序幕 1
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ノエル・バランドは独りであった。世の人は彼女のことを孤高だと表現するが、ものはいいようで、彼女の道のりは孤独だった。
誰にも頼らず、力を借りず、ただ独りで先陣に立ち続けた。他人の力を借りる必要性を感じなかったのだから、当然の結果ともいえるが、そんな環境や彼女の考えが、彼女を独りにした。
だからか――人類の存亡をかけたともいえる魔王との戦いの瞬間ですら、ノエルは独りだった。
……嫌な気配だった。否、気配などとそんな不確かなものではない。どろりと纏わりついてこびりついて離れない湿った泥のような、重たい空気が満ちている。それもそのはず、対峙する魔王が作り出す『瘴気』がおぞましいほどの濃度で、この空間に満ちている。敵の本拠地、それもそのど真ん中だ。常人には、この中でまともに活動することは叶わないだろう。瘴気の影響を受けずに行動できる『精霊の加護』を持つノエルでなければ、まともに立っていることすらできないだろう。
魔王の作り出す瘴気のせいだろうか? 剣を握る手に、じっとりと汗が滲んでいる。 ……莫迦な。私が、戦いの場で緊張しているのか?
どんな状況だって、ただ一人で駆け抜けてきた。その自負が、ノエルをこの場に立たせている。
「――ふふふ。ノエル・バランド。お前の武勇は俺の耳にも届いているぞ。だが……愚かだったな。単身で挑むなどと、見くびられたものだ」
闇そのものを体現したような、目の前の大柄な男が――そもそも魔族に性別の概念があるかはわからないが――口を開いた。ぞろりと、形容しがたい不快さが足元から絡みついてくるような声だった。
周囲の光を飲み込んで反射しない真っ黒な髪も、どろりと暗い色をした瞳も、人間とは全く別の生物だと示していた。
ノエルも口を開こうとして、口の中が乾いていることに気づく。唾で口の中を湿らせてから、ようやく反駁した。
「魔王というのは存外、御託が好きらしいな。……お前と話すことはなにもない、さっさと始めよう」
この問答に意味などないだろう。下げていた剣の切っ先を、目の前の闇に向ける。
「いいのか? 俺なりの気遣いだというのに」
にたりと口元を曲げて、闇が笑う。吊り上がった口元から、容易に肉を食い千切れそうなほど、鋭利な牙が覗いていた。
「……何?」
言葉の意味をとらえきれずに、ノエルは眉を寄せる。
すい、と魔王の骨ばった長い指が宙を泳ぐ。牙と同じように鋭利に伸びた爪が、ノエルの胸元あたりを指し示していた。
――瞬間、血飛沫が舞っていた。
狩りで打ち抜かれた鳥の羽が舞うときに、こんな光景を見たことがある。
あ、と思った。思っただけで、声はでなかった。
ぐらりとノエルの体が傾いで、そのまま仰向けに倒れた。胸の真ん中にはぽっかりと穴が開いている。傷口から、どくどくと血が溢れ、床に流れ出していく。だが、その体の持ち主は痛みに呻くこともしなかった。
「だって――人間はすぐ死んでしまうじゃないか」
魔王はもう、笑っていなかった。すでに決した物事には興味がないとばかりに、物言わぬ死体の横をすり抜けていった。
◇◇◇
真っ白な空間だった。上も下もわからない、床があるのかすらわからない空間だ。そもそも、この場所を空間と表現してよいかもわからない。
ただ、ノエルは自分の置かれた状況を勘違いはしなかった。自分は死んだのだ。
最期の光景――思い出さなくてもよいのなら、思い出したくはないが、魔王の魔法が自分の心臓を貫いた。即死だったのだろう。いや、もう思い出す必要などない。だってすでに死んでいるのだから。死んでしまえば、何にもならないのだ。
ノエルは――体があるかどうかもわからないが――目を閉じて考えることをやめた。
きっとこれは死の間際に見る幻覚だ。魔王の城の床に無様に横たわった自分の死体のように、だれにも知られることもなく消え去る定めのものだ。
そんなノエルの思考を、打ち破った声があった。
「もう! なんで一人で戦おうとするかな~!」
……嫌に間の抜けた声だった。これも死の間際の、私の妄想だろうか?
