月色の水晶(ガラス)
遥か昔、まだ世界が生まれる前のこと。何もない空間に、一人の月の神様がいました。やがて、気の遠くなる程の時が流れた後に、孤独に耐えかねた神様は、ひと雫の涙を流しました。その涙が地面に落ちると、宇宙が生まれました。
しかし、恒星ができて世界に光が溢れても、神様は独りのままでした。なぜなら、その世界には誰一人として生きた魂は存在しなかったからです。神様は、再び涙を流しました。
すると今度は、その涙から太陽の女神様が生まれました。女神様は死した魂たちに命を与え、世界に生が溢れ出しました。
もう、神様は独りではありませんでした。
それから長い時間、女神様によって命の循環が行われました。神様が創った魂に女神様が命を与え、地上に降りた魂たちは再び宇宙へと還ってくる、その繰り返しがただ続けられました。この循環は、永久に続けられるかのように思われました。
しかしある時、神様は廻る魂たちの中の一つを気に入ってしまいます。神様に拾い上げられたその少女は、その後、長い間神様の傍に置かれました。やがて、女神様の光に照らされ、神様の光を浴びつづけた少女は、いつしか強い魔力を持つようになりました。そして、強すぎる魔力を持った少女に興味を失った神様は、ずっと持っていたその少女を、呆気なく手放してしまいました。
地上へ向かう多くの魂たちの流れに乗り、神様に見棄てられた少女は、何にも逆らうことなく、静かに堕ちていきました。
◇ ◇ ◇
満月の光に照らされた波一つない湖の畔に、一人の少女が佇んでいた。藍色というよりも、暗灰色に近い色の濃い服に身を包み、低い位置で二つにまとめられ、緩くウェーブのかかった亜麻色の髪を結ぶ漆黒のリボンが目を引く。
何より、天空に昇った見事な満月でもなく、ただじっと湖面を見つめ続けるその表情が印象的だった。全てを諦めたような、そしてわずかな憂いを帯びたその表情は、一心に湖面に映った満月へと向けられている。
その様子を、木陰から見ている青年がいた。いや、その場から動けなくなった、と言った方が正しいだろうか。少女の作り出した雰囲気に魅入られ、青年は、自分がなぜこの場にいるのかさえ忘れていた。
不意に、風が通り抜ける。それは、青年と少女の髪をなびかせ、湖面の満月が波にかき消された。
はっ、と我に返った青年が、慌てて、しかし気配を隠して戻ろうと、後退った時だった。
―――ぱきっ……
運悪く、足を下ろしたその先にあった小枝が折れ、小さな音を立ててしまった。ほんの些細な音だったが、この静まり返った湖畔では、少女に気付かれるのに十分過ぎる効果を持っていた。
「――誰」
何の感情も含んでいない、呟くような声で、少女が青年の居る木陰の方を振り返る。
「あ……」
それに気圧されて、青年は暗闇から一歩踏み出した。月明かりに照らされた青年の紫紺の瞳には、驚きが浮かんでいる。後ろで一つに結ばれた見事な銀髪が、満月の明かりにも負けずに輝いていた。
「……」
少女は、何も言わない。相変わらず感情のない瞳で青年を見つめたままだった。その瞳からは、怒っているのか驚いているのかさえわからない。
静寂の中、風が通り過ぎていく。木々の葉が擦れ合う音の中、二人の間には重苦しい沈黙が流れていた。
その気まずさに、青年の口から思わず声が漏れる。
「あ、貴女は……フィオレンティーナ=オルニティア――……」
「――っ!!」
瞬間、少女――フィオレンティーナは、その碧緑の瞳を見開き、息を呑んだ。彼女の顔には、初めて、驚きと懐かしさと、それらの入り混じった感情が現れていた。
――え……?
初対面の相手に呼び捨てにされたのだから、てっきり怒られるだろうと思っていた青年は、ようやく見せた彼女の人間らしい表情に、拍子抜けしてしまった。
色々と噂のある彼女だが、皆が恐れているような人ではないのかもしれない。
「あ、すみません。僕は、エルピス=エンハンブレです」
そう言って、青年――エルピスは、フィオレンティーナに微笑みかけた。
「―――どうして来たの」
エルピスに対し、彼女は冷たく言い放つ。しかし、言葉の裏から彼女の動揺が感じ取れた。
「……それはどう――」
「――いいから! 私のことを知っているのなら、もうここには来ないでっ!! 命に関わるわよ!?」
そう怒鳴ると、フィオレンティーナは彼のもと居た木陰へと小走りで向かい、夜闇に紛れると同時に姿が見えなくなった。
エルピスは、彼女の立ち去った方向を、しばらくの間、茫然と眺めていた。
カーテンで完全に遮光され、闇に満ちた自室で、フィオレンティーナは座り込んでいた。
このセレネアの国に来たのは二ヵ月ほど前のこと。以前いた国から追放された彼女を、この国の王であるアレーズが雇われてのことだった。自室から出てはいけない、という契約はないが、昼間、皆が起きている時は、まず部屋から出ることはない。湖へは、ひと月ほど前から、皆が寝静まった後にこっそり出かけていたのだが……。
――まさか、人が居たなんて……。
人避けの魔法はかけていたが、強いものではないので、誰かが来てしまうのはありえないことではない。
彼女を雇っているこの国の軍の、魔法剣士のものと思われる衣服を身に付けた青年も、以前入って来てしまった人たちと同じように、魔法に耐性があったのだろう。そういった時は、自分に会ったという相手の記憶を消し、二度とその場所には行かないことにしていたはずなのだが……さっきは出来なかった。
名前を呼ばれて驚いたが、あのエルピスという青年の記憶もいつものように消すつもりだったのに、なぜかこうして逃げてきてしまった。
――名前……初めてだった……。
両親を亡くして以来、自分を名前で呼ぶ人はいなかった。優しくしてくれた近所の人たちは略称でフィオナと呼んでいたが、それも国を捨てるまでのわずかな期間だけで、その後出会った各国の王を始めとする権力者たちは自分を物のように扱って名前を呼ばないか、オルニティアという姓の方で呼ぶかのどちらかだった。
しかし、彼は違った。咄嗟のこととはいえ、父や母と同じように名前で呼んでくれた。普段は決して許せない程の無礼なことなのに、あの時、彼に対して怒りの感情は欠片も湧かなかった。
――でも……もう会うべきではない。
と、フィオレンティーナは理由の分からない痛みを感じながら自分に言い聞かせる。
近くにいれば、必ず彼を害してしまう。彼女の持っている強大な力とは、そういうものだった。どんなに抑えようとしても、周囲に漏れ出してしまう。その力は彼女の意志に関係なく、両親を死に至らしめ、彼女を利用しようとした者達や、それ以上に何も知らない沢山の人々を、その償いきれない罪の代償として死に至らしめてきた。
