路地裏饗宴
2055年、名古屋――
水共秀之は連日、縄文主義者の街宣にあきれていた。
戦争が終わって数年、だんだんこの街にも人が戻って来たのはいいが、彼らはここに鉄の戦いではなく言葉の戦いを持ち込んだ。
「生ぬるい! 帰化人の参政権を三世に渡って制限すべきなのだ! そしてその上で国家に対する忠誠心に厳正な審議を経なければ、政治に関わらせるべきではない!」
密入国者が急増している……という噂が流れていただけあり、縄文主義者の勢いはこの上ないほどに強まっていた。
曰く、先祖代々闘争に加わった者でなければ日本人ではない。色が白かったり黒かったりする人間も日本人ではない。ハプログループがではない人間も日本人ではない。奴らを追放せよ! ……
それは脅迫などではなかった。すでに縄文主義者の逮捕が相次いでいた。
「今は朝鮮で南北統一の機運が高まっているのだ! 奴らに対抗するために団結すべきなのだ!」
数万年前の、よく知らない赤の他人がそんなことをされて喜ぶとは思えないが。
今や誰もが強烈な『中心』を求めていた。そして今の所、縄文主義以外でもっともその役目を務められそうなのが人間、渡辺哲雄だった。先の戦争で勝利し、今や政府をさしおいてこの国の実権を握っている人物。
日々、この国を稼働させるための命令を出し、その偉大な名声により民心をも操っているが、常にその心の中は謎に包まれている。
官邸の奥、まるで偶像のように鎮座し決して衆目の前に姿を現すことはない。ただ年に数回の演説によって全国にその声と顔を示すだけ。
だがそれだけでも、水共にとっては
モニターに映る哲雄の顔を正視することができなかった。
それは、いかめしい顔をしていたからでもあるが、彼の瞳に異様な深みを感じたからでもある。その瞳の奥に、名状しがたい何かが隠れているのを水共は感じ取った。
まだ戦闘の痕跡は生々しかった。
救国軍が撃破した大型兵器の残骸が建物に突き刺さった晒されていた。中には戦闘用ドローンもある。
特殊鉄鋼の兵士が干からび、烏についばまれたまま、電柱にくくりつけられている。すでに。そして誰もそれを気にも留めない。それがもう日常であるかのように。
つい十数年前までこの日本の政財界を牛耳っていたあの民間軍事会社は完全に影も形もない。
ここ数年で、政治に関する関心は異様なまでに高まっていた。
基本的に他者と口を交わすことの稀な水共も、いやいやながらその話題を話さざるをえない。
水共の暮らすアパートから百メートルも離れていない所で自転車屋をやっている金海だけが、一緒にいて一息つける相手だった。
金海啓吉は水共が会いに行く時、たいていたばこを吸っていた。
戦争が始まる前からこの国では酒もたばこもすでにすたれかけていたが、金海はそういう物に自分から興味を示し、たしなむ稀な人間だった。金海の瞳はつぶらで、常に妙に明るい。
水共は、彼が何を考えているのかよく分からなかった。だがそれは他の人間にしても似たようなものだ。
誰もが、ここでは無数の場所から集まって来る。誰もが心に傷を負っている。水共にしてもそれは同じだ。
そしてその傷から逃れようとしたり、あるいはだから宗教だったり政治思想に傾倒するわけだ。
誰とも正直に話せない水共にとっては、最初から率直に話さなくていいのが分かっている金海といるのは実に心地よかった。もっともそれは卑しい優越感に基づく所も大きかったが。
水共が彼のいる工場を訪れると、決まって店先で珍奇な文物を並べていた。
「何なんです、これ?」 華やかな文様で覆われた装置とそこから伸びるパイプに目をつけ、水共は尋ねた。
「シーシャがね……彼らからかなり広まったんだが、戦争の後はもう誰もいなくなっちまったからな」
それから、水共に向かって誘う。
「吸うか?」
「いや、いいです。健康に悪いし」
「何で試してみるもんだぞ?」 不満げに。
水共は昔からこの街に暮らしていたらしい。
「観光客相手に自転車の貸出を行っていたんだが、だんだん軌道に乗り始めてな……あの頃は今よりずっと暮らしぶりが良かった。このあたりもずっと穏やかで賑やかだったんだ! そして何より特殊鉄鋼の社員が一番の上客だったんだ。あいつらは金払いが良かったからな。でももう全部、懐かしい記憶だよ」
外から、見知らぬ人間の怒号が聞こえてくる。きっとそれは政治思想の異なる人間同士のけんかに違いなかった。
救国戦争の終結後、敗北者となった社員をリンチにかけたという話が聞こえてくる今では、信じられないことだ。
「想像できないな。ここにはもう人間のかすみたいな連中しかいないのに」
「ああ。今ではもう、あんな風にできない。どこもかしこも殺伐としてやがる。こんな状況が一体いつまで続くか分からないから、みんな、信仰にのめりこむのさ」
金海は謎めいた表情を浮かべた。
「ここ数か月、縄文主義者がこのあたりにも続々と大土偶のまがい物を建設して、参拝させてるそうだ。もう神社や仏寺に行く人間がほとんどいなくなってしまったからな、あたらしくそれっぽいものをでっちあげるしかないんだろう」
「あんな似非宗教が蔓延したら終わりでしょう」
「どんな宗教も最初はそういう風に受け取られたものさ」 金海は静かに言った。
「そして今では政治家や生徒への支持が宗教にとってかわっている。渡辺哲雄がまさにそうだ」
水共は不審な顔を浮かべ、
「哲雄を支持しているんですか?」
「あれは嫌な人間だよ」 金海はそう言うと、返事を避けるように煙を吸い始めた。水共には、金海という人間の生き方は昔からそうだったのだろうと思われた。ずっと、目の前の状況にうまく立ち回って生きてきたのだ。
金海がどうしてそういう静かな狂気に染まらずに生きていけるのか、水共にはわからなかった。そして無理に訊こうとも思わなかった。
金海の内面も気になるが、収入や生活についても分からない所は多かった。
彼は本当に多くの客を相手にして、彼らの持ち込むバイクや自転車を修理し、時には改造するための部品を販売していたのだ。 水共はふと気になって、金海に尋ねた。
「あまり仕入れなどはしていないみたいですけど……部品とか足りどこから仕入れているんです?」
金海は、悪さを自慢するかのようなにやついた笑顔でささやいた
「大っぴらには言えないが、特鋼からくすねてきた備品を持ちだせたもんでね……。闇市に行かないと手に入らんものもあるからな」
彼が間違いなく特鋼に尻尾を振っていた人間なのは勘づいていたが、それを口にすることは無論水共はしなかった。
しかし、闇市か……。水共は、歴史が繰り替えされているのを感じた。
幸いにもこの街は早くから救国軍の支配下に入ったこともあって、経済的には安定していた。もっとも、そこに至るまでには、議会や有力者の間で血なまぐさい闘争があったらしいが。
それに水共自身は、元からつましい生活を送っていたし、嗜好品にはほとんど手を出さず、最低限の食事しかしなかったので、あまり切り詰める必要もなかった。
なので、無理して非合法な製品に手を出すこともなかった。だからこそ、そんなことにために法を破ろうとする人間の内面に理解を欠いていた。
昔の場合はまだ、節度があった。水共は過去を理想化した。
