序幕 3
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この世界は“魔王”の脅威に晒されている。
“魔王”とは何か――彼が人類史にその姿を現したのは、そう遠い昔の話ではない。フランシス王国史上では、魔王がその姿を現したのはおよそ200年ほど前だという。魔王とは、統制を持たなかった“魔族”や“魔物”を纏め上げ、その軍勢の頂点に座する者のことだ。
では“魔族”や“魔物”とは何か。“魔物”とはその姿は様々あれど、獰猛な獣のような性質を持ち、膨大な魔力を有する“ヒトを食糧として喰らうもの”の総称だ。そして、彼らの多くは知性を持たない。この“魔物”が人類史に初めて姿を現したのは、遠い昔の話である。
“魔物”はかつて、多くの人類にとっては自らの生死を脅かすような存在ではなかった。人間を食糧にするとはいっても、所詮は知性のない獣とそう変わらないのだから、対処は容易かった。けれど――やがて“魔物”の中に知性を持つものが現れた。彼らは数こそ多くはなかったが、群れを形成しえなかったはずの魔物を纏め上げ、率いるようになった。彼らは進化の過程で人の似姿を得て、人類の言語を得て、知恵を使って人類を喰らうようになった。やがて魔物の中でも知性を持つものを“魔族”と称するようになった。そして魔族の中から、魔物と魔族を統率し率いる者として魔王が台頭するようになった。
そして、彼らの発祥はフランシス王国が存在する大陸の、海を隔てた遥か北部の大陸とされている。その大陸は人類未開の地ともされ、到達した記録は他国の歴史を辿っても数少ない。いや、魔物が多く住まう大陸ゆえ、生きて戻って来られた人間が指折り数えるほどしかいないとも言える。航海術がさほど発達していない時代で、過酷な海の旅を成し遂げられた数も圧倒的に少数なのだろう。実際にその全貌を目にしたものは、人類には存在しないのだ。
これはそんな僅かな人類側の文献から推察されることだが、魔物および魔族が海を越え、人類の領土に踏み込んできたのには、食糧難という背景があったのではないか。彼らはもともとは知性の乏しい、獣のような存在であった。人類を食糧と見なす彼らは、無秩序に、そして本能のままに人を喰らい続けた。そうして北部大陸に住まう人類の数が減ったところ、食糧難に見舞われたのではないかと推察される。
食糧難に直面して、ようやく進化や変化の岐路に立たされた。そうして知性ある魔族が生まれ、人類の領土が脅かされる歴史が始まった――というのが、人類側の認識だった。
彼らはまず、侵略の足掛かりに大陸の北部に存在する小島に、転送門を築き上げた。知性がなくとも、人類よりも遥かに膨大な魔力を有する魔物――そこから進化を経た魔族は取り分け魔法の扱いに長けた。魔法そのものは魔族だけのものではなかったが、その技術や理論は人類には解明できていないものが多く、また魔族の作り上げる構造物にしても同じだった。転送門はその一つだ。
理論は不明だが、大量の物質を輸送するこの門を恐らく魔法によって人類側の領土に作り上げ、この門から魔物と魔族で構成される軍勢が突如として雪崩れ込んできた。空や海の魔物を従え、圧倒的な魔法の力と獰猛な獣の力を以てして、彼らは人類に戦争を仕掛けた。いや、彼らにとっては戦争ではないのかもしれない。なにせ、戦争とは政治的な目的を持って、その目的を果たすべく行われる、いわば政治手段なのだから。これは彼らにとっては生存を賭けた狩りでしかないのかもしれない。
初めに狙われたのはフランシス王国の最北端に位置する――遠い昔にフランシス王国に併呑された小国のかつての王都だった――城塞都市だった。その当時、空中からの侵攻など誰しもが予想しなかった。そして、当時は大陸中のどの国も、強力な海上部隊を有していなかったことから、フランシス王国も例にもれず強力な海軍を有していなかった。たとえ強力な戦艦を有していたとしても、統率の取れた凶暴な海の魔物の前には、恐らく結果は今と変わらなかっただろうが。