このまま関わり続ければ、彼女を名前で呼んだだけの彼にまで影響が及んでしまうはずだ。
しばらくは外へ出ないようにしよう。そう心に決めたフィオレンティーナだったが、その瞳は風に乱された湖面のように揺らいでいた。
翌日の夜、エルピスは再び湖へとやってきた。前日と同じように、冴えた銀色の月明かりが、辺りを照らしだしている。
見渡しても、誰一人いない。もちろん、昨日いたフィオレンティーナも来る気配はない。もしかしたら、言葉の通り二度と来ないのかもしれないが、エルピスはもう一度彼女がここへ来る気がしてならなかった。
きつい態度とは裏腹に、彼女の中にあったのは孤独と寂しさだったはずだ。そう確信しながら、エルピスは、昨日より少しだけ欠けた月が天頂に登りきるまで、フィオレンティーナを待っていた。
一週間後、フィオレンティーナは再び湖の畔へとやってきた。薄暗く、空気の淀んだ室内に籠もっていたせいか、この一週間、困惑が続いている。そんな自分を落ち着けようとしたからだった。
湖を取り囲むように生い茂る草木を避け、転送魔法で姿を現わす。見回す限り周囲に人はいない。ほっとすると同時に、なぜだか少し残念に思う気持ちが心をかすめた。
波がかからないぎりぎりの所に立って、湖面を見つめたまま、物思いに耽る。
――そうよ、これでいいの。
自分に言い聞かせるように、フィオレンティーナは、そう心の中で呟いた。
仮にエルピスが自分を探していたとしても、この間とは別の場所に居るのだから、見付かるはずはない。
湖面の半月を見つめたまま、どれだけそうしていただろうか。
―――かさっ……
不意に、静寂を破る音がした。
「――っ!?」
振り向いたそこに、エルピスがいた。
満月も半月になったその日も、エルピスはフィオレンティーナと会った湖畔に来ていた。日に日に遅く昇る月が天にかかる頃になっても、彼女が現れる気配はない。
今日も来ないのかもしれないと、立ち去ろうとした時、湖の対岸に人影を見た気がした。
はっとして目を凝らして見るが、畔には誰もいない。単なる気のせいで片付けることもできたが、エルピスは草木の生い茂る対岸へと向かった。
人影を見た所に来てみると、あの日のようにフィオレンティーナが一心に湖面を見つめている。
―――かさっ……
声をかけようとして一歩踏み出すと、下草が擦れあって音を立てた。
気付いたフィオレンティーナが、はっと振り返る。エルピスを見留め、驚きに目を見開いた。
「……こ、こんばんは。お久しぶりですね」
エルピスは、何事もなかったかのように言おうとしたが、声が上擦ってしまった。
「……」
フィオレンティーナは黙ったままだった。驚きを見せたのは最初の数秒で、その後は無表情だ。いや、内心は動揺しているのかもしれない。
「……月が、好きなのですか?」
なんとか会話を成立させようと、エルピスは続ける。先日も今日も、フィオレンティーナが湖面に映った月を見ていたのを思い出したのだ。
だから、てっきり月が好きなのだと思ったのだが――。
「……嫌いよ。この世の中の何よりも、大嫌い」
そうフィオレンティーナは言い放つ。
一瞬怯んだエルピスだったが、言ってしまったことを後悔するかのような彼女を見て、すぐに次の言葉を探した。
「……では、なぜ月を見ているのですか?」
それは素朴に思った疑問だった。月が嫌いと言いながら、月を見続けている彼女。エルピスにも苦手なものはあるが、普通は近付かないようにするものではないだろうか。
「……それは、答えなければならないことなの?」
エルピスの問いには答えずに、フィオレンティーナは言う。湖面を渡る夜風が、彼女の長い髪を靡かせた。
「いえ、無理に答える必要はないですよ。僕が、ただ疑問に思っただけのことですから」
そう言って、エルピスはフィオレンティーナの様子を窺う。彼女は、何か考え込んでいるように見えた。
急ぎ過ぎると、会話は成立しない。そう、エルピスは気付き始めていた。自分は、目の前にいきなり現れた不審者なのだ。しかも、彼女の深い所に立ち入ろうとしている。何気ない質問のつもりで訊いたのだが、彼女にとっては大きな意味を持っていたようだった。
しばらくして、フィオレンティーナは思い切ったように顔を上げ、口を開く。
「……それは、あなたの興味なの? それとも、ただ私を利用したいだけ? 知っていると思うけど、私に関わると、全てが悪い方へしか向かわなくなるのよ?」
それを理解しているのかと、彼女は訊いていた。
全てを不幸に導く。そう噂されている彼女がこの国に来たことを、快く思っていない同僚も少なくない。他国との戦争のために彼女を雇っている国王に、取り敢えずは従っているものの、誰もが、彼女の魔力の及ぼす影響を畏れていた。
「ただの興味ですよ。もちろん、あなたを畏れているわけでも、利用しようとしているわけでもありません。ただ、同じ国に仕える者同士、交流を持てないかと思ったのです」
彼女の見えない気持ちに気付いた時には、迷わずにそう答えていた。そんな自分に、エルピスは驚く。今までにないことだったが、それが本音には違いなかった。
「……あの月が、全ての原因だからよ」
エルピスの答えを聞き、しばらく経ってから、消え入りそうな声でフィオレンティーナは言った。
「十六歳の時に、夢で教えられたの。私の魔力は人が持ってはいけないもので、だからその罪を背負っているんだ、って。……父も母も、殺したのは私なんだって。」
自嘲気味な声音で、最後に一瞬の躊躇いを持って発せられた、その科白。彼女は、自分の背負ってしまった罪と向き合うため、憎くて仕方のない月を、毎夜眺めているのだ。
咄嗟にエルピスは言葉を返せなかった。彼女が過去にどのようなことを経験してきているのか、彼には知る由もなかったが、その辛い記憶を他人事のように話す彼女を、痛々しく感じた。どうにかして、その痛みを少しでも軽くしてあげたかったが、今の彼女に必要なのは、励ましの言葉でも、同情の気持ちでもない。
「……僕が、これ以上訊くのは迷惑ですか?」
だから、エルピスはフィオレンティーナの話を聴こうと思った。話すことで彼女の苦しみや辛さが消えていくのなら、いくらでもその聞き役になろうと思ったのだ。
フィオレンティーナは、驚いた顔でエルピスを見る。彼の顔を覗き込んで言葉の真意を探るような仕草を見せた後、彼女は静かに言った。
「私は何とも思わないけど、あなたは平気なの? 私と居ると、確実に死が待っているのよ? 私の独り言を聞いて、何の得になるって言うのよ」
そう言って眉を顰める彼女に、エルピスはすぐに答えていた。
「では、僕が来ても迷惑ではないのですね? それなら、どうぞ気兼ねなく、僕に話して下さい」