確かめるために、目を開いた。そこには、白い衣をまとった長身の人物がいた。
気が付けば、ノエルもその男の目の前に立っているらしかった。らしかった、というのは自分の立っている場所も曖昧で、そこがどうやら普通の場所ではない様子だったからだ。
目の前の人物がやけに大柄だったので、直観的に男だと思ったが――まとっている布の多い衣に隠されてわかりにくいが――体格はほっそりとしていて線が細い印象だ。さらに言えば、人間離れして整った相貌は、男とも女とも言い難い雰囲気の作りだ。滑らかな絹にも似た艶やかな銀の長い髪が、淡く光り輝いていて、やはりこの世の存在ではなさそうだった。
目の前の光景に、声も出せぬまま呆然と立ち尽くしているノエルに、白い衣の人物は構わず捲し立てる。
「おっと、この状況、飲み込めてないかな? 私は所謂“時を司る神様”だ。クロノスと呼んでくれて良い。きみと魔王の戦いをずっと見守っていたのさ!」
そう言って、“時を司る神”は大仰に手を広げて、誇らしげに胸を張ってみせる。姿かたちは到底、人間とは思えないが、その仕草がやけに俗っぽくて、なんだかあべこべな印象だった。
何を言うべきか迷っているうちに、目の前の神はさらに捲し立てる。
「それはそうと、本当にきみってば常識外に強いくせに、間抜けなんだな」
呆れたように、彼は頭を振ってため息をついた。聞き捨てならない言葉が聞こえて、ノエルは不快そうに眉を寄せた。
「……なんだと?」
「だってそうじゃないか。人の力を頼ればいいものを、単身でなんでも解決しようなんて愚か以外のなんと表現すれば良い?」
彼はやはり呆れたように肩を竦め、さらに頭を振る。
神の物言いは――彼の言が真実であるなら、神に対して不敬であろうが――ノエルにとっては不快でしかないのに、なぜだか子供のようにたしなめられている気になる。
「……他人の力なんてあてにならない。私一人で大抵のことはどうとでもなる」
ふい、と顔を背け、もごもごと口の中で言葉を捏ねるようにして答える。追い打ちをかけるように、クロノスは「死んでちゃ世話ないよねえ」と鼻を鳴らした。
やはりクロノスの言葉にむっとするノエルだったが、己が句を続けられない。たしかに、死んでしまえば何の意味もない。自分だってそう思う。
押し黙って俯くノエルに対し、クロノスは片眉を上げてふむ、と呻った。
「もう一度機会をあげよう」
まるで、なんでもないことかのような気安さでクロノスが言う。ノエルは目の前の神が、何を言っているかわからず、見上げて首を傾げて見せた。その表情は怪訝そうで、クロノスは面白いものでも見るように、あるいは慈しむように目を細めて見せた。
「時を司る神の権能だ。時を戻してあげよう」
やはり目の前の神は、まるで夕飯の献立を決めるみたいな、そんな気安さで言ってのける。
「なんだ。神様ってのは随分と奉仕の精神が旺盛なんだな」
ほとんど反射的に、ノエルは皮肉を言って見せた。
「なんだよ、神様だぞ。信じてないのかい?」むっつりとクロノスが拗ねたような表情をみせる。「もっと有り難がってくれたっていいじゃないか」
「別に、信じてないわけじゃない。簡単に言ってくれるな、と思っただけだ。……随分と
人間側に肩入れするんだな?」
皮肉と本気が半分ずつくらいのつもりで、口にした。あまりに、人間側に甘いものだから、少し驚いたのも事実だった。
「おっと、これが寛大な処置に見えるのなら、考えを改めることをおすすめするよ」手をひらひらと振って見せて、クロノスは続ける。「時を戻したとしても、君が思っているほど運命を変えるのは易しいものではないよ」
その言葉に、ノエルは片眉だけを持ち上げて、訝し気な表情を以って応える。
「一度起きてしまったことの因果は強力だ。運命を変えようと全力で抗わねば、もう一度同じ道を歩むことになるよ」
「つまり、死人をその大層困難な道にまた再び放り込もうって言ってるのか」