かつて、太平洋戦争の後、闇市の物資に頼らずついに飢え死にした学者がいたそうだが、この時代にあってはもはやそんな高潔さを求めるなどどだい無理な話だ。
水共は、このような状態にあっても、少なくとも何か人間性の底だけは守れるはずではないか、と疑っていた。
それなのに、縄文主義者や深村のように破滅的な願望を持ってしまうのはなぜなのか。
水共は分からなかった。そしてその疑問を誰にも打ち明けようとはしなかった。
恥じるべきなのは俺自身の弱さなのだ。誰とも打ち解ける努力をしてこなかった、俺自身の。
「何で彼らはあそこまで敵の話題で熱く語れるんだろうな。もう少し創造性のある話題で話せないものか」
「創造とか生産とかでどいつもこいつもうるさかったからあんな風になってんだよ」
「あんな戦争があったら仕方がないな。ニコ動やつべも今は存在しないんだから。あるのは特鋼のプロパガンダキャラだけだ」
水共は正直この手の話題に加わりたくもなかった。というより、そもそも職場に鉢合わせになる人間自体があまり好きでもなかった。どちらも皆目意味が分からないが、どうせ
「平成の言葉で話さないでくださいよ。僕はあの頃生まれていないんですから」
「『推し活』みたいな感覚で人間を応援しているんだからな。まるで架空の人物を慕っているみたいな……」
職場に縄文主義者のいないことだけが幸いだった。しかし、彼らの思想に理解を示す者もいた。
彼らが支持する者は基本的には渡辺哲雄だった。というより渡辺哲雄しかなかった。縄文主義者よりも、彼の支持者の数がほんの少し上回っていた。
ある日、仕事仲間から誘われた。
「哲雄行政官に仕えている羽島っていう人の話があるんだよ。聞きに行くか?」
チラシ。解像度の低い写真の下に、哲雄と共にあの戦争を戦った男であるという紹介文が添えられている。
そうなのだ。特鋼からの離反者でしかも救国軍が哲雄に率いられている以上、哲雄を支持するというのは、特鋼の体制を半ば擁護するようなものだった。
水共は哲雄という人間にあまり好感を覚えていなかった。たとえ国家の崩壊を食い止めたとしても、元は特鋼の配下ではないか。
そして今では日本政府に代わり様々な内政と外交上の決定を下して、事実上の元首として君臨している。
哲雄を批判する者もいたが、哲雄を支持する者の声の方が遥かに大きかった。国家が未曽有の混乱状態にある現在では、どんな怪しい人間であっても、力がある人間であればすがりつくしか道がない。
『狂気こそが正気なのだ!』といって支持を集めた活動家はどこだったろうか。
「何で俺がそんなものを聞かなきゃならない?」
水共は言った。
「いや、聞く価値はあるかもしれないんだ」 相手は言った。
「何せ渡辺哲雄はほとんどを公共の場に顔を見せないんだ。関係者から話を聞けるだけでもありがたいと思うべきじゃないか」
水共は、嫌な予感しかしなかった。
「哲雄の側にいる人間の話を聞けるんだからな」
哲雄という人間を、ニュース映像でも新聞の写真でも目にしない日はなかったが、水共は彼の顔を一度も真正面から見たことがなかった。
ただ嫌悪感を抱いているからではなく、その顔を見れば魂を抜き取られるのではないかという呪術的な恐怖感から。
あの男について喧伝される伝説的な武勲の数々を聴いても、その恐怖感は補強されるばかりだった。
あの男の眼窩にひそむものが何か、はっきりとした概念に当てはめることは困難であるが、それは紛れもなく支配や権威を正当化してしまう力であり、それを通して哲雄という人間が膨大な群衆を操っているのではないかと思わせた。
ただ単に戦争を勝利に導いたというだけではない。災害を生き延びたとか、人生の重要な節目で異常現象が起きたとかいう数々の噂を聞いても、水共の猜疑心は増幅されるのだ。それが不当な偏見だと理性では分かっていても、心の奥底で水共は哲雄を見下したい気持ちがあった。
やがてその日がやって来た。まだ暑さが引かぬ頃のことである。
銃痕が生々しく残るコンクリートの建物の中に、人々が駆けつけて行った。
中は前後左右人間でごった返しており、立錐の余地もない。
向こう側だけがかすかに明るく、白い背景に中年の背の高い男が立っているのが分かる。男は頬に長い傷の跡があった。しかしそれを恥じるどころか、堂々と誇るように顔をやや上に向けている。
その風格からして、軍人であることが分かった。
彼こそが羽島義一郎だった。
羽島は静かな声で語り始めた。
「皆さん、今日はお集まりいただきまことにありがとうございます」
『哲雄さん』と親しげな声で呼ぶのが聞こえるたびにひどく虫唾が走った。だがここで少しでも苛立ったりすればたちまち周囲の人間にタコ殴りにされるのが落ちだ。黙って耐えるしかない。
「今日は、皆さんに、私があの戦争で経験した苦労と、哲雄さんがどれだけ私たちのために尽くしてくれたか、語る日でしたね。まだ、あの日の思い出は色濃く刻み付けられています」
義一郎はゆっくりと語り始めた。
「まだ戦争が始まる前、私は単なる特殊鉄鋼の軍事部門に属する兵士でしかありませんでした。京都本社が爆破され、指示系統が存在しなくなった時、浜松の哲雄さんは私に蜂起をうながしました。私には、まだこの国を揺るがす巨悪と戦う覚悟ができていませんでした。しかし、状況は切迫していました。特殊鉄鋼の巨大な利益構造を見れば、次に誰がそれを手にするかをめぐって悲惨な争いが起きるのは避けられないでしょう。哲雄さんは国民に真の自由をもたらすという偉大な使命を自覚して、特殊鉄鋼その物の解体を私に提案したのです。私たちは戦うしかありませんでした。そして、自由と平和のために邁進し続けました」
金海が生まれた時は、すでに特殊鉄鋼は社会の様々な所に浸食していった。化学薬品の研究開発から、建築業や製造業に至るまで様々な分野を支配していた。
21世紀初頭から台頭してきた企業による支配が日本にまで波及した結果、共同体は解体され、人間の充足に必要なあらゆるものが金に還元さっれるようになった。人間は単なる商品になった。
「私は広島の戦いや博多包囲戦で激しく戦いました。顔の傷は犠牲が出ました。仲間の血の匂いや体の焼ける音は今でも覚えています……」
羽島義一郎は淡々と語っていた。言葉にできない壮絶な物を無数に目撃してきたのだろうが、それを意味を持った声にしようとすると到底理解できるものにはならないだろう。
「私は何度も諦めかけました。そして一度は重傷を負い、野戦病院に連れ込まれることがありました。とうてい正視に堪えない負傷であったにも関わらず、哲雄さんは私を懸命に看病してくださいました。私はそれで生き延びることができたのです……」
次第に羽島の語り口が熱を帯びてきた。
それにつれられ、聴衆の中にはあまりに入れ込むあまりすすり泣く者が出始めた。水共は一切のせられなかったが。
「現代は未曽有の危機の時代です。一人一人が知恵を出し合わなければなりません。そしてその知恵をまとめるための綱が必要なのです。その綱となるのがあのお方だ!」
羽島は涙ながらに語った。
「日本を救えるのは……哲雄さんしかいない……!」
周囲にも歓喜にむせび泣いていた。その中でただ一人、水共だけが呆れて物も言えなかった。
(何だ? このカルト教団は?)