フィオレンティーナの言葉を勝手に解釈し、得意げに言ったエルピスを、彼女は再び感情を隠した表情で、長い間見つめていた。そして、少しして、風にかき消されそうな声で言う。
「……勝手にすれば? どうなったって知らないから」
ええ、そうします、と答えたエルピスを、彼女は少しだけ後悔の混ざった顔で見ていた。
厚いカーテンの隙間から漏れる朝日に、薄っすらと室内が浮かび上がっている。そんな中、佇むフィオレンティーナの亜麻色の髪は、夜気を孕んでしっとりと体に纏わり付いていた。
――何をやっているのかしら……。
深く溜め息を吐いた彼女にあわせて、闇色のローブが揺れる。彼が現われ、確かに驚きもあったが、突き放すつもりでいたのだ。だが、逆に挑発するようなことを言ってしまった。
――本当、莫迦みたい……。私も、あの人も。
湖から戻った後、そんな風に彼女が後悔し続けているうちに、外では長い夜が明けていった。
「こんばんは」
数日後、フィオレンティーナが再び湖畔を訪れると、当たり前のようにエルピスがいた。
「――またあなたなの?」
呆れた声でそう言ったが、彼は気にした様子もない。
「はい」
エルピスがにこやかに答えるものだから、怒る気も失せたフィオレンティーナは、溜め息を吐きながら彼の脇をすり抜けて、湖面に打ち寄せる波を眺める。無視をしたというのに、彼は数歩彼女に歩み寄った。
「話したいことがあればご自由にどうぞ」
先日と同じことを言いながら、彼女が不快に感じないギリギリの距離に立っているエルピスを、フィオレンティーナは意外な思いで見ていた。これだけ邪険に扱っているというのに、気にしていない様子から、もっと図々しい人かと思っていたのだが、実際には話す相手のことをよく察している。これでは、頑なな自分の方が悪いようで、突っぱね続けることに居心地の悪いものを感じる。
「……別に、何もないわよ」
だから、少しくらい友好的に言おうとしたのに、ギスギスした声音になってしまっていた。
「そうですか」
それですら、エルピスは何でもないことのように受け流す。そして、何か包帯のようなものを取り出し、フィオレンティーナに差し出した。
「よかったら、受け取ってください」
「……何?」
不審に思いながら、フィオレンティーナが窺う。蒼白い月光に照らし出されたそれは薄い紫色に見えたが、恐らくは淡い桃色をした細いリボンだった。
「この間失礼をしたお詫びにと思いまして、髪留めとして使ってください」
「……」
自分の髪をまとめている漆黒のリボンに意識がいき、フィオレンティーナは眉を顰める。年頃の女性に不似合いな、暗い色の衣服に身を包んだ自分を、エルピスが哀れんでいるような気がしたのだ。
「貴女に似合うと思いまして」
そうエルピスは続ける。
「それなら、貰うだけ貰っておくわ」
いつまでも刺々しい態度の自分を由無く思ったフィオレンティーナは、エルピスからリボンを受け取った。
――どうせ着けないでしょうけど
半分は自分に言い聞かせるように内心で呟く彼女の手の中で、その薄い色をした布の端が、夜風にはためいていた。
その日の夜も、フィオレンティーナは当たり前のように湖畔へ向かおうとしていた。あれ以来、エルピスは毎日彼女の前に現れては、ほとんど返事を返さないフィオレンティーナに話しかけている。その粘り強さに呆れ返りながらも、部屋でじっとしている気にはなれなかった。
――あ……
転送魔法を使おうとして、ふと置いてある鏡が目に入った。暗い部屋で余計に気が滅入るので普段滅多に見ない姿見には、長く感情を消したままの、生気の無い顔の自分が移っている。
――酷い表情……
唐突に、髪に結ばれた漆黒のリボンが気になった。薄闇の中、そこだけ空間を切り取ったかのように存在を主張しているその布が、彼女の活力を奪っているかのように見える。
フィオレンティーナは、長い髪からリボンを取り去った。そして引き出しを開け、十数日前に彼に貰ったリボンを取り出す。淡い色のその布は、薄闇のもとでも温かみのある色を失っていなかった。
―――シュッ
少し躊躇った後、思い切って、そのリボンで髪を結んでみた。更に、暗灰色のローブを脱ぎ去り、深い青色のものに着替える。全ての色を吸収してしまう黒と違い、暗闇の中でも色を失わないその服の方が、随分やわらかい印象になったのではないかと、そんな気さえした。
再び鏡に視線を戻すと、そこに映った彼女の顔には、わずかだが血色が戻っていた。
「着けてくださったんですね」
エルピスは、そんな彼女の変化にすぐ気が付いた。
「な、何よ――」
指摘されたフィオレンティーナは、慌てながら彼を睨み返すが、照れて赤面している状態では、あまり迫力はない。
「良くお似合いですよ。贈った側としても安心しました」
「ま、前のリボンを失くしたから、仕方なく着けてるの。深い意味は無いわ」
嬉しそうなエルピスに間髪入れずに断わるが、彼は感慨深そうにフィオレンティーナと彼女の着けているリボンとを交互に見比べている。その顔があまりにも嬉しそうだったので、彼女はそれ以上何も言うことができなかった。
「ところで、今日も僕に話しては頂けないのでしょうか」
しばしの後、エルピスは、もう何度目になるか分からない、同じ科白でいつものように彼女に訊いた。
「……まだ諦めていなかったの?」
何度フィオレンティーナが断わっても、一向に止める気配を見せないエルピス。だから、その質問の答えが分かり切っていても、訊いてしまう。
「はい。いつでも話してくださいね」
普段なら、ここできっぱりと断わるのだ。しかし、晴れやかな顔をしているエルピスに、ついつい言ってしまった。
「前にも言ったかもしれないけど、聞いて気分のいいようなものじゃないのよ? むしろ、確実にあなたの気分を害するわ、断言してもいいの。そんな精神衛生上良くない話を、何でわざわざ聞くのよ」
半分はムキになっているフィオレンティーナに、エルピスはなおも優しく微笑みかける。
「ですから、僕の個人的な興味です。なので、聴いて僕が何と思っても、それは僕の責任ですし、貴女に不快な思いはさせないとお約束します」
不意に奥底にしまっていたはずの記憶が心をかすめる。不明確な約束。まだ未熟だった頃、彼女は何度も騙された。人間同士の口約束ほど不確かなものはない。結局はいつも、その約束を疑うことなく信じたフィオレンティーナが悪かったのだから。
「――本当に、どうなっても知らないんだからね」
「はい」
そうエルピスが即答しても、長い間彼女は黙っていた。話してしまおうという気持ちと、このまま口を噤んで彼を巻き込まないようにしようという気持ちとが、静かにぶつかり合う。