空と海からの侵攻に、その都市はあっという間に陥落した。ほとんどの住民は逃げる間もなく、魔族たちの凶刃に斃れた。命からがら都市を脱した兵士や住民も少数ばかりいたが、彼らは皆そのときの様子を、ひどく怯えた様子で語ることさえできなかったという。
そして、その城塞都市は今や、魔物が跋扈する魔王城となり果てた。これが、200年余もの間続く、人類と魔王軍との戦いの始まりだった。
◇◇◇
リュファス・セギーは侯爵家の嫡男である。
彼もまた、ノエルと同じ貴族であり、騎士の父を持つ。だが、彼は貴族にしては珍しく偉ぶらず、人懐こい人物だった。ノエルは知らないことだったが、一度目の人生では、リュファスも騎士団に属する騎士だった。偉ぶらず、気さくで人の懐に入り込むのが巧い彼は下町の人間からも、同じ騎士団の人間からも好かれていた。
そんなリュファスだからか、気難しいノエルともうまく良好な関係を築いているようだ、というのが今のところの周りの評価だった。
ノエル自身も、リュファスのことはお調子者だと思う一方で、剣術の稽古に真剣に取り組むその努力や実力は一目置くべき点だ、と数週間一緒に過ごしてみて思うのだった。
彼が言う「もっと面白いこと」とやらの面白さは、ノエルにはあまり理解できなかったが、不思議とそれについて歩くのは面倒ではなかった。彼はよく、下町や町の外の森に繰り出しているようで、ノエルをそれに伴うようになった。
彼と友人になってからというものの、毎日ではないが普段の剣術の稽古も一緒に行うようになり、一日の中で彼と過ごす時間が結構な割合を占めるようになった。魔法の稽古については、リュファスは「才能がない」と言って、ノエルの稽古を傍で眺めているだけだったが。一度目の人生では、そんな風に他人に傍にいられることを煩わしくすら思っていたが、リュファスと過ごすのはそんなに悪くない、と思い始めていた。
今日も、普段の稽古を終えてからノエルとリュファスは街の外の森に繰り出していた。
一度目のノエルの人生では、子供時代の記憶は屋敷の中と屋敷の稽古場だけだった。森や下町の光景など、目にしたことはなかった。当然、騎士になってからは王都の外での任務があったから、二度目の子供時代を過ごすノエルにとっては珍しいものではなかったが、リュファスの目には様々なものが面白く映っているようだった。時折姿を見せる野生の小動物や、木々に実る果実によく足を止めて、楽しそうに眺めていた。
王都近くの森は比較的安全で、魔物が出るということはそう多くない。王都から離れすぎなければ、自衛能力が乏しい子供だけで歩いたとしてもそう危険はない――はずだった。
その日は、いつもと様子が違った。森には音がある。野生動物の発する音、木々のさざめき。それが、その日はなかった。リュファスは気に留めていなかったようだが、ノエルはその様子を敏感に感じ取っていた。
「……リュファス、今日はなにか変じゃないか」
「ええ? 別に何も変わらないと思うけど……」
ノエルの数歩先を歩くリュファスが、重たげな声音のノエルに振り返って首を傾げた。
「変なんだ。今日はもう帰ったほうがいい」
それは、一度目の人生で何度も魔物や魔族と渡り合った経験のある、ノエルにしかわからない感覚だった。実戦経験のないリュファスには、それを違和感として感じ取ることができない。だが、普段感情の変化に乏しい友人の変化は感じ取ったようだった。
リュファスの口が「わかった」と言ったように動いた。だが、その声は誰かの叫び声にかき消され、ノエルの耳には届かなかった。
今の、とリュファスが動揺を口にするよりも早く、ノエルは叫び声の方向へ駆け出していた。その異様な静けさが、魔物が現れるときの空気に似ていたのだ。一度目の人生で魔族を殺すために研ぎ澄まされた感覚が、ノエルを衝き動かしていた。
王都の複数ある城門のいずれからも離れた位置――つまり、街道から離れた位置で、異変は見つかった。地面にへたり込む子供の背中と、その子供を一飲みにしそうなほど大きな口を持つ、狼のような姿の魔物。ただの獣ではないとうかがわせるのは、魔力を含んだその毛並みだ。真っ黒な毛並みが闇を思わせる魔力を纏っている。
まさにいま、子供がその魔物に喰われようとしていた。
――間に合え!