(こんな奴らが将来を担う連中であってたまるか!)
水共は彼らに対する軽蔑と憎悪をさらに深めるだけだった。
人々の中に、赤銅色の肌の、一際背が高い男が目立った。しかし彼に対して注意を払う余裕はなかった。
向こう側からこっちに目が合った気がしたが、それを気にする前に水共は走って家まで急いだ。縄文主義者が描いたのであろう『独裁者金哲雄を許すな!』の上に、『哲雄なくして新日本なし』の標語が赤いペンキで塗られていた。
水共はそろそろ気色ばんでいた。彼の先祖が誰であるかなど、彼が現にしでかしていることに比べて何の議論の種になるというのだ。
(哲雄の出自を調べることに何の意味があるんだ。あいつはそんな下らない問題を越えてとんでもない奴だ)
そのくせ、顔を背けると、「日本政府解体!」「渡辺哲雄を終生総理大臣に!」という幕がデパートの壁一面に張られていた。
伊朔は他人事のように言った。
「あれはとんでもない奴だな……、なぜあんなのが人気なのか分からないままだ」
「本当にな」 水共は言った。
「どうしてあんなのに心を惹かれてしまうんだ? あんな悪い奴なのに……」
だが相手の目は異様に光っていた。
「悪い奴だからこそ面白いんだ……」
その感性が水共には理解できなかった。支持されるべき人間は、善人であるはずなのに。
今、日本において最高権力の所在は不明瞭だ。天皇も内閣も依然として存在しているが、もはや天皇家に対する尊崇の意志は政治家からすら失われ、内閣に実権はない。哲雄は内閣から特別行政官という称号を受けてはいるが、その権力の法的根拠はいまいちはっきりしない。元々が特鋼の一社員でしかない人間に間に合わせで権力を付与したのだから、正当性などあってないようなものだ。それがますます、政府に対する信頼感を損ねていた。
縄文主義者も哲雄もだめなら、一体どこに救いを求めればいいのだろうか。
金海は水共の近況について訊いた。
「あれは聞くに堪えませんでしたね」
「君、勇気があるよ。あんな集会に自分から首をつっこむなんて」
「馬鹿にするには、よく知らなければいけませんから」 水共はそっけなく言った。
「僕だったらさすがにあんな所に行く勇気はない。そもそも興味を持とうとすら思わない。大体国家に所属しようという意識もないからね……」
「そこまで悩む必要はないだろう?」
金海は思ったより深刻な顔をしてはいなかった。
「で、でも!」
「歴史っていうのは個々人の力でどうにかできるもんじゃないだろう?」
金海はビールの蓋を切った。
「俺はただ目の前の人生を生きるだけだよ」
そして、グラスに液体をつぎ、飲む。実に手慣れた動きで。
(この敗北主義者め)
水共は金海に対しても静かな失望と幻滅を交えるようになった。無論それを表に出すことはしなかった。
いや、分かるのだ。少しでも理性を保とうとすると、金海のようになってしまうのは。
水共は、正義に生きたかった。
相手が間違っていることを認めさせたかった。
その快楽が下らないものだと言われれば憤らざるを得ない。水共は何が何でも
それがエゴでしかないことなど、薄々分かってはいる。そして、それが単に生きる方便であって、心の深いレベルではどうでもいいことも。
しかし水共にとって怒りは惰性だった。
あまりに異常な世界で、異常に染まり切らないためには、異常な人間を遥かな高みから冷笑する意志が必要だった。
そもそも、なぜそういう人間に育ったのか。
水共には夢があった。
本当ならそれにすがって生きたいとばかり思っていた大きな夢だ。だが今ではその夢もほとんど忘れかけていた。
雨が降っていた。熱にうなされていた。めまいで、前もよく見えなかった。
本当は人間の姿はまばらなのに、その何十倍もの人間がいて、ごった返しているような錯覚を受けた。
ついに姿勢を崩して、倒れ込んでしまった。水共は、なぜか自分の陥った状況を深刻には受け止めていなかった。家の棚の上に置いてある酢の瓶が落ちてはいないかどうかという心配ばかりをしていた。この時だけはより大きな世界のことなど少しも問題ではないように思えた。
それから水共の視界が暗転した。
「目を覚ましたか」
知らない部屋にいた。安アパートよりはもうちょっと格の高そうな和室だった。
起き上がろうとして、頭に冷却用のシートが貼られていることに気づいた。そして、布団の中に
「道端で倒れていたから助けてやったんだぞ。あんたの体が思ったより重かったからここまで運ぶのに大変だったんだぞ! 感謝しろよ」
「ここは?」
「佐村義治だ。職業はガソリンスタンドの店長だ。ここは。電話番号は……」
今の時代、赤の他人を見返りなしで助ける者などいない。男は相手に不審な気持ちを抱かせないために、必死で身元を明かした。
水共は、佐村にどう受け答えすべき
壁に日の丸が掲げられているのを見た。よく見るとそれは砂で汚れた跡があった。
「かなり古い旗ですね」
「うん。何せ百年以上前の物だからな! 出征した兵士に与えられた寄せ書きだよ。この頃は何としてでも歴史の遺物を保存しなければならないんだ。戦後とか戦前という言葉が大東亜戦争から特鋼のテロに関して言われるようになるのをね、黙って見ているわけにはいかない。ニュースを見たか? 縄文主義者はひどいものだね」
「ええ。哲雄を支持する者も」
「ああ、どちらも同じ穴のむじなさ。結局、そこに救いはありもしない」
佐村は眦を決して叫ぶ。
「縄文主義者も哲雄も頼むに値しない! 我々がより頼むべきものは一つ! 皇室だよ!」
佐村は声を張り上げた。
「みんな忘れているんだ! この国がそもそも何によって立っているかを! 内戦じゃない、大東亜戦争の後からずっとそうだ。物質的な豊かさを重視し過ぎて、だから珍奇な物に惹かれて、自己意識を見失ってしまう!」
「皇室で腹はふくれないと思いますが……」 小声でぼそりと。
「ああ、そういう不平を漏らす者もいたよ。だが陛下もその時は国民と一緒に苦労を共になさっていたんだ! ……」
水共は、佐村の言葉を途中から聞き流していた。
正直、あまり金海よりは少しましなくらいか。
しかし、懐古趣味が過ぎる。この男は、現実を見ていないのだ。過ぎ去った理想に没入しすぎなのだ。