そうしてしばらくして顔を上げ、凪いだ湖面に映った天頂にかかろうとする月にちらりと目配せし、ぽつりぽつりとか細い声音で、フィオレンティーナはその悲劇に満ちた過去を語り始めた。
◇ ◇ ◇
フィオレンティーナの生まれ故郷は、地方の小国で、名前をアグロスと言った。経済の中心となっている平野部の外れ、決して暮らしやすい土地ではなかったけれど、皆が日常の些細な出来事の中に幸せを見出し、日々を送っている、そんな場所だった。
彼女の父オルイドは国で唯一の学校で教師をしていて、母アミニータは小さな商店の一人娘だったと言う。そんな二人の許に、彼女は生まれた。両親からの愛情を一身に受け、フィオレンティーナと名付けられた彼女は、明るく活発な少女へと育っていった。
フィオレンティーナの魔法の力は、幼い頃から際立っていたと言う。初めに気付いたのは母親で、後に評判を聞いた魔術師に習うようになってからは、成人した魔術師でさえ使える者は数人しかいないといわれるような大きな魔法まで、いとも簡単に発動できるようになった。
国民と同じように質素な暮らしを送っていた王様にも、将来は専属の魔術師にと望まれ順風満帆だったフィオレンティーナの人生だが、彼女が十歳の年、一つの暗い影が落ちる。
彼女が物心つく前から体調を崩し寝込みがちだった母のアミニータが、年越しの冬を向かえる前に、静かに息を引き取ったのだ。突然の母の死。新たに始まった、父との二人暮らし。慣れないことも多々あったが、近所の人たちの助けもあり、すぐに以前のような日常が戻ってきた。
しかし、それから二年程経った頃、フィオレンティーナは再び不幸に見舞われることとなる。
今度は、父が亡くなったのだ。前夜まで変わらず健康そのものだった父は、ある朝、彼女が起こしに行った時には既に冷たくなっていた。
唯一の家族を亡くし、親戚もいない彼女を、親切な近所の人たちは快く引き受けてくれた。
だが、その生活も長くは続かなかった。
父親の死から数ヶ月。今度は、面倒を見てくれていた近所の人たちが、次々に体調を崩したり、怪我をするようになったのだ。もう、その原因が自分にあるということに、薄っすらと気付き始めていた。
そして、彼女を一番に気にかけてくれていた隣の奥さんが亡くなった日の真夜中、満天の星空の下、フィオレンティーナは黙って故郷を旅立った。
行くあてもなく、初めは途方に暮れ、何度も死にそうになったし、死のうともした。しかし、いくら食べないでいても何も飲まなくても、瀕死の怪我を負ってさえも、全身の脱力感と発狂しそうなほどの苦痛の末に、結局は生きていた。
そのうち、密やかな噂が流れ出し、様々な権力者達に兵器として使われるようになった。国によって待遇はまちまちで、セレネアのように部屋を与えられることもあれば、いつだったかは国外れの塔に幽閉されたこともあったが、共通していたのは、皆彼女の魔力がもたらす悪影響を畏れていたことくらいだろうか。また、そんな彼女の部屋はきちんと警備されているはずもなく、夜闇に乗じて不届き者が忍び込もうとすることも多々あった。無論、彼女の強大な魔力の前では、皆一瞬にして魂と身体を引き剥がされることとなったが、そんな状態では満足に眠ることもできず、常に起きているしかなかった。
そんな生活の中で歳を重ね、十六歳になったある夜のこと。食事も水もなく、幽閉された塔の部屋で、朦朧となって見た夢で、あの事実を突き付けられた。
《フィオレンティーナ》
そう、その存在は言った。若いのか老いているのか、性別さえもはっきりとしない声だったことを覚えている。
《お前の持つ魔力は、人間が持ってはいけないモノ。それを使う技術を得てしまったお前は、猶更罪深い》
淡々と語られる内容を、フィオレンティーナはただ聞いているしかなかった。
《お前の罪は、お前一人で償うには、肥大し過ぎている》
語っている存在が、自分の目の前にいるのか、遠くから見ているのかも判らない。聞こえてくる声は、直接頭に響いているような感じでもあった。
《ゆえに、お前は永遠を生きながら、周囲の全てを、償いのために犠牲にすることになる。――お前を身篭ったために、お前の魔力に身体を壊された母親や、お前の魔力の代償として死んでいった父親のように》
「――っ!?」
息が詰まった。知っていたつもりだったが、告げられた事実に、受け入れ難い心の傷が甦ってくる。あの優しかった両親は、自分という存在と出会ってしまったがために、その先ずっと続いたであろう幸福な時間を奪われたのだ。
更に追い討ちをかけるように、残酷過ぎる事実は続けられる。
《そして、そのことですら、お前の罪となる》
無慈悲にそう言い、その存在は跡形も無く消えた。
「――っ」
飛び起きると、そこは僅かしか光の入らない、暗い塔の部屋だった。その前に意識がはっきりしていた時は夕刻だったが、今はもうすっかり真夜中になっている。鼓動も早鐘のようで、朦朧としていたのが嘘のようだった。
――夢……じゃない。何も、かも……
遣り取りを思い出しながら、そう確信する。
「そんなこと……もう解ってたのに……」
そう呟きながら、彼女は嘲笑う。泣きそうな顔をしている自覚はあっても、長い間の疲労と心労のせいか、涙は一滴さえ出てはこなかった。
その日を境に、フィオレンティーナは人らしい暮らしが出来なくなった。何を口にしても味を感じないのは以前からだったが、生理現象としての空腹や眠気さえも感じなくなり、身体の成長すら止まってしまったようだった。
それは、死んでいるのと何ひとつ違いないことだった。何も感じないままに、ただ日々を過ごしていく。死者と違うのは動けることくらいで、新たに始まったその地獄を、彼女は受け入れるより他になかった。
◇ ◇ ◇
「過去の記憶なんて、もうほとんど残っていないけど、そうね、あと覚えているのは、夢を見てから少しして、故郷が滅んだと聞いたことくらいかしら」
最後にそう、フィオレンティーナは、ほんの些細なことのように付け加えた。
やけに冷たい夜風が、月明かりも通さない黒い湖面を渡ってくる。
「……」
重苦しい沈黙が、その場を支配していた。フィオレンティーナの口から語られた、彼女の壮絶な人生を聴き、エルピスは険しい表情で黙り込んでいる。
――だから、嫌だったのよ……
自分の生きてきた環境が、どれほど悲惨なものなのかは、十分に理解しているつもりだった。聞いて楽しいようなものではないし、同情も慰めもいらない。そもそも、こうして興味を持つ人も、話を聞いてくれるような人もいなかったのだ。ただ、エルピスがあまりにも自然に接してくれていたから、それまで戒めていたことも全て忘れて、話してみようという気になっただけ。
――ごめんなさい……
口には出して言わないものの、フィオレンティーナはすっかり口癖になった科白を呟く。
