覚醒
自分がどうなっているのか分からない。
ナイフを掴もうと無我夢中で走り出し、それを持って振り返る頃、巨人の腕は僕がさっきまで居た場所を掴もうとしていた。
...おかしい。さっきまでの機敏さは何処へ行ったのか。
罠である可能性も否定できないのだが、その瞬間の僕はそんなこと考えていられなかった。あのスピードなら腕を引っ込めるまでかなりの時間があるはずだ。
千載一遇のチャンス。より大きな被害を出すため、僕は腕を足場にし、奴の頭部まで走り抜ける。そのナイフで奴の右眼を縦に切り裂く。確かな手応え。達成感が体に染みる。
そこまでは良かった。走り出したこの足は止まらない。巨人の肩を越した僕の体は、頭も飛び越え宙に駆けていた。
まるで浮いているような感覚はそこで途切れた。巨人の眼から溢れる鮮血。残った左眼と目が合うと、巨人はあのスピードを思い出したように左腕を僕へ振る。
あ、死ぬ。
まるで他人事のようにも思える感想が浮かび、左腕を観察する。土と血で汚れた皮膚。手の平をこちらへ向け、僕の体をすべて覆えるほどの壁がゆっくりと近づいてくる。...ゆっくり?
さっきと同じ感覚だ。僕の体はいつまでも宙に浮いているし、向かってくる壁のような手は風の無い日の雲のような速度で近づいてくる。
…これならタイミングを合わせれば着地できるかもしれない。体を捻り、足裏を向かってくる手へ伸ばす。
やがて足裏に手の平が乗る。あとはしゃがみ、地面に向かって跳べば助かる。
だが実際はそう上手くはいかないものである。
しゃがんだ足は動かない。ゆっくりではあるが、体に負荷がかかる。立てなかった。しゃがむというよりは這うような体勢になり、僕は森へと弾き飛ばされた。
───木の折れる音、それと同時に両足に痛みが走る。
木へと着地しようとした僕はその勢いを殺せなかった。辛うじて足とともに体重を分散させたナイフは跡形もなく砕ける。
「っ...はぁ、はぁ、あし、足がっ...」
両足は動かすだけで激痛が走る。思わず足を押さえようと手を動かすと、長めの木の棒が指に当たる。
「貴様の異能はあまりにも厄介だ。魔素は散るだろうが、確実に殺しておかなくては」
巨人は身につけているボロ布を破り、眼帯代わりに右眼を覆いながら僕を目視する。初めて見たときとはまるで違う、はっきりと警戒を示した顔をしている。
迂闊に近づくことはもうない。近くの大木を引っこ抜き、それを僕へと投げんとする。
「その足では貴様の異能でも避けられまい。さらばだ」
先まで張られた細い根までも残っている大木は真っ直ぐ僕の元へと刺さる。土埃が舞い、地面は大きく揺れ...やがて静まりかえった。
巨人はたとえ僕が死んでいても、必ず僕の肉体を食べなければならない。だから、奴は絶対に近づいてくる。
巨人の、体格に似合わないほど静かな足音。それでも人間にとっては十分聞こえる。それはすぐ近くで止まる。ここからは賭けだ。
奴はしゃがむ。まずは大木をどかす。僕の死体を確認しようとし、そこに居ないことを不審に思うだろう。そして次に見るのは...
「木の裏か...?」
「正解だよ化け物め」
無防備に顔を向ける奴の右眼、傷をつけた箇所へ木の棒を投げる構えをとる。だがただ投げるだけじゃ致命傷にはならない。僕に発現した異能、お前の力が必要なんだよ。頼む。
この短期間で何度も使い、今この瞬間に異能が起動したと直感で分かった。だから今の僕にあるありったけを棒に込め...投げた。
刹那、異能が切れる。
「があああぁぁぁぁぁあああっっっ!!」
僕の異能で加速した木の棒は、巨人の右眼へ深々と沈みこんでいく。棒は持ち手側の末端を残し、その9割5分ほどが巨人の頭を穿っていた。
響く巨人の咆哮。致命傷を受け巨人は倒れる。抜こうとするも、奴の大きな手では簡単には取れない。
「なぜ、なぜ我の肉体を貫通する!?!?」
「ここらの木は昔から、鉄ほどの強度を持つ樹木として有名なんだよ。お前が強引に抜いても新しい根まで全部残ってたようにな」
動かすたびに痛みが走る足は我慢し、腕で這って別の枝を持つ。
「そもそもなぜ貴様は生きているのだ!!」
「根すらも折れないほど堅い木だからな、幹が地面に斜めに刺さったら根っこの側の幹は空間ができるだろ。そこを見て這っただけさ」
狙うは奴の右耳。
「さっきのは俺から。そしてこれは、」
異能を発動させる。
「姉ちゃんの分だ」
奴の脳天まで届かせる一撃を投げた。
...きっと刺さったはずだ。
記憶は曖昧で、この先自分がどうしたのかほとんど覚えていない。次に僕が目を覚ますのは知らない天井。
これが、血で汚れ、信じてくれた全ての人を裏切る者の冒険の書。その1ページである。