水共は質の悪い酒にありつくしかなかった。貧乏なせいでまともな質の酒が飲めなかった。というよりこの時代、酒を作る技術はこの国から失われていた。タバコにしたって見かけるのは電子タバコの方で、本物のタバコを吸った人間など数えるほどしかいない。
旧時代の遺産にすがりつく自分自身の古さにも自嘲せざるを得ない。
水共は久しぶりに金海に会った。そしてまず、佐村と会った時のことを話した。
金海は酒のグラスを赤茶けた指でこすりながら、
「その佐村って人間は俺よりはまだ理性が残っているってわけだ」
「比較的ですけど……」
金海は水共の顔をじっと見た。軽蔑するわけでもなければ、肯定するわけでもない。虚無に近い顔だった。
だがそれは感情の機微が消え去ったのを意味してはいない。むしろ、感情や惻隠があるからこそ、それを排した境地に逃れたくて仕方がないのだ。
「理性があることで何になるってんだ? この時代に正気でいたって仕方がないだろう」
「渡辺哲雄を糾弾しろ!」 またもや窓の外で騒音が鳴り響く。
「あれを思い出すだけで身の毛がよだつ。でも不思議だな……何でよりによって、憎悪で塗り固めようとするんだ? もっとこう、のびのびと生きようとしないのか? そっちの方がずっと精神的に楽だろうに……」
「民主主義を取り戻せ!」 そう叫んでいる人間の中に、本当に世の中を憂えているのがどれくらいいるのかと金海は聞きたくてならなかった。
「何であれにすがらなきゃいけないんだ。もう民主主義がどれだけ問題のある政体か分かっただろうに」
金海にとっては、
「これからはまた、専制君主の時代に逆戻りだよ。民衆がそれを望んでいるんだから」
そうだ、どいつもこいつも同じなんだ。辛い記憶を無理やりにでも抑え込もうとしている。
そして俺だけが正気なのだと、水共は確信したかった。俺だけが現実的な考えをもって生きている。
『この時代に正気でいたって仕方がないだろう』……
彼は再び佐村に会いに行った。はした金で、世話をしてくれた分を支払うためだ。
「お前も随分元気になったようだな」
「おかげさまで」
佐村の部屋も少し変わっていた。
それまで何もかかっていなかった壁に、一枚の掛軸がかかっているのを
「教育勅語の掛軸だ。あやうく廃棄されそうになっていたのを買い取ったんだよ。荘重な字体だろう?」
佐村には、金海のことは話さないようにした。
金海と佐村は互いを絶対に認めないだろう。
「私はね、こういう時代が来るのを覚悟はしていたんだ。だが実際に来るとなるとこうも耐えがたいとはな。先祖の霊にどう弁明すればいいか!」 勝手に悲憤慷慨するのだった。
こうなると水共はすっかり困り果ててしまう。この男はあいつらより正気かもしれないが結局現実を見ていないと思うとやはり傲慢な感情が頭をもたげてしまう。
幾分か暑さのましになった頃に、水共は、アイスを買いに出かけた。
その際に、再びまた見かけた。褐色の肌の男だ。
その姿に水共は見覚えがあった。
「お忘れですか?」
「以前、羽島義一郎氏の講演会で見かけたと思いますが……」
「アビオドゥンと申します」 褐色の男はそう言った。
アビオドゥンの他に、もう一人の男が立ち上がって水共の前に立った。
「田濃裕です。私も羽島さんの話を聞いていたんですよ。私はかつて縄文主義者としてあらゆる他者を排斥していましたが、哲雄さんと直接話をしてからはあの方の人徳に感じ入り、あのカルトから抜け出すことができました」
田濃の目は異様な光を放っていた。上っ面が変わっただけで、本質は何も変わっていないらしい。
「縄文主義者は忌まわしきシオニストです。そして、私たちは彼らに裁きの鉄槌を降す使者なのです」
ああ、これではますます奴らと同じではないか。
「何でそういう風に気持ちよがるんですか? まるで宗教みたいじゃないですか」
「いいえ、宗教ではありません。科学的な方だ……あの人は」
「科学的?」
「そう。ただ単に官邸の中から命令を下しているわけではありません。哲雄さんは市民と直接話をなさっているのです。未だに国内外から哲雄さんのことを悪しざまにいう人は絶えない。自分自身に対する冒涜的な言動に対して潔白を証明するためにあの方は対話を重んじておられるのです」
哲雄『さん』というのが気に入らない。
「あの男は陰で人々を弾圧してるそうじゃないですか」
アビオドゥンが険しい表情を浮かべる。
「いえ、違います。それは、哲雄さんの敵が流しているデマです」
「実際に哲雄さんにお会いすれば、それが嘘だと分かります」
水共は、もはや何を信じればいいか分からなかった。
「哲雄さんは、水共さんのような人にこそ会いたがっているんです。迷う人々に」
アビオドゥンは真剣な顔を浮かべている。恐らく哲雄のことを心から崇めているのだろう。
「より良い世界を目指す人ですよ、彼は……」
水共は、迷ってしまった。
「会っていいのですか? 私みたいな人間が会って」 それは、あくまでも哲雄を遠ざけたいがためにそう訊いた。
「いいんですね?」 しかし、アビオドゥンは確認した。それは会話の糸口などではない。明確な二択の質問。
「連絡をアドレスを交換しませんか?」
水共は、それを断りきることができなかった。
帰り道で、佐村とすれ違った。
「何やら大変なことがあったような顔だな」
水共は率直に答えることにした。
「実は、渡辺哲雄の熱烈な支持者というのに出会いまして……」
「最近はこの辺にもカルト信者が増えているそうだな?」
どうやら、先ほどの会話は佐村に筒抜けだったらしい。
「さっきの話を聞いていたぞ。哲雄崇拝者に会いに行くそうだな。やめておけ」
警告する佐村。
「世の中の独裁者はみんな個人的には気さくでいい人だった。だがそんなのは当然だ。人は目の前の見知らぬ他人に対しては優しくならざるを得ないんだから。だがそれは本質でもなんでもないんだ!」
水共は、彼から顔を背けたかったが相手の鬼気迫る表情がそうさせなかった。
「そいつらは、陛下の宸襟を乱す国賊ども以外の何物でもない。奴らがこの国の実権を奪うのに何か法的な手続きを踏んだというのか? 内閣に何の権力もない状態は全く変わらない。特殊鉄鋼から無理やり実権をはぎ取っただけの盗賊なんだよ」
佐村の言葉は相も変わらず正しい。しかし、正しさで何かが変わるというのだろうか?
