姉
私たちの親は、側から見ればろくな人じゃなかったと思う。
私の記憶の中だと、お父さんは1回しか顔を見ていない。お母さんに「お父さんはどこに行ったの?」と聞くと辛そうな顔をするから、それ以降聞けなくなってしまって。
お母さんがセツナを産んだとき、やり切ったような、それでいて諦めたような、そんな表情をしていた。
それから私は家事をひたすら覚えさせられた。
私ができるようになったとみるや、その家事をやらなくなった。余裕のなかった私は、次第に好きなことは何もできなくなっていった。
お母さんはセツナのお世話をしつつ昼は部屋に篭って書き物、夜はどこかへでかける生活。何も知らなかった私は、私をもう見てくれることは無くなってしまったのだと、次第にお母さんとそれを奪うセツナを嫌いになっていった。
ある時を境に、お母さんはセツナをも遠ざけるようになった。はじめはセツナのことなんてどうでもいいと思っていたけど、この子は生意気にも私の目を見て笑ったの。
私はセツナが嫌いだったから、嫌がらせをし続けた。でもこの子は楽しそうに笑い続けるの。体を持ち上げても、そのまま振り回しても、これでもかと頬をつついても笑い続けるセツナを見て、気がつけば私も笑ってた。
家事に慣れてきて、セツナと遊ぶのが趣味になってきた頃、お母さんは突然私を家の裏、大きな洞窟へ連れて行った。
「ねぇセツナ置いてきて良かったの?」
「…ハルカ。これからあなたに、私たちの使命を背負ってもらうわ」
そう言ってお母さんが明かりをつけると、そこに魔物はいた。
鎖に縛られ氷漬けにされている、もうとっくに死んでいるとしか思えないほど生気のない顔。私たちが立つ場所からは頭部しか見えず、胴体は地面に埋まっている。だが開かれたままの眼はこちらと目を合わせているように見える。私はその場でへたり込んでしまった。
「これを封印したのは私。パパを犠牲にしてこうしたの」
「…えっ?」
お母さんはそう言って、愛おしそうに氷に触れる。
「でもこの封印は完璧じゃない。これが万が一にでも動き出したら、この国は滅ぶ。だからこれから私が封印を重ねる。ハルカは私のいなくなったあと、これの見張りをしてほしいの」
お母さんは青白い光で包まれていく。
「そんっ…そんなの勝手すぎるよ!お母さんがいなくなったら…」
「私がいなくても生活できるよう、教育したはずよ」
「っ…セツナはどうするの?」
「ハルカが育てなさい」
お母さんは、あの時と同じ表情をしていた。ぼそりと呟く。
「セツナはあの人似じゃないことを祈っているわ...」
お母さんが私たちや町の人を守るために人生を賭けていたこと。本当はお父さんのあとを追いたかったのに、私やセツナが生きていけるように生き延ばしていたこと。これらはお母さんの残した遺書で知った。
お母さんに親としての愛は無かったのかもしれないけれど、守ろうとしてくれた。セツナはお母さんの顔なんて覚えてないと思う。だからせめて、私が母親になってやる。
親としてのお母さんは微塵も尊敬できないから、町の守護者として、感謝ぐらいはしとくよ。
瓦礫の中から、動いている巨人を見て親の頑張りを踏み躙られたような感覚を覚えた。
セツナにあれのことは何も言っていない。きっと怖いだろう。
動けない。首から下が焼けるように熱い。でもそんなこと気にならない。セツナをあいつから守らなきゃ。私ができることはなんだ。せめて弟だけは、セツナだけは、普通の人生を送れるように...。
_________
あの巨人はなんだ。魔物か?なんでこんなところにいる。姉ちゃんはどうなった。あの血溜まりはなんだ。家が。僕の大切なものが詰まったあの家が。逃げなくては。姉ちゃんを助けなくては。見られてる。無理だ。逃げる。いやでも姉ちゃん…
だめだ、考えがまとまらない。僕は初めて見る、命を脅かす存在を前に何もできなくなった。
昔は考えていた。もし僕が冒険者になったら、魔物相手にどう戦うか。数々の作戦を頭の中で考え、気がついたら忘れていて、その度に練り直した机上の空論。そのどれも、まずは1歩目を踏み出すことが始まりだった。それに比べて今の僕はどうだ。そうか、恐怖を前に人は動けないんだ。