その一心で、突き出した手の平のその先に魔力を込める。熱が宙に渦巻いて、膨らんでいく。炎がぐるぐると渦を巻いて、球の形を作る。膨らみ切ったそこで――魔物目掛けて射出する!
射出された炎の塊が、黒い狼の大きく開いた口目掛けて飛んでいく。見事狼の口に着弾した炎は、破裂音と共に狼を大きく仰け反らせた。獣の咆哮を上げながら、狼が後ろに倒れ込む。
その間にノエルが座り込んでいた子供のもとに辿り着いた。
「リュファス! 警備兵を呼べ!」
今のノエルにはこの魔物を倒しきるほどの力はない。訓練用の模擬剣さえ持ち合わせていないし、できることといえば、この数週間で多少使えるようになった攻撃魔法だけだ。ノエルから少し遅れて追いかけてきたリュファスに聞こえるように、ノエルは声を張り上げた。リュファスは初めて見るであろう魔物の姿に怯えたような表情を見せたが、意外にも肝が据わっているようで、すぐに了解の意を示してから、ここから一番近いであろう城門の方向へと駆け出していた。リュファスが駆け出して行ったのを確認してから、ノエルは座り込んでいる子供に向き直って「お前も早く逃げろ」と声をかけた。
年の頃はたぶん、ノエルやリュファスとそう変わらないであろう少年だった。黄みがかった鮮やかな赤色の髪に、蜂蜜のような黄金色の瞳が特徴的な少年だった。青ざめた表情から恐怖が窺えるが、同時に諦念のようなものを感じる。
「……だめだ、そうしたらきみが、」
静かな声だった。どこか、悲しげで諦めたような声だ。それは、その年の頃の少年が発するにはあまりに悲しい響きだった。
だが、死が目の前に迫っている今、ノエルにはその少年の感傷に付き合っている暇などなかった。
そんなやり取りの間に、背後で狼が身を起こす気配がする。ぐるる、と苦痛と怒りが混じったような唸り声が聞こえて、ノエルは振り向いた。影のような狼が、焼かれた口からぼたぼたと赤黒い血が混じった唾液を垂らして、こちらを睨みつけていた。眼窩から覗く眼球には、三つの瞳が並んでいる。攻撃を喰らった怒りからか、狼の注目はノエルに向いているようだった。
「くそッ」
悪態をついて、ノエルは再び手の平を突き出して魔力を練り始めた。この魔物を倒せないのであれば、リュファスが呼びに行った警備兵が到着するまでの時間を稼がねばならない。たぶん、この魔物は足も速い。逃げ出したところで子供の脚では容易に追いつかれることだろう。
時間を稼ぐための最適解を、一撃で導かねばならない。だが、この子供の体では大人だったときと同じことをするにも時間がかかる。つまり、魔法を完成させるにも時間がいる。より複雑であればなおのことだ。
この目の前の狼に攻撃を喰らわせるのが先か、ノエルが喰われるのが先か、たぶん後者のほうが五分よりは悪い状況で、ノエルは今自分ができる技術の全てで魔力を練り続ける。嫌な汗が額を伝って流れ落ちた。
その間にも、ノエルの初撃でのけ反ってやや開いた距離をものともせず、狼がノエルの眼前に迫る。
狼の大きく振り上げた前足がノエルに振り下ろされようとしたとき、目の前を小さな影が遮った。小さな影が、ノエルが喰らうはずだった狼の前肢の攻撃を受けて、地面に倒れ込む。助けようとしていたはずの少年だった。
「お前……っ!?」
少年の意外な行動に、ノエルは動揺を見せるが、彼がノエルを庇ったその一瞬で魔法が完成する。貫通力を高めた炎の矢だ。再び、炎が狼目掛けて飛んでいく。炎の矢は狙いを外さず、狼の頭に命中した。
「グウゥッ!!」
炎の矢を受けて怯んだ狼の動きが鈍る。倒すには至らないが、十分に効果があったのだろう。