「だが、それに対して暴力で抗するようでは奴らと変わらん。だから私は記録し、保存するんだ。あるべき秩序の形を未来に残すためにな」
自分にはとても真似のできない活動だ、と水共は思った。
佐村のように根気強く何かを続けることなど、水共にはできなかった。
哲雄も縄文主義者も滅びてしまえばいい。水共はどちらも、魂の奥底から呪詛した。
だがある種の人間が、そういう破滅願望から哲雄を支持しているのもまた事実であることに水共は絶望を深めるのだ。
そういう自分はどうなのだ……と、ふと疑った。
急に怖ろしくなった。自分が醜悪な何かに思えて来た。水共は涙を流しそうになった。俺は、こんなさもしい人間に生まれついたわけじゃない。
物心ついた時から、彼を取り巻く状況はいつも殺伐としていた。政治も経済も行き詰っていた。人々を結ぶ、打算なき古い絆は失われ、銭の関係がそれに取って代わっていた。水共もまたそれに否応なく巻き込まれていた。
就職の時には、将来の安定のために特殊鉄鋼に応募したものだ。しかし特鋼への門は狭かった。
今思うと、むしろ特鋼の採用に落ちたのはかえって幸運ではなかったかと思う。少なくとも救国戦争後のことを思うと、哲雄の郎党に一体何をされたか分からない。
水共は、確固とした信念を持たずに生きてきたことに気づいた。何もかもが滅びてほしい気持ちもあるが、何もかもが無事でいてほしいとも思う。
いっそ悪人でいられたら苦しまずに済むだろうが、一思いに悪に落ちることもできない。
そういう内面の葛藤を誰にも漏らさなかったせいで、たまたま周囲と一応はうまくやれているという事実に、ひどく所在なさを覚える。
自分の肉体が空虚な何かに思えてきて、戦慄した。一体その魂に何が寄り添ってくれるのだろう。神ではない。政治思想などではない。
「あなたは神を信じますか?」
突然横からチラシを差し出されたので、不意に水共は体をひねった。アビオドゥンとはまた別系統のアフリカ系の人間で、煤けた色合いの縮れ毛に赤茶けた肌をしていた。
相手は骨格こそまだしっかりしているがだいぶ老けた顔をしていて、恐らく年齢自体は若いのだろうという予測がついた。
神によって与えられる救いなどいらなかった。せめて人間から与えられる救いが欲しかった。
また元の部屋に帰り着いた。こうやって立ち尽くすと、戦時中のあの慌ただしい生活とは一転した、ほとんど変わり映えのない繰り返しの虚しさにむせかえり、一気に虚脱感が襲ってくるのだった。
神などというものをなぜ信じられるのか分からなかった。
だが、普通の人間は苦境に陥った時、神に対してますます篤くより頼むものらしい。
戦争以前から、このあたり一帯にあった寺社はほとんど廃墟となるか、跡すら消えてなくなっていた。
ただ、台湾のキリスト教団体が水共の暮らすアパートに隣接した雑居ビルを借りて何やら慈善活動などをやっているらしいのは知っている。十数年くらい前はもっと沢山の国から来た移住者がそれぞれの宗教をこの町で実践していたが、そういうのは内戦以後彼らの姿と共に消えてなくなってしまった。
哲雄と会わなくてはならない。あの虎狼のような男に。
哲雄に関するニュースは、ほとんど肯定的な物しか報道されなくなっていた。
以前だったら哲雄が国会に干渉しているのを苦々しく受け止めるコメントもあったが、それもなかった。
水共がこの頃アクセスしていた、反哲雄派のニュースサイトも、閲覧できないように遮断されてしまった。
きっとアビオドゥンたちはそれを、哲雄の人格が認められた証拠だとでもいうつもりなのだろう。
水共はほとんど部屋を掃除しておらず、床から棚の上まで衣服や道具が密集していた。
たそがれの近いこの頃では、夕方になった頃からもうすでに分厚いカーテンに遮られ、すぐ部屋は薄暗くなる。
新聞は大きく開かれている。たまたま表になったページ、コラム欄に大きく記された、「事態を静観せよ!」と述べる立花李倍の論説。この男も以前は紙面やネットで激しく哲雄を非難していたはずだが、その姿勢も最近はなりをひそめていた。何でも建築業につとめる彼の弟が熱心に哲雄を崇めているという……。
慢性的な疲れからベッドの上に倒れ伏し、水共はとりとめのない空想にふけった。
もし自分が世界の支配者だったら、世界中でのさばっている大衆迎合の政治家の猖獗をただでは済まさないだろうと。あるいはまた、もう半世紀も前のアニメのあるストーリーについて、かすかな記憶の断片を思い出し始めた。
そして、遠い昔に思い描いていた夢の一端を、忘却の割れ目から垣間見た。
……思い出した。俺は助けたかったんだ。この世界を。
ずっと世界は滅びに向かっていて、人々は誰もそこから逃れることはできない。俺がそういう人たちを助けようとする光景を、ずっと思い描いていた。
自分自身が助けを必要としていたのに。それだけじゃない。誰もが子供から大人になる時に、無垢な心を塗りつぶされ、切刻まれて整えられてしまう。
そうやっていつまでも世界の滅びを導く道理が継承されていく。俺はそれを止めたかった。
けどそれを止めるすべがどこにもないと気づいてからは、もうそれについて深く考えることをやめてしまったのだ。
それでもなお、水共は誰かを助けたいという気持ちだけは捨てることができなかった。自分自身が救われたいという願望そのものも。
アビオドゥンからはことあるごとにメールを送って水共に返信を迫った。
流暢な日本語で彼はメールを書いた。
元々ジャーナリストとしてこの国を訪れた彼は、人々に取材していく中で、哲雄に注目し始め、彼の身の上やカリスマに心を惹かれるようになったという。
アビオドゥンは、日本人とは違って非常に密な人間関係を求めていた。
水共は、哲雄に会いに行くという選択肢を取りたくなかったが、そういう風に話が進んでしまっている状況にとてつもない不快感を覚えた。本当ならきっぱりと断りたい所なのだが、それでもあえて哲雄と実際に会い、彼ごときに煽動される自分ではないという確信も欲しかった。
彼に会うことよりももっと度し難いことはある。哲雄の勝利はこの世界がずっとこのまま進んできた結果であるということだ。