ふむ、と頷いて答える。だからこれは寛大な処置ではないと、そう言いたいらしいと得心がいった。
「そう。これは決定事項だ。君が嬉しくなかろうが、嫌だと泣き喚こうが、そうすると決めた。なにせ、神様ってのは理不尽で不合理な存在なのだからね」
自分で言ってしまっては意味がないだろう、と思わなくもなかったが、ノエル自身もそう思うので、肯定も否定もしてみせなかった。
「さぁ、これは人類への裁定だ。ヒトが生きるに足るものだと、私に見せておくれ」
クロノスは口の端で笑みをつくって、とびきり威厳を含ませた声で言った。けれど、やはりどこか親しみを隠し切れない様子で、ノエルは軽く肩を竦めた。
◇◇◇
目を覚ますと、視界に広がるのはいつもとは違った天井だった。長い時間眠っていたかのように、頭の中に霞がかかったような感覚だ。目を擦りながら、体を起こす。
いつもと違う天井だと感じたのは、いつも自分が寝起きしている騎士団の詰所に設置された自室の天井よりも、やけに華美な装飾だと感じたからだ。
いや、それよりも、あれは夢だったのだろうか? どこからが夢で、どこまでが現実だったのか――。考え込むよりも先に、答えが出た。視界に入り込む自身の手が、やけに小さい。小さいというか、子供のような手だ。
「――――」
いつもの自室の寝台よりもふかふかとしていて上等な布団をはぎ取り、鏡を探して飛び出す。ノエルは身長がそれほど大きいわけではないが、特別小さいわけでもないと自覚している。だというのに、寝台の高さが飛び降りるほどの高さだ。いや、これは――。
幸いにして、姿見はすぐに見つかった。壁際に備え付けられた鏡に自身を映して、声を失った。
自分の歳は二十四になる頃だったはずだった。だが、鏡に映る自身の姿は幼い。到底、二十四歳の女には見えない。女児だ。
「――本当に、現実だったのか」
唖然として、鏡の中の自身に声をかける。ようやく発した声も、なんだか舌っ足らずな気がする。王立騎士団長の地位にあったはずの自分の姿は見る影もない。このような姿で自分が騎士団長なのだといっても、子供のごっこ遊びにしか思われないだろう。
皮肉そうに口元を曲げる笑みは、ノエルの癖だった。大人になった彼女は二十三という若さで騎士団長の地位についた。王国最強の剣などと目されても、強いだけではいけなかった。心からの笑みなど――もともと得意なほうではなかったが――必要がなかった。代わりに、侮られないための皮肉そうな笑みが得意になった。
思わず、皮肉そうにふっと口元を曲げて見せた。だというのに、鏡の中の幼い姿の自分はぎこちなくどこか不自然な笑みを浮かべている。その笑みを見て、この頃の自分は笑わない子供だった、と思い出した。それどころか、泣くことも怒ることもなかった。感情を露にすることのない子供だった。それは大人になってもそう大きく変わることではなかったが。
ともかく、表情を作り慣れていない幼い頃の自分になってしまったのだ――と変なところで納得してしまった。
納得したところで、時の神とのやりとりを思い出す。人の力を頼ればいい、という神の呆れ声を思い出し、なんとなくうんざりしたような気分になる。だが、それが運命を変える突破口だというなら、試してみるのも悪くないだろう。どうせ、一度は確かに死んだ身なのだ。一度目の人生だって、命じられるままに戦って、独りで死んだ。空虚だとは思うが、もう一度の人生を与えられても、死にたくないだとか、何かを変えたいという熱い想いは自分にはない。ただ、一度目とは少し違う結末があるなら――少しは試してみてもいい、というくらいだ。
だからか、人を頼れなんて言われても、誰を頼ればいい? ……考え込んではみたが、すぐにそんな人物は思い当たらない。当然だった。そんな風に他人を見たことなどなかったのだから。なるほど、たしかに運命を変えるのは、言うほど易しくはないな。そんな風に思った。