「……今も、眠れないのですか」
しかし、彼女が予想していたどの返事でもないことを、エルピスは言った。
「え……」
いきなり何を言い出すのだろう。言葉に詰まり、フィオレンティーナは一層訝しげにエルピスを見る。
「もしそうでしたら、すみませんでした。謝って済むことではないですが……」
「――ち、ちょっと待って。何を言ってるの? あなたは何も悪くないじゃないの」
慌ててフィオレンティーナは遮った。彼女が考えてもいないようなことをエルピスが言うのはいつものことだが、彼が謝る理由は何もないのだ。むしろ、非は彼女の方にあると言ってもいい。
「ですから、もしこの国でもそういう扱いを受けているのでしたら、この国の国民として貴女に謝ります」
「……」
時々、エルピスの考え方は理解できない。嫌なことを聞かされて、どうやってフィオレンティーナから離れようかと考えているのだとばかり思っていたのだが、どうやら違うようだ。
「ねえ、前にも訊いたけど、私が嫌じゃないの? だって、見た目はあなたより幼く見えるけど、たぶん実際は私の方が年上なのよ。こんな化物と接して何が楽しいのよ」
怒っているというよりは、困惑の表情を強く浮かべて、フィオレンティーナは言った。しかしエルピスは、その言葉を遮るように答える。
「何を言っているのですか、貴女は『化物』ではありませんよ。こうして、ちゃんと生きている人間です」
その言葉に嘘はないことを、彼女はエルピスの瞳から悟った。そして、彼が他の人たちのように、自分を利用したりしようとするのではなく、本当の彼女に向き合おうとしてくれていることをようやく理解したフィオレンティーナは、もうこれ以上エルピスの言葉を疑うことはできなかった。
「……あなた、変わってるわ。そう言われない?」
意味を量りかねているエルピスに、彼女は続けて言う。
「だって、私の魔力は無差別に害を与えるし、性格がきついことくらい、自分でも解ってるもの。こんな人間と、普通、会話なんてしたくないでしょう」
訊きながら、彼が何と答えるか分かっていた。けれど、フィオレンティーナは確かめずにはいられなかったのだ。
「僕が変わっているかどうかは判りませんが、貴女と話すことは僕の意思でしていることです。嫌なことなんて何もありませんよ」
そう言って微笑むエルピスを、彼女は悲しみとも困惑とも取れない複雑な瞳で、目を逸らさずに見ていた。彼の言うことを一言一句確かめるように。見ていなければ全てがなかったことになりそうで、怖かったのだ。
「そう……あり――――いいえ、何でもないの。ひとつ訊いてもいいかしら」
「ええ、構いませんよ」
彼女から、頑なに他人との関わりを絶とうとしていた気配が消えたのを感じながら、エルピスは答えた。
「どうして、今の仕事に就こうと思ったの?」
フィオレンティーナは、急に話題を変える。さっき思わずお礼を言いそうになってしまって、それが気恥ずかしかった。
「すみませんでした。僕ばかり訊いて貴女が答えるのは不公平ですよね。そうですね……もう十年以上前のことなのですが、僕に魔法を教えてくれた人がいまして――」
エルピスは話し出した。フィオレンティーナも、少しだけ嬉しそうに、彼の話に聞き入った様子だ。
月の無い星空が、そんな二人を見守っていた。
◇ ◇ ◇
翌月になると、夏の残暑もすっかり影を潜め、秋らしい天気が続くようになった。草花は枯れ始め、木々もどこかくすんだ色になってきたようだ。少し日の出も遅くなり、朝も冷え込むようになった。
明け方、と言うには早すぎる時間帯。夜闇の中にわずかな明るさが混ざり始める頃、フィオレンティーナは自室で目を覚ました。
「ん……」
体を起こし、手櫛で髪を整える。まだ頭は覚醒し切っていないが、二度寝はできないだろう。もう何年も忘れていた感覚に、まだ慣れない。
エルピスに訊かれ過去を話して以来、時々だったが、以前のように眠れることがあった。それも、かなり夜更けまで起きていて、微かな明るさが感じられる時間には目が覚めてしまうという短時間だけの睡眠だったが、彼女は、起きる度に自分が以前の感覚を取り戻していくようで嬉しかった。
エルピスとフィオレンティーナは、あれから何度も湖畔で会い、他愛の無い話をした。その度に、自分の気持ちが落ち着いていくのを、彼女は感じている。それと同時に、自分がしていることが彼に及ぼす影響について考えずにはいられない。
――カチャッ……
顔を洗い、衣装を着替えていく。その中に、不自然に混ざる金属音があった。
フィオレンティーナが手にしているのは、装身具だ。種類もバラバラで、ネックレスや腕輪などがベッドの上にも広げられ、数え切れないほどのそれを、フィオレンティーナは一つ一つ身に着けていく。
それは、「魔力封じ」だった。彼女の魔力は強大過ぎて、自分でも意識しないうちに外へと漏れ出し、触れた者を負の連鎖へと陥れる。今更だったが、彼に影響を与えることを怖れ、最近量を増やしたものだ。気休め程度にしかならないことは解っていたが、それでも、何もせずにはいられなかった。
全てを着け終わり、その上から深い藍色のローブを身に纏うと、それはフィオレンティーナの長い衣装に全て隠れてしまう。漆黒のリボンで髪をまとめた彼女は、それから夜中まで、いつあるか分からない呼び出しを、ただ部屋でじっと待つことになる。
ある夜、湖畔でエルピスを待ちながら、フィオレンティーナは漆黒のリボンを彼がくれた薄桃色のものに換える。ここ数日続いた、春のように暖かい日の余韻を残すかのように、わずかに冷たさの緩んだ風が、髪をなびかせた。
「こんばんは」
少しして現れたエルピスは、いつものように穏やかな顔でそう言った。
「ええ、こんばんは。いい夜ね」
そう返し、フィオレンティーナが見上げた星空に、月はまだ出ていない。初めて会った頃は刺々しかった彼女も、最近では穏やかな笑顔を浮かべるようになっていた。その変化を嬉しく思いながら、エルピスは目を細める。
「月が出るまでには、まだ数刻ありますからね」
言いながら隣に座った彼を振り返ったフィオレンティーナの頭で、淡い桃色のリボンが揺れた。
「それもあるんだけれど、ここ何日か暖かかったじゃない? それで、本当は枯れるはずの草木が、勘違いしているの。本来は眠りに就くはずの時間も返上して、葉や茎を伸ばそうと頑張っているのがおかしくて」
そうして堪えきれないと言うように、くすくすと笑うフィオレンティーナの声が、静かな湖畔に響く。
彼女の様子からして、聞こえたならかなり楽しいのだろう。魔法が使えるとはいえ、エルピスに彼女のような植物の声を聞き取れるほどの耳は無い。そのことを少し羨ましく思いながらも、彼は思い出したものをフィオレンティーナに差し出した。