再び、ノエルは少年に駆け寄る。倒れ込んでいる少年の胸には、大きく引き裂かれた傷。だが、あの体躯の魔物の攻撃を受けたにしては出血が少ない。胸を押さえて苦悶の表情を浮かべている少年は、まだ息があった。
「何を馬鹿なことを……」
声をかけてやると少年は、額に脂汗を浮かべながら目を開いた。
「僕は大丈夫……、防護魔法の恩恵を受けているから、」
そう言いながらも、やはり表情は苦しげだ。少年にかかっている防護魔法とやらのおかげで、あの攻撃を受けてもまだ生きているのだろう。だが、様子を見る限り、二度目はないとノエルは感じ取った。
「それにしたって、正面から受けるやつがあるか」
自分の能力の至らなさと、ままならない状況に苛立ちが募って思わず悪態をついてしまう。ノエルの悪態にも、少年は曖昧に笑って見せただけだった。
もうノエルの魔法を完成させるための時間を稼ぐ手段――それにしたって、あまりに体当たりすぎる方法だったが――はない。それならば、もう一度狼が体を起こして、こちらへ攻撃を喰らわせるよりも早く、魔法を作り上げるほかない。今度はより単純で、効果のある魔法を。
ノエルは素早く狼に向き直って、再び魔力を練り始めた。狼の頭には炎の矢で抉った傷口が見えるが、魔力を纏った毛皮に阻まれたらしい。攻撃がまともに通らないのであれば、あとは防ぐ以外にない。
今度は、魔力を地面に走らせ、炎の壁を作り出した。ノエルと少年の正面に、狼の背と同程度の炎の壁を立ち昇らせる。こちらからの視界が遮られるのが難点だが、多少は攻撃を防げるだろう。獣並みの知性とはいえ、二度も喰らった炎の攻撃の記憶があるのか、狼のほうも行く手を阻む炎の壁に怯んでいるようだった。
この魔法の論理は、地面に炎を発生させるという至って単純なものだ。発生させる場所が空中ではなく地面であるぶん、火球や炎の矢を作り出すより簡単だ。そして、作り出した炎を動いている物体に命中させるという挙動も必要ないので、論理は先に見せた魔法よりも単純なのだ。問題があるとすれば、炎を地面に発生させ続けるために、魔力の放出を維持しなければならないということ。先に二つの魔法を見せたノエルの魔力は、残り少ない。魔力切れまで粘ったとして、どこまで耐えられるか。
炎の熱が、肌を焼く。炎の壁の向こうに未だいるであろう狼に注視しながら、ノエルは少年に声をかけた。
「いいからさっさと逃げろ。私が時間を稼ぐから……、今ならこの壁が目眩ましになるはずだ」
「いいや、だめだ。たぶん……、この魔物は僕を狙っている」
そう返す少年の呼吸は浅い。いくら防護魔法があるとはいえ、見た目通りの痛みと苦痛があるのだろう。いまこの瞬間にも、少年の胸からは血が流れ続けている。
そして、少年の言葉の真意を測りかねているうちに、炎の壁の向こうで影が一層濃くなった。かと思ったのもつかの間、炎の壁を破って、狼が姿を現した。単純な炎では、躊躇させる程度の効果しかなかったのだろう。
「くそッ」
狼の怒りはより増しているようで、濃い黒い毛並みの顔の鼻先に皺が寄っているのが見える。大きな牙を剥きだしてぐるる、と唸ってみせた。
そして――再び、とどめの攻撃を浴びせんと、狼が突進を始めた。
万事休すか――ノエルは咄嗟に少年の服の首元を引っ掴んで、後ろに引き倒した。たぶん、二人のどちらかがこの攻撃を喰らっても死ぬだろう。それでも、死ぬなら二度目の人生を与えられた自分のほうがましだと思った。
狼の牙がもう目の前に迫る――死んだ、と思ったその時。
ヒュ、と空気を切る鋭い音が聞こえた。間髪入れずに、どどっと鈍い音。それと共に狼が目の前で叫び声をあげた。
