチボール上手くならないと、楽しく試合できないでしょ?」

「……分かった」

「よろしい。じゃあ右端の下段が私のロッカーだから、その中からスケッチブックと鉛筆が入っているケースを持って来て」


 私はロッカーを指差した。龍巳君がロッカーの前に置かれた荷物を移動させて、扉を開ける。


「スケッチブックは新品のグリーンの表紙のやつね? 表紙に落書きしてある奴は()()()触らないで」

「はーい」


 彼は無事に新品のスケッチブックと、デッサン用の鉛筆を入れた透明のプラスチックケースを取り出す。


「これ使っていいの?」

「いいよ。スケッチブックはあげる。でも鉛筆は貸すだけね」


 鉛筆ごときと思うかもしれないが、地味に高いのだ。お小遣いをやりくりしてやっとここまで買い揃えた。この夏もバイトが出来ればもっと買えたのに!

 スケブも高いけど、昨日あれほど楽しそうに書いた彼だ。大切にしてくれるだろう。何なら家でスケッチを楽しんでここに来ることを忘れて貰いたい。


「鉛筆の使い方を説明しまぁす」

「鉛筆なら授業で使ったことあるよ」

「それは文字を書くためでしょ? その箱からカッターと3Bの鉛筆を取って」


 彼はしぶしぶ言われた通り取り出した。そしてデッサン用に削られている鉛筆を怪訝けげんな顔で見つめる。


「何コレ、長い……」


 わかる。


 デッサン用に鉛筆を削る場合、芯を長く出すように削る。

 私は鞄の中からスケッチブックと筆箱を取り出し、ページの真ん中に大きな円を書いて実演する。


「鉛筆は立てて描くだけじゃなくて、寝せて塗ったりもできるんだよ。 力の強弱や線の間隔で色の濃さも調節できるから。ほら、こんな風にグラデーションも出来る」


 龍巳君は現れたグラデーションを感心しながら見つめた。


「直線だけじゃなくて、短い線や曲線で影を描けば……立体感が出るでしょ?」

「ホントだ!」

「それに鉛筆は細かい粒子の集まりだから、こんな風に指でこするとぼかせるの。やってごらん」


 彼は私の言葉と共にスケッチブックを開くと早速真似しながら描きはじめた。


「そうそう、上手」

「あっ、 折れた」

「折れたらカッターで削るの。怪我しないように気を付けながら削って」


 彼はカッター刃の背に指を添え、慎重に鉛筆を削る。こればかりは電動では無理だ。


「難しい……」

「最初はみんなそうだよ。焦らないで大丈夫」


 彼は時間をかけながらも無事鉛筆を削り終え、練習に戻った。

 集中する彼に話しかけるのも忍びなかったので、私も自身の作業に戻る。

 どれくらい描いていただろうか。後ろから声を掛けられた。


「透花さん、見て?」

「ごめん……え? 線の練習だけじゃなくて手も描いたの? それに私の鞄?」


 彼は私が手本に見せた事を全て身に付けていた。飲み込みが早い……。


「透花さん集中してたから悪いかなと思って。勝手に描いてた」

「気を遣わせてごめん! すごい! 初めてなのにこんなに上手いなんて。私なんかすぐ追い越されちゃうかも」


 冗談交じりに笑ったら、龍巳君は暗い顔をした。不味いことを言ったかな?

 空も厚い雲で覆われて、ポツリポツリと雨が窓を打つ。


「雨降って来ちゃった、酷くなる前に帰ろう。傘持ってる?」

「ううん」

「じゃあ、置き傘使って……あと、鉛筆何本かもって帰って練習していいよ」

「え? いいの」

「描きたいでしょ? 」

「うん、ありがとう!」


 彼に笑顔が戻って良かった。


「さて、片づけたし行こうか……」


 私はいつもの癖で目を瞑り、耳を澄ませる。あれ? 私、何で音を聞く癖があるんだっけ?


「透花さんどうしたの?」

「……なんでもない」


 時々自分が分からなくなる。

 雨雲は黒く、遠雷と冷たい風に不安を覚えた。

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