「そうみたいですね。僕の家の庭でも、珍しいものが咲いていたので、持ってきたんですよ。貴女に差し上げます」
フィオレンティーナは、反射的に受け取ってしまったものに視線を落とす。それは、可憐な蒼い花を咲かせた、季節外れの勿忘草だった。
「本来は春先に咲く花なのですが、他の草木と同じように、月日を半年近く間違えたみたいですね」
狂い咲いたその花に見とれていた彼女は、エルピスの言葉に我に返る。
「こんな貴重なもの、私が貰ったら悪いわよ」
花を返そうとするフィオレンティーナの手に、彼は再び勿忘草を握らせた。
「いいえ、貰ってください。――その、迷惑でなければですけれど」
「……そう? じゃあ、遠慮なくいただいておくわ」
フィオレンティーナは、感慨深そうにその小さな花を眺める。星明りに照らされた勿忘草は、凛とした様子で彼女を見上げていた。
「……母さまが好きだった花なの」
しばらくして、フィオレンティーナはそう呟いた。
「身体が悪くて――まあ、それも私のせいだったんだけど――寝込んでいるのを見ることが多かった母さまが、『オルイドさんに貰った思い出の花なのよ』って、窓辺で育てていた花が、この勿忘草だったの」
視線を上げることなく、彼女は言う。その声音に滲んでいるのは、悲しみでも憂いでもなく懐旧の思いだった。
「奇遇ですね。僕の母も勿忘草が好きなんですよ」
フィオレンティーナに辛い過去を思い出させてしまったかと心配になったエルピスは、内心で胸を撫で下ろしながら言い添える。
「理由までは知らないですが、毎年育てていて、春には花壇一面が蒼に覆われて、とても綺麗なんです。その時はぜひ見に来てくださいね」
「……そうね、考えておくわ」
そう言ったフィオレンティーナは、勿忘草の花にも負けない微笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇
「僕の母が貴女に会いたがっているのですが、会っていただけないでしょうか」
勿忘草が狂い咲いてから少し後、冬も着々と近付いており、湖畔の木々たちが鮮やかに色付き出している。そんなある日、エルピスはそうフィオレンティーナに切り出した。
「お母さまって、エルピスの?」
以前、フィオレンティーナの母親と同じく、勿忘草が好きな人だと聞いたことはあるが、面識は無いはずだ。不思議に思い、彼女は訊いた。
「ええ。この間、しつこく訊かれて、その……全て話してしまったのです」
申し訳なさそうに、彼は言う。フィオレンティーナは驚いて、彼に確認した。
「え、全部って……全部なの?」
以前、身体が弱くて滅多に外出しない人だと聞いたが、それでも彼女のよくない噂くらい知っているだろう。それに、彼に話した過去の話とて、不安の材料にはなっても、いい感想を持つようなものではない。
「ええ……本当に申し訳ありません」
「そ、そうじゃなくて……聞いて気分のいいようなものじゃないでしょう?」
――会うのを禁止されなかったの? ますます恐縮するエルピスに、フィオレンティーナは言った。
「ああ、そうではなくて、母は貴女を素敵な人だと言っていましたよ。なので、一度会ってみたいのだそうです」
彼女の意図を察して、エルピスは付け加える。その言葉に、フィオレンティーナはただ驚くばかりだった。
「え……ど、どうして――」
「それは本人に訊いてみてください。時間があるのなら案内しますが、どうしますか?」
そこまで言われて会いにいかないのはひどく失礼な気がして、彼女は肯いていた。
半時ほど後。フィオレンティーナは、エルピスの家にいた。
「こちらです」
エルピスに案内され薄暗い廊下を進むと、突き当りの部屋の、月明かりを浴びたベッドに、女性が身体を起こしていた。
「いらっしゃい、突然ごめんなさいね。私がエルピスの母、クラニアよ」
「……」
その女性を見たフィオレンティーナは、何も言えなくなった。なぜなら、女性の顔にははっきりとした死相が出ていたからだ。目を逸らし、彼女は思わずエルピスを見ていた。
気付いた彼が、苦笑とも取れる表情で言う。
「僕はしばらく外していますね」
そう言って出て行った彼を見て、フィオレンティーナは我に返った。
「あ……す、すみません。私は、フィオレンティーナ=オルニティアと申します。セレネアの魔術師です」
「そう、どうぞ座ってね」
そう促されて、フィオレンティーナはベッドのすぐ脇にある椅子に腰掛けた。
「それと、気付いたようだから言うけれど、私の命はもうあまり残されていないのよ。でも、貴女が気にすることではないわ。もう、十分生きたもの。だから、私が居なくなっても、気に病んじゃだめよ?」
その様子を眺めながら、どこか冗談めいた口調で、クラニアは微笑む。
「――っ!?」
考えていたことを言い当てられ、フィオレンティーナは息を呑んだ。そんな様子さえおかしいのか、クラニアはくすくすと笑っている。
「……あ、あの、なぜ私を?」
気を取り直し、恐る恐るフィオレンティーナは訊いた。
「あら、ごめんなさい。……そうねえ、どうしても伝えないといけないことがあるような気がしたのよ。息子から、大体のことを聞いたから」
何を言われるのか、フィオレンティーナは緊張した面持ちで聴いていた。
「これは私の勝手な推測なのだけれど、貴女、お母様が亡くなったことについて、まだ自分を責めているんじゃないかしら?」
どうしてこんなにも人の気持ちが解るんだろうと、フィオレンティーナは思った。女性の言う通り、彼女はよく母の亡くなった時のことを思い出し、その度に自分を恨んでいたのだ。
「それで、これは私の個人的な意見なのだけれど、たとえ事実がそうでも、お母様は貴女にそう考えてほしいなんて思っていないわよ」
「……」
「他にも、貴女が自分を許せないことはあるでしょう。それについては、私は何も言えないわ。貴女の問題だから。けれどね、同じ母親としてわかることもあるわ。母親はね、子供に自分のことで悩んでもらいたくはないのよ」
気が付けば、頬を暖かい液体が伝っている。驚きながらも、彼女はそれを拭うことも、女性から目を逸らすことも出来ずにいた。
「お母様は、一度でも貴女を嫌うようなことを仰っていたかしら?」
涙の伝う頬に手を添えて、クラニアは優しい瞳でフィオレンティーナに問いかける。
「い……いいえ。母さまは、自分が辛くて、起き上がれないときでも、私にごめんなさいって、でも……わ、たしは……何も、できなくて……」
息が詰まって上手く喋れなかった。
「ほら、お母様は貴女をとても愛していたのよ」