あの巨人は家の方には目もくれず、こちらをじっと見ている。口が動く。
「なぜ避けられた?」
「…」
「貴様、あれだけの魔素を全て取り込んだのか」
「…あ………」
「愚かなり。戦いの基礎もないただの木偶人形ではないか。であれば、取り込むのも容易いであろう」
巨人の大木のような腕が、その体格に似合わない速度で上からまっすぐ振るわれる。その場で立ち尽くしていた僕は、自らの愚かさで跡形もなくなる、はずだった。
実際に体に受けた衝撃はいつもの痛みと変わらなかった。
「姉ちゃんの…風…」
すんでのところで飛んできた大きな布。僕の体を吹っ飛ばしたそれを拾って家の血溜まりがあった方を見ると、確かにそこで、姉ちゃんと目が合った気がした。下半身は瓦礫に埋まり、折れた木材が腹を貫いている。それでも頭は、目は真っ直ぐ僕を見ていて。
「今のはお前ではないな。同居していた者の異能か」
2度の攻撃を避けられた巨人は、再び腕を上げる。そこに「戦闘をしている」心構えなど微塵もなく、あるのはわずかな気だるさ。目が覚めてすぐに朝食をとるような、作業にも似た憂鬱感を宿していた。
姉からの「いつも通り」を体に受け、漂っていた僕の意識ははじめて現実を見た。なんで姉ちゃんは自分自身ではなく僕を生かす行動をとったのか。おそらく僕に逃げて欲しいのだと思う。言いたいことは分かる。僕に戦う力はないし、ましてや姉ちゃんを助けるなんて不可能だ。取れる選択肢は「逃げる」のみ。でも、
「これじゃ姉ちゃんを見捨てるようなもんだろ...!」
どうしても僕の心では、決断できない。頭では分かるのに、体は未だ動かない。この愚かな自分に反吐が出る。
「となると、厄介なのは同居者だな」
巨人は腕を取り上げたまま、優先順位を入れ替える。その結果──
───再び轟く必殺の音。
拳が姉へ飛び、今度は自らの愚かさに救われたと気づく。巨人は僕が動けないと踏んでイレギュラーの排除を優先したのだった。直撃の瞬間、巨人の腕から漏れる赤。家からさらに溢れる赤黒い液体。
もう、耐えられなかった。
「あああぁぁぁぁぁぁあ!!!!」
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる…。
ここで逃げるなんて無理だ。唯一の家族を失った僕に、加害者を残して生き続けるなんてできない。そうするくらいならここで死んでやる。
せめて最大限の被害を与え、呪ってでも殺す。そのためには…
…瓦礫で崩れた台所、そこで金属が光るのを見た。
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イレギュラーの排除が終わった。あとは足元で立ち止まる、魔素の塊を取り込めば我は力を取り戻せる。
封印されたあの時は、我は死ぬものだと思い魔力を次の世代へ託したが、まさか生きたまま封印を解かれるとは思わなかった。腹ごしらえに我の封印を解いた者を食って、動けるようになったと思えばすぐ近くに大量の魔素が溢れる幸運。おまけにそれが圧縮されて、食われるのを今か今かと待ってくれている。
これで我は再びあの座へ...。
「あああぁぁぁぁぁぁあ!!!!」
...煩わしい。そんなに騒がんでも、すぐに取り込んでやるわ。
足元にいる人間を確かに目で捉えると、それを掴もうと腕を伸ばす。だがそれは叶わなかった。
「…?」
そこに人間はいなかった。さっきまでそこで動けないでいたあの木偶の坊はどこへ行ったのか。またもイレギュラーが現れたのかと周囲を見渡すも、そういうわけでもない。では何が...
──── 一閃。
何かが腕に触れた気がして、それを見ようと首を動かしたときには、右眼は赤く染まっていた。
「なっ...!?」
残った左眼でかすかに見えた残像を追いかけ、宙に浮く「それ」を見た。
血のしたたるナイフを持ち、逆さになった体で我を睨む人間の姿を。