世界を見ても、どこの国も同じように混乱している。哲雄よりひどい誰かが跋扈している。それがもう何十年も前から続いている。自分で考えるのが億劫なので、誰かに責任をかぶってもらいたい人間がいるから、こんな状況になる。
水共は哲雄に一矢報いてやりたかった。
哲雄という人間がただの声の大きい少数派の意見を反映しているだけの装置であることを。ただの偶像であることをひっぺがして、いつの日かそれを公表すべきなのだ。
そうすれば、佐村の好意にも報いることができるかもしれないと水共は思った。
やけに深刻そうな顔をしていることに気づいたのだろうが、誰も声をかけなかった。水共はそもそも無口であることが多かったし、気難しいと思われていたので、強いて水共に事情を聞こうとする者はいなかった。
金海にはもうこの手の話題は話さないようにしていた。それを語り合う人間ではない。
だが金海は水共が寡黙なままでいることをそう許してはくれない。自分と同じようにおしゃべりで、それでいて自堕落な人間でいることを勧めてくる。その性癖は、水共が自分の気持ちに葛藤し、はっきりと物事を話せなくなってきてから余計ひどくなったように思う。
「最近は黙ってばっかりだな。少しくらい自分から話せよ、え?」
ついに、これを話さねばならないのか。
それでようやく水共は口を開いた。重々しい口ぶりで、嫌々ながら、
「哲雄の崇拝者たちと話をして、哲雄に会うことになったんです」 人と話すと、本当に馬鹿らしいと思う。
「そりゃ本当か?」
「本当です」
水共は、本心を悟られたくなかった。
「お前もとうとうあんな香具師に心を開くことにしたんだな」
金海の虚ろな瞳が、わずかに震えていた。
「哲雄しかいないという奴らの鼻面を明かしてやりますよ。俺は」
嘘だ。水共には哲雄が正しいかどうかなどどうでも良かった。ただ、安心したかった。哲雄を論破して安心したいのか、哲雄に何もかもぶちまけたかったのか、それは分からない。
水共は、金海が本当に自分のことを案じてくれているとは思わなかった。
誰かと純粋に向き合おうとしない、何かへの傾倒で逃避しようとすることでその弱さをごまかすのを、他の人間は恥じようともしない。
深村伊朔は前よりも哲雄を支持するようになったらしい。これまでは世の中をぶち壊してくれることを期待して哲雄に投資していたのだが、義一郎の話を聞いてからは哲雄のことをより深く知りたいと思い始めたらしく、哲雄と関係のありそうな人間を色々かぎつけ回り出したのだ。
哲雄は、実質的な権力を有しながらも政府をすぐに解体しようとする素振りは見せない。日本政府が長年統治してきた実績の前には、力で奪っても国民の誰も納得しないから。
水共は、彼の顔をまだ正視することができない。
そして、アビオドゥンはことあるごとに渡辺哲雄と顔を合わせ、どれだけ彼の偉大さを確信したかを自慢げに通話で話すのだった。
いずれにしても哲雄が静かに人々を影響下に置きつつあるのは明白だった。
特殊鉄鋼は金で支配していた。あらゆる企業を買収し、傘下に加えることで社会の幅広い分野を支配下に収めようとした。
しかし哲雄は暴力で支配しようとしている。軍事力に物を言わせて反対する者を黙らせ、自分を批判する者たちを片っ端から逮捕し、刑務所に収容している。
批判されれば、批判されるほどあの男はむしろ信望を集めてしまうということだ。どう考えても是認されていいはずのないことをしているから支持されてしまう。
本来そうならないはずなのだが、現にそうなっている。金海がただ、ぽつりとああつぶやくだけにとどめてしまうのも無理はない。
ひしゃげた装甲車。次の瞬間、炎上。
この日の名古屋では特鋼の残党が救国軍の車両を破壊する事件が起きた。犯行を行ったのは、旧特殊鉄鋼に所属し、渡辺哲雄の反乱を鎮圧しようとした旧社員数人。
戦争からわずか数年しか経っていないこともあり、この程度の騒ぎは住民にとって驚くほどのことでもなかった。しかしただでさえ政治論談でノイローゼになりかけている水共にとっては、この銃声と火の粉の鳴る音は余計心をかき乱した。
あいにくこの日が、哲雄と水共の面会の日だったのだから。命が惜しいだけで約束が破れるほど水共は、最高権力者に対して反抗的ではなかった。水共は走って、目的地まで急いだ。
アパートを隔てた先、すぐ近い場所で銃声が響いている。しかし、周囲の人間はいつもと変わらないリズムで生活を営んでいた。銃や手榴弾を携行した男がすぐ近くで殺気を放ちながら歩いているのを見ても、だ。
水共がこせこせしながら歩く道の途中で、佐村が待ち構えていた。最初からここに来るのを知っていたかのようにそこに。
「やはりお前が来るのは必然だったようだな」
腕を横に伸ばし、遮ろうとする。
「お前が何を考えているかは知らないが、お前はここから先に行くべきじゃない。哲雄がこの街にいることは分かっているんだ。そして自分の名声を広め、従順なシンパを作る準備をしている」
佐村は重々しい声で、
「ここはもう奴らの根城だ。お前と俺がいる所じゃない」
水共は佐村の言葉を黙殺したくはなかったが、さりとて肯定したくもなかった。こういう時は、自分の欲望を押し通すしかない。
「私は楽になりたいんですよ。これは思想信条を越えた問題なんです」
「楽になりたい、だと?」 佐村は予想外の言葉にあっけにとられた。
「都合の良い誰かに頼って、楽になれるなどと言うもんじゃない……それは罠だ。お前は洗脳されてもいいのか?」
水共はもう、何と答えればいいか分からなくなっていた。
「思えば……俺は誰かを洗脳したいと思っていたのかもしれない……」
佐村はもはや、水共に対して告げる言葉が見つからなかった。水共は、佐村は水共の心理に擁護する筋合いもなかった。
「とんだ時代だ。今日では誰もが世界を支配したがる……」
佐村は腕を降ろした。もはや、彼には水共を止めるための言葉など見当たらなかった。
路地裏を抜けた先では、すぐ近くで銃声が聞こえている。危険な状況であるにも関わらず、彼らは驚くほど落ち着き払っていた。
よく見ると、彼らの数人が騒ぎの張本人らしい防弾チョッキや覆面を足蹴にし、締め上げていた。水共は、自分まで胸倉をつかまれたかのように苦しい息をして、眺めることしかできなかった。