止まらない涙を何度も拭ってやりながら、クラニアは深く傷ついているこの少女を自分の娘のように感じていた。少しでもいいから、その痛む心を包めるように。
「今まで、大変なことも、辛いことも沢山あったでしょう。けれど、少なくともお母様のことに関しては、もう苦しむ必要はないと思うわ。もう、自分を楽にしてあげなさい」
そう繰り返して、クラニアはフィオレンティーナを抱き寄せた。
「……っ」
もう何年も泣いたことはなかったのに、涙が溢れて止まらない。ずっと前に、幼い彼女が泣いていると同じようにしてくれた母親を思い出しながら、フィオレンティーナはいつまでも懐かしい温もりに縋って泣き続けていた。
そんなことがあってからひと月ほど経ったある夜。フィオレンティーナはいつものように、湖畔でエルピスを待っていた。
あれから何度か訪ねて、クラニアと彼女は他愛ない話をした。二人きりで、時にはエルピスも交えて。クラニアは相変わらず笑みを絶やさないが、体調は明らかに悪くなっているようにフィオレンティーナは感じていた。
今夜も会うはずだったのだが、いつもの時間になっても、迎えに来るエルピスが現れない。何となく嫌な予感がして、今夜は忙しくて来られないのだと言い聞かせ帰ろうとしたが、出来なかった。
「――すみません、待たせてしまいましたね」
そうしてどれくらい湖畔に立っていただろう。不意に聞こえた彼の声に、彼女はゆっくりと振り向いた。
「そんなに待ってないわ。今日は来ないのかと思ったんだけど、何かあったの?」
訊きたくなかったが、そうせずにいられなかった。エルピスは、少し考え込んだ後、静かに言う。
「今朝方、母が亡くなったのです」
予想していた答えだったが、動けなかった。つい数日前には、言葉を交わした人なのだ。近いうちにそうなるとは解っていても、いざその時になると、心は受け入れないものらしい。そんなことを考えると同時に、十年以上も昔に味わった、近しい人が亡くなる喪失感を思い出していた。
「……そう――」
それだけ言うのが精一杯で、エルピスが困っているのは分かるのに、次の言葉が続かない。おまけに、視界が妙にぼやけている。涙だと認識し、止めようとするが、あの時のように溢れ続けて止まりそうになかった。
そうしてしばらくの間、沈黙が流れる。
「――ありがとうございます」
唐突に彼が言った言葉に、フィオレンティーナは意味を測りかねて顔を上げた。白いハンカチを彼女に差し出しながら、彼は穏やかに微笑んでいる。
「母は、娘がほしかったそうですから。最期に僕に言った言葉も、貴女に会わせてくれてありがとうと、そう、言っていたのですよ」
彼が笑っている理由が、解った気がした。
「私の方こそ、会わせてくれてありがとう」
まだ、涙は止まりそうにない。しかし、赤く泣き腫らした目で、フィオレンティーナは微笑んだ。
◇ ◇ ◇
その新月の夜も、フィオレンティーナとエルピスは湖畔で静かに時を過ごしていた。あるのは夜風が草木を揺らす音くらいで、それ以外にはなにもない。そんな場所でも、彼女にとっては一番心休まる場所だ。
しかしその夜、辺りを満たす静寂に潜む者がいた。
―――かさ……
静けさを破り、枯れかけた下草を踏む、微かな音がした。
「――!?」
そのわずかな音を聞き取ったフィオレンティーナは、弾かれたように立ち上がると、エルピスが振り返った時にはもう、音を立てた人物がいる方へと、魔法を放っている。それは、もはや反射的なものだった。
一瞬、何が起きたのか判らない様子のエルピスだったが、彼女の向いている茂みの奥で、どさりと何かの倒れる音を聞き、全てを理解したようだ。
「僕が行きます」
険しい表情で暗闇の奥を見つめている彼女を制して、エルピスは歩き出す。数歩遅れて、フィオレンティーナもついて行った。
「これは……」
葉をかき分けたその奥に倒れていたのは、エルピスも一応は見たことのある人物だった。ひと月ほど前にエルピスの所属する軍に入ってきた男で、先日セレネア領になった地方の出身だったはずだ。その男がなぜここに。
「……恐らく、ここに迷い込んだだけでしょう」
手短に説明すると、フィオレンティーナもようやく少し表情を緩める。
大方、来たばかりの土地に馴染もうと思っての行動だ。こんな真夜中に、と言うのは少し異常だが、入ったばかりの者だということを考えると納得がいく。厳しいことで有名なセレネアの軍は、通常の訓練に加えて、基礎体力の足りない者には特別なカリキュラムが用意されているのだ。大抵の者は数ヶ月で終わりになるのだが、その間に根を上げる者も少なくない。一年近く受けていたエルピスの経験から考えると、夕方に帰宅し、溜まった疲労からすぐに熟睡。起き出すのは真夜中になる、といったところだろうか。
「どうすればいいかしら」
一応はエルピスの顔見知りだと判り、フィオレンティーナは対応に困ったようだった。
「取り敢えず、貴女の噂が広がってしまうのも困りますし、記憶を消して森の外に送り返しておきましょう」
失神させるだけのことだったとはいえ、エルピスでさえ目にも止まらない速さで放たれた魔法を受けた彼が、後でどう騒ぐか分からない。厄介ごとは少ない方がいいと、定着しきる前の男の記憶を消したエルピスは、フィオレンティーナが気を失ったままの男を転送魔法で移動させるのを待って、口を開いた。
「僕の時は魔法を使いませんでしたよね」
意味を測りかねて振り向いた彼女の、淡い桃色のリボンが揺れた。
「僕が貴女に初めて会った時も、今のような感じでしたが、貴女は僕を気絶させませんでしたよね」
状況としては同じだ。彼女の速さでは、例え何の魔法が来るか気付いたとしても、とてもじゃないが避けられない。ああして失神していたのは、エルピスも同じだったかもしれないのに、あの時、フィオレンティーナは全く違った行動を取った。
「それは……――名前、呼ばれたから……」
口篭った後、彼女は言い難そうに呟いた。
「名前、ですか?」
エルピスが繰り返すと、フィオレンティーナは頷いて、あの時の状況を語って聞かせた。
呑気に考え込んでいるエルピスに、彼女は慌てて言う。
「そんなことより、もう会わない方がいいんじゃないかしら」
フィオレンティーナにしてみれば気が進まないが、こうして会うのにはそれなりのリスクが付いて回るということに改めて気付かされ、そう提案した。
「なぜですか?」
それなのに、エルピスは不思議そうな顔をして訊き返すのだ。
「だって、また同じように誰かが迷い込んで来るかもしれないじゃない」
「ああ、そんなことですか」
深刻な表情のフィオレンティーナとは対照的に、エルピスはおどけたように言う。
「また記憶を消して送り返せばいいじゃないですか」
さも簡単なことのように言うエルピスがおかしくて、フィオレンティーナは小さく吹き出した。