「いたぞ!! 攻撃の手を止めるな!」
背後から、男の声が聞こえた。がしゃがしゃという重たい甲冑の足音が聞こえてくる。
リュファスが呼びに行った警備兵が間に合ったらしい。とすると、空気を切る音は警備兵が放った矢の音だろう。咄嗟に、少年に覆いかぶさるようにして地面に身を伏せた。背後で戦闘の音が響き、そして暫くののちになにか大きなものが地面に倒れ込む音がして、同時に戦闘の音が止んだ。
漸く体を起こして、背後を見やれば狼が地面に倒れ伏していた。影が綻びるように、狼の体から塵のようなものが立ち上っていた。魔物は絶命すると、その体は塵のように綻びるのだ。
「きみたち、大丈夫か?」
剣を携えている警備兵がノエルと少年のところにやってきて、覗き込んできた。
「私は大丈夫だ。それよりも、この子のほうが」
少年の姿が見えるように、覆いかぶさっていた体を避けてやる。警備兵は少年の傷を見るなり、目を丸くして少年の傷を検分し始めた。
「さっきの魔物にやられたのか。よく無事だったな……、ああでも、すぐに治療が必要だなこりゃ」
捲し立ててから、ほかの警備兵に治療の手配を言いつけて、自らは少年の止血を始めた。ノエルはその様子を傍らで眺めながら、立ち上がるのもやっとなほど疲労していることに気が付いた。魔力切れを起こしているのだろう。本当に、間一髪の状況だったのだ。
ふう、と嘆息して、警備兵たちからだいぶ遅れてリュファスが戻ってくる姿が見えた。
「ノエル! ノエル! 大丈夫か!?」
リュファスの顔には汗がびっしょりと浮かんでおり、全速力で走ってきたのだとわかった。
「ああ……、見ての通り大丈夫だ」
実際、ノエル自身には怪我もないし、あるとすればせいぜい服の汚れくらいだ。だいぶ土埃に塗れているし、覆いかぶさったときに少年の血が付いたので、見た目はお世辞にも綺麗ではないだろうが。
だが、リュファスは絶句したように呆然とした後、顔に怒りを浮かべた。
「おまえなあ……、無茶するなよ!」
リュファスの目には、ノエルがだいぶ満身創痍に映っているらしかった。ノエルは頭を振って「無茶なんてしてない」と反駁した。
「うるせえ、立つのもやっとだろうが!」
リュファスは立ち上がるのがやっとなノエルの状況を見抜いていたのか、怒り顔のまま手を差し出してきた。ふん、と鼻を鳴らしながらも、ノエルは素直にその手を取って、立ち上がった。脚を動かすのも億劫なほど疲弊していた。
「ああ、きみたち。こんなことがあったから、今は動揺しているだろうが……、状況を詳しく聞きたいから、後日でいいから話を聞かせてくれるか?」
この場を立ち去ろうとしたノエルとリュファスの背に向かって、少年の傷の処置をしていた警備兵が声をかける。
「わかりました。では、後日バランド公爵家まで連絡をください」
ノエルがそういうと、警備兵は目をさらに丸くして驚きを見せた。貴族の、それも公爵家の子息だとは夢にも思わなかったのだろう。そして、戸惑いを隠せないまま頷いてみせて、再び少年の傷の処置に戻った。
その会話を聞いていたらしい別の警備兵が「送りましょうか」と幾分か丁寧な口調で声をかけてきたが、それを断ってリュファスとともに帰路についた。
リュファスに支えられながら歩く間、ノエルはクロノスの言を思い出していた。
『一度起きたことの因果は強力だ』――と。であるならば、もしかしたらあの少年はノエルが一度目の人生を生きたあの時間では、あの森であの魔物に喰い殺されていたのかもしれない。
そうだとしたら――誰かの死の運命を変えることができたなら、この二度目の人生にも意味があるのかもしれない。そんなふうに思った。