第35話 レイスト
実物を見た瞬間、足がすくんでしまった。何とかなる相手ではない。先ほどまでの甘い考えが、いかにおこがましかったことか。
つま先から頭の先まで、全身の毛が逆立つ。腕の震えが止まらない。そんな僕たちの怯えなんてお構いなしに、敵意をむき出しにして、一歩一歩近づいてくる。
動け、
動け、
動け。
構えろ、
構えろ、
構えろ。
必死に自分に言い聞かす。
「マ、マーサと、ピ、ピートは僕らの前に壁を作る用意をして。」
うわずった声で二人に呼びかけた。まだ十五メートル近くある。チャンスは一回。
あと十メートル。心臓の音がやけに大きく聞こえる。呼吸を整える。イメージを明確に。
「…僕に合わせて。」
と小さくつぶやいた。
あと五メートル。ここだ。
“ルカ・グル・イクスプロ”(光土弾)
光と土の元素を混ぜて、ホラアナグマの前に真っ直ぐ放つ。そして、至近距離で目一杯、弾けさせた。のけぞった姿が確認できた。光る砂がホラアナグマに直撃し、埃が舞い上がる。
「お願い!」
僕の掛け声と、ほぼ同時にピートが僕たちの前方に水の壁を作ってくれる。左右から真ん中へと壁が伸びていく。
マーサはそのすぐ後ろに土の壁をつないでいく。僕はアームドを左腕に集中させて、ホラアナグマに向けて手を伸ばす。左指先に光を五つ集めて、雷の元素とまぜる。そして、できる限り高密度に圧縮していく。いやに景色がゆっくりと見えた。
“クヴィン・ロンポ” (五連雷光弾)
壁が完成する隙間から、ホラアナグマの前でぶつかり合うように放った。
束の間、壁が完成する。
ものすごい爆発音が鳴り響き、ホラアナグマの叫び声が聞こえた。壁越しにでもかなりの衝撃を感じる。
はやく横の通路へ行かなきゃ。
「マーサ、今のうちに…。」
マーサを見ると、左手を横壁につけて、すでに抜け道を作ってくれている。きっちり一人分だけ通れるトンネル。手際がいい、さすがだな。
しかも、進む道を作りながら、同時に、通ってきた道を閉じている。僕とピートはマーサの後ろを引っ付くように逃げた。途中、獣の咆哮と大きな地鳴りが伝わってきたが、構わず先を急ぐ。
しばらく進むと、一筋向こうの道に出た。ところどころに水たまりがある。マーサは横壁を完全にふさいだあと、さらに砂を重ねている。壁の向こうからは猛々しい振動だけが伝わってきた。
僕たちは一息もつかずに、出口へと向かった。進むにつれて水たまりはぬかるみになり、ずっと先まで伸びている。雨も降っていないのに、知らぬ間に水が肌にまとわりついてくる。ぬかるみはだんだん深くなっていく。
と、突然、ピートが前に飛び出た。
「ちょっと待っててねぇ。」
「ピート?」
ピートは青白く光ったかと思うと、甲高い咆哮とともに前方へ大きく息を吹きつけた。あまりの風圧に腕で顔を覆う。地面のドロドロは洞窟の両側に飛び散り、いつしか地鳴りも止んでいた。ピートは誇らしげに空中を旋回して、こちらを見た。
「ピートちゃん、すごい!」
「でしょお。」
急いでいるだけにすごく助かった。もっとドヤってくれてもいいとさえ思った。走りやすさがまるで違う。
あがった息がさらにあがった頃、ようやく階段が見えてきた。階段を数段登ると、途端にとてつもない寒気が襲ってきた。
透き通った冬のにおい。ツンと鼻の奥まで息が通る。肌はひび割れ、ところどころ赤ぎれてくる。これ以上このままではすすめない。
それでも少しずつ前へ進んでいく。が、出口に近づくにつれて、寒さが痛さに変わってくる。すると、マーサが僕たちの周りを何かで覆ってくれた。ほんのりと暖かさが戻ってくる。僕たちはそのまま出口まで突っ切った。
◇ ◇ ◇
やっとの思いで、地下道を抜けることができた。階段を上がると目の前には、もやがかった緑が目に飛び込んできた。見たこともない植物が無数に生えている。晴れているのに雨の匂い。まとわりついてくる湿気。ドランドとは大違いだ。
「ハァッ…ハァッ…。やっと…着いた…。それにしても…寒すぎるよね。」
僕たちは木陰に隠れて、防寒ジャケットを羽織る。
「なんとか着いたね。二人ともありがとう。」
「…ソラはまだまだだねぇ。ホラアナグマくらいやっつけないとぉ。」
「手厳しいな。ピートは。」
僕たちは笑い合いながら、無事を喜んだ。腹の底からゆるく長い息が出た。
思い返すと、つくづく自分の無力さを痛感する。命からがら、這うようにして逃げることしかできなかった。
「そういえば、ソラ。地図はどんな感じ?」
みんなで地図をのぞき込む。
地形や地名、記号などが詳しく描かれていた。ドランド側の入り口は島の中央付近だったが、僕たちが出たところはずいぶんと南側にあるようだった。
ここからだと…雨宿りの森ってところを抜けると、レイスト唯一の街、プルセツォーノに着くらしい。日暮はもうそこまでやってきている。
今日は出口付近にある宿屋で一晩過ごすことにした。昔は栄えていたであろう面影の中、老夫婦がゆるりとやっている宿屋だった。
宿のじいさんはニ、三秒、僕の顔をまじまじと見ると、孫の顔にでも似ていたのか、にっこりと笑って応対してくれた。部屋は過ごしやすく、ヒノキの香りが満ちている。