しばらくして、軍の兵士たちが騒ぎのあった場所にたむろしていた。
瓦礫を撤去した空き地の真ん中、軍服を着た羽島義一郎が大声で語っていた。
「諸君、これは何も失いたくない者による臆病な抵抗だ! 過去にとどまり続ける者の哀れな嘆願だ! しかし、何も失うことができない人間には、何も手に入れることはできない!」
銃が落ちていた。他にも誰かがいたはずだが、どこに行ったかは想像したくない。
「我々は確かに何かを失うだろう。だがそれ以上に多くの物を手に入れるのだ。この先に待ち構える栄光の未来において。これは単なる騒擾ではない。神が与えてくれた、祖国統一のための準備だ。国民の創成のための第一歩なのだ」
彼は講演会の時とは打って変わっていかめしい顔で話していた。
「特別行政官殿に心臓を捧げよ!」 義一郎が敬礼すると、兵士たちも背筋を伸ばして敬礼をした。
水共はその豪胆な様子に気おされてしまい、おどおどすることなどできなかった。
鼠のような足取りで、音もたてずに彼らの背後を通り抜けていった。
「では、その犠牲者たちにせめてもの黙祷を捧げよう……」
彼らから少し離れた所で、苦々しい視線を向ける者がたむろしている。
水共は彼らの声を理解しないように努め、歩き続けた。
向こうでアビオドゥンが待っていた。
「良かった。きちんと来てくれたんですね」 彼は銃声にびくびくしている水共を安心させるように、穏やかな声でそう言った。
「哲雄さんは新潟の方にお行きになるのです。あそこにはまだ佐藤家の軍勢の支配下に置かれていますから……その前に私たちに特別に話をしてくださるのです」
「ですが、特別行政官はどこにおられるのですか?」
「私についてきてください」
アビオドゥンは水共の手をがっしりと掴んだ。アビオドゥンの手は思ったよりもざらついていた。
「こちらが渡辺哲雄さまです」
一人の男が、ごく普通の人間のように出てきた。それがあまりに大物の登場とは思わせない、普通の人間の出方だったので、水共は驚いてしまった。
こいつが渡辺哲雄だと?
しかし、護衛の兵士がおり、状況で、周囲にこの男が哲雄であることを疑わせるものはなかった。
水共は言葉が出なかった。報道映像で見る限りでは、いかにも独裁者といった感じの、もっと恐ろしい姿でしかなかった。だが想像に反して渡辺哲雄は小柄で、少し水共よりも背が低かった。それは、ニュースの写真で見る哲雄とは全く違っていた。
そして、水共が思うほど年がいった感じでもなく、顔のしわの少ない、若い顔だちをしていた。しかし、確かにその表情は引き締まっていて厳しく、多くの地獄を経験してきたことがありありと分かる、彫りの深い造形をしていた。
だがその顔の造形全てが、あの大衆迎合家とは真逆の演出をやり遂げていた。そこにいるのは、ただ一人の人間の苦悩に寄り添おうとする求道者の姿。
「君は大変な思いをして来たようだね」
「あんたなんかに何が分かるんだ」 吐き捨てる水共。
「そうだ。私たちは何も分からないさ。生まれた時代も場所も、何もかもが違うんだから」
水共は、彼のゆったりとした声に惑いそうになった。そしてそれに全力で抗おうとした。
「あんただ。あんたが世界を地獄に変えたんだ!」
「ぶ、無礼な――」 田濃が激昂しそうになるが、哲雄は静かに片手をあげ、
「確かに、私もそれに参加した。そして君も参加している」
哲雄の声は、不思議と水共を落ち着かせるものがあった。最初はひたすら声を荒げていた水共も、彼の言葉の響きには心が自然と静まるのを感じずにはいられなかった。そして、まるで深淵への入り口に続くようにくぼんだ二つの目が、水共の視線を吸い込み、そこからあらゆるとがった感情を除き去っていた。水共は、それを危ういと思った。だが目を背けようとした時にはも遅かった。
「誰かが悪いんじゃない。ずっとこれまで生きて来た人間が、下の世代に責任と解決を押し付け続けた結果だ」
「あんたも、それに加担している」 水共にはまだ八つ当たりしたい気持ちがあった。だがもう疲れ果てた。
「俺は、いい加減救われたい。もうこんな世界に生きていたくないんだ」
「昔の君はそうじゃなかった。救われなくても良かったはずだった。救われたいと思っているのは今の君だろう?」
哲雄は静かに言った。
水共は、ためらいがちにこう答えた。
「……どっちもある」
「この世界がどうにでもなってもいいと思っている、いや、救われて欲しいと思っている、どちらが本当の自分なのか、分からなくなっているのだろう?」
水共は、迷ってから答えた。
「……はい」 それにもまた確証があるわけではなかった。
「いや、それは悪いことじゃないさ。この時代にあっては君のような人が大勢いる。迷っている魂がね。その迷える魂を導くのが私の使命だと思っている」
魂、か。これほどの人間に言われては、さすがにうさんくさい言い方だと否定するわけにはいかないだろう。
水共にとっては、もうどうすればいいか分からなかった。哲雄にすがる気持ちも、哲雄を憎む気持ちも、全てを大切にしたい気持ちも、全てを投げ出したい気持ちも同時に存在していた。
ただ、このあらゆる感情の何が本物であるかもう水共には分からなくなっていた。
どれも一つに結びつける巨大な何かが必要だった。
「私もだ。大切なものを自分で振り捨ててしまったよ。そしてそれを取り戻すためにはここまで進み続けるしかなかった」
哲雄が、弱い顔を浮かべた。それを見て、水共の心に緊張が走った。
「私も君のような気持でいつもいる。だがそれを誰にも見せるわけにはいかなかった。だが、君になら打ち明けられる。立場が違うからこそ、話し合えることもあるはずだ」
アビオドゥンも、兵士も、共に感情を抑えられないかのようにしゃくり挙げている。
「さあ、思い切り泣きたまえ。誰も君の邪魔をする者なんていないのだから」
しばらくの間、彼は子供の用に泣きじゃくっていた。
水共は感激のあまり、何一つ声が出なかった。
「私は……私は何をすればよいでしょうか?」
哲雄は額に手を当てた。その柔らかい手触りに、水共の理性は一瞬弾け飛んだ。
自分が何を思い悩んでいたのか、わずかな時間だけ分からなかった。
「彼らを裁け」 その言葉は、物騒な意味であるにも関わらず、非常に柔らかく響いた。それもあって、水共は、何のためらいもなくその呪いを引き受けてしまった。
「はい。分かりました」
水共は、もうこの時点ですでに迷っていた。哲雄に赦しの確信を委ねてしまったことを、もうすでに後悔していたが、同時にそれによって肩の重荷が一気に降りた感覚も持続していた。
だが、いずれこの国の頂点に立つべき人間が自分と同じように悩み苦しむ存在であること、そのような人間から直々に認められたという感激、そしてそれに答えなければ命が危ういという恐怖は、もはや水共の一部を完全に修理できない形で作り変えてしまった。
水共は自分でも驚くほど頭がさえていた。外の通りからする縄文主義者の声も、静かに寄る波程度にしか聞こえなかった。
哲雄という人間が人をいくらでも裏切り、踏みにじることに納得してはいても、哲雄を通して得られた救いへの確信、執着は決して裏切られるものではない、という考えが固定されてしまったのだ。
「金海さん。僕は決めましたよ」
水共が再び金海に会った時、金海は水共の尋常ならざる様子にただただ声も出なかった。
「水共……?」
「ようやく、一歩だけ前に進める気がしたんです。あの人たちの後押しがありましたから」
「おい。教えろよ。一体何があったんだ?」
「渡辺哲雄に会いました」
「冗談だよな?」
「冗談ではありません」 水共は真顔で言った。これまでの水共なら、単なる無気力か虚無で処理できそうな顔だったが、この時の水共はそんな単純な言葉では説明のできない切迫感を示していた。
「あいつはとんでもなくひどい人間です。僕の心を完全に掌握してしまったんですから」
水共は、何かを深く後悔している顔に見えた。
実際水共は後悔していた。哲雄の支持者と約束をしてしまい、本当に哲雄に会って話をしてしまったからには、水共は、惰性で何かを守ることでしか、人間の証明ができなかった。
金海は何も言えなかった。渡辺哲雄が彼を操っているのだ。水共は、ただ自分の中の世界に満ち足りることにひたりきれない人間だと金海は知っていた。その男が満ち足りる方法がこれしかないことも、また薄々感づいていた。
数日後の、残暑がなお残る真夜中、二つの集団が激しい敵意をかもしながら対峙していた。
一方をヘルメットを哲雄の顔写真を入れたシャツを着ていた。
もう一方は、頭や腕におどろおどろしい刺青を施し、土偶や古墳の絵や写真を服の胸や背中にプリントしていた。
その中で水共は恐怖に顔をゆがめていたが、誰にもそれに気づかれるわけにはいかなかった。そこには田濃やアビオドゥンの姿はなかった。ただ、水共のようにどうしようもなくなった者だけが、思想の違いに関わらず集められていた。
「来たぞ、レイシストが」
彼らは手にバットや鍬を持っていた。
同じように、哲雄派も武装していた。その中に水共もいた。誰もが精悍で、屈強な男たちの中、貧相な身なりをしているのは彼くらいだった。
「やっちまえ!」
対決が始まった。
「売国奴どもだ! 一人も逃がすな!!」
アビオドゥンが率先して敵を襲った。
水共は誰も傷つけたくなかった。しかし、罪深い相手を野放しにするわけにはいかなかった。
水共は、敵にめがけて旗竿を振り下ろした。だが石を投げつけられ、側頭部にぶつけられた。
頭にくらくらして、そのまま倒れた。
論争する声が聞こえた。
「渡辺哲雄を信用してはいけない!」
水共は朦朧とする意識の中で、デマゴーグに自分の人生の意義を見いだしてしまったことに後悔した。しかし、あの時に感じた救いが、ただの扇動者から与えられたものであるとは決して信じたくなかった。もしそれを肯定してしまえば、今度こそ自分は単なる人間のかすに落ちぶれてしまうだろう。それは水共にとっては耐えがたかった。
哲雄がどんな人間だったかなどもはやどうでも良かった。あの時に実感した感激、感動が本物であればそれで良かった。
その時の哲雄の顔がどうであったかすら、よく覚えていなかった。ただ、見たことのない父の顔であってほしいと、水共はぼんやり願っていた。
2055年十月三日、水共秀之は縄文主義者と哲雄派の集団騒擾に加わった咎で逮捕された。
テレビの取材で、金海はインタビューに対してこう答えた。
「水共くんはそんなことをする人ではありませんでした。あいつはまじめで……」
金海は、何となく彼がそういうことをする人間であることを察していた。
こんな馬鹿げた世界で、それでも身を捧げるための使命を求めて迷い続けずにはいられなかった。金海は、水共が
深村伊朔は、水共に比べれば自分はもっと理知的な人間だと思った。深村は哲雄を支持するのをやめなかったが、もう少し慎重に物を考えようと思った。
事件は結局、哲雄の狂信者たちによる馬鹿騒ぎだとして片付けられ、哲雄の威信は少しも傷つくことはなかった。
時間が経てば経つほど、哲雄に対する支持は消去法によって、むしろ静かに広がった。水共のような、社会の軌道から外れた人々を疎外し、生活を保障するためのより強い主体を欲すしようとするとそうするしかなかった。
佐村もまた、新聞でこの騒ぎを知った。
逮捕者の名前のリストに彼を見つけ、思い切り拳で自分の額を殴りつけた。
「あいつ……やりやがった」
――
羽島義一郎
2002-2074
特殊鉄鋼の軍事部門で頭角を現し、渡辺哲雄とは肝胆相照らす仲だったと伝わっている。
京都侵攻に従事し、救国戦争以後は東北以北の佐藤政権の討伐において指揮をつとめた。
新生日本軍においては中将にまで上り詰め、息子の健は陸軍元帥に昇った。羽島家はその後も軍人を輩出した。
アビオドゥン・ティヌブ
2019-2107
ナイジェリア、オヨ州イバダン出身。地元の新聞記者を務めあげ、その後新聞社『アッバイェ』(ヨルバ語『世界中で』の意)を立ち上げ、それにより議員にまで登る。
日本には救国戦争以前から訪れ、現地の日記から渡辺哲雄の支持者となっていたことがうかがえる。2062年に帰国。その後もしばしば渡辺体制の要人と接触し、日本の外交交渉に隠然たる影響を与えた。