◇ ◇ ◇
新年を翌月に控えた頃になると、湖の周囲にある森の広葉樹も全て落葉し、閑散とした気配がより一層感じられるようになった。
フィオレンティーナがエルピスから貰った勿忘草も、すっかりドライフラワーとなって、彼女の机の引き出しに、大切に仕舞い込まれている。自室でその花を見つめながら、フィオレンティーナは足元に差し込み始めた月光を意識した。確か、今宵は満月だ。初めて彼と出逢った時と同じ。でも、あの時とは確かに自分は変わっている。
勿忘草を持ったまま、フィオレンティーナはゆっくりと窓辺に近付く。この窓も、初めは厚い遮光カーテンで覆われ、昼間でも薄暗い部屋だった。そんな風に思い出しながら、彼女はもう一方の手を取っ手にかける。
―――キィ……
軋んだ音を立てて、初めてこの部屋の窓が開けられた。そして、そのまま狭いベランダへと、一歩踏み出す。寒さを増した夜気を感じながら、フィオレンティーナは、思い切って足元を見ていた視線を、天頂へと向けた。
――満月
冴えた夜空に浮かんだ月が、じっとこちらを観ていた。
――こんなに、綺麗だったかしら……。
何年ぶりに、こうして空にある月を見ただろう。何も解らないまま故郷を出て、けれども、あの月が全ての原因であることをぼんやりと感じながら、ここまで来てしまった。もう絶対に、直接見ないと決めたはずの月。しかし今、その誓いを破って月を眺める自分は、驚くほど落ち着いていた。
しばらくそうしていたが、ふと彼女は手元の勿忘草に視線を戻す。可憐な蒼い花は、時を経てもなお、色褪せてはいない。
――エルピス……。
声には出さずに、彼の名前を呼ぶ。もう、気付かないわけにはいかなかった。
――好きになって、ごめんなさい……。
凍てついた夜風が、勿忘草を小さく揺らせていった。
◇ ◇ ◇
その夜も、草まで枯れた湖畔で横になり、エルピスを待っていた。
「こんばんは」
しばらくして現れた彼は、いつも通りの穏やかな挨拶をくれる。魔力封じに重くなった手足を動かして、フィオレンティーナは起き上がった。
「ええ、こんばんは。久しぶりね」
数日ぶりに逢う彼に、普段と変わらない自然な挨拶を返せたと思う。大丈夫。このまま、何も無かったことにすればいい。そう自分に言い聞かせていると、エルピスは彼女の隣に腰を下ろしながら言う。
「遅れてしまって、すみません」
別に、いつも会う約束をしているわけではない。だから、彼が謝ることは何も無いのだが、フィオレンティーナが先にいると、エルピスは決まってそう言うのだ。
「休んでいたから、平気よ」
彼女がそう言って微笑むと、エルピスも安心したような顔になる。そんな会話を楽しみたくて、フィオレンティーナはいつもそう言ってしまう。
「僕からの提案なのですが、今日は湖畔を歩きませんか?」
フィオレンティーナを見ていたエルピスは、唐突にそう言った。
「ええ、いいけど……何でなの?」
立ち上がるのに手を貸してもらいながら、フィオレンティーナは訊いた。
「今日は一段と冷えていますから、動いていないと寒さが身に凍みますよ」
それに、と歩き出しながらエルピスは続ける。
「こんな寒い日に外へ出る物好きは少ないと思いまして」
だから、歩いても誰にも見付からないで済みますよ、とエルピスは悪戯っぽい表情で言った。
かさかさと、枯れた草や落ち葉を踏みしめながら、二人は湖畔を歩く。交わされる会話はいつもの他愛の無いもので、そうしながらフィオレンティーナは、この時間がずっと続くことを祈った。
「すっかり雰囲気が変わったのね」
湖畔を見渡しながら、フィオレンティーナは半歩先を行くエルピスに言う。
「今は何も無いですが、春は森の南側一体が薄桃色の花で溢れて、見事なのですよ」
「じゃあ、楽しみに待っていなくちゃね」
微笑みながら言うフィオレンティーナを見て、エルピスはふと立ち止まる。その場所に覚えのあった彼女は、懐かしむように目を細めた。
「私が最初に月を見ていた場所ね。四ヶ月も経つと、随分雰囲気が変わるわね」
「ええ。ところで、今日は貴女にお話したいことがあるのです」
唐突に、エルピスはそう切り出した。
「……何かあったの?」
何があったのかと、少し心配した様子を見せるフィオレンティーナに、彼は告げる。
「僕は、貴女のことが好きです」
「……」
刹那、フィオレンティーナは、何を言われたのかを理解できなかった。自分の耳を疑い、確かめるようにエルピスの瞳を覗き込む。穏やかな表情のままのエルピスを見て、彼の言った言葉が心に沁み込んでくると、今度は酷く動揺した。
今、エルピスは確かに好きと言っただろうか。自分はどうすればいいのだろう。返事はずっと前から自分の中にあるのに、それを伝えるのはしてはいけないことだ。
―――ひゅう……
湖面を渡り、凍てついた風が通り抜けた。
エルピスは、フィオレンティーナの返事を待つように、優しく微笑んだまま佇んでいる。
「……あ、あの……――っ!?」
しばらくして、そう口を開きかけたフィオレンティーナだったが、急に目を見開いて、自分の背後を――王城のある方向を振り返った。そのただならぬ様子に、エルピスは訊く。
「どうしました?」
再びエルピスの方を向いたフィオレンティーナは、焦りの中に恐怖と困惑の入り混じった表情をしていた。
「お、王様が、アレーズ様が……私の部屋に――」
近付いているの。
そう告げられ、エルピスは面食らう。フィオレンティーナは、こうして夜に出掛けていることを話していない、と言っていた。この程度のことは別に報告するようなことでもないが、こんな時間に訪ねて来ると言うことは、何か緊急事態でもあったのだろうか。どちらにしろ、王城にいないことが明るみになれば、彼女は肩身の狭い思いをすることになるだろう。
急いでそう判断すると、まだ動揺している彼女を促すように言う。
「それなら、今すぐに戻った方がいいですよ」
弱味は作らない方がいい。そうエルピスに言われて、少し冷静さを取り戻したフィオレンティーナは、頷くとすぐに移動魔法を発動し始めた。
「僕のことは気にしないで下さい」
申し訳なさそうにこちらを見たフィオレンティーナにそう言っている間に、彼女の姿は跡形も無く消え失せる。
大分傾いた満月を見ながら、エルピスは小さく溜め息を吐いた。
「――はい」
部屋に帰るなり響いたノックの音に、フィオレンティーナは返事を返す。扉を開ける前に、咄嗟に髪に結んであったエルピスに貰ったリボンを外し、引き出しに仕舞い込んだ。
「御用件は?」
扉を開け、久々に顔を見たこの国の国王は、つい先程まで誰かと飲んでいたようで、アルコールの臭いが鼻に衝いた。
「敵国の奴らが動き出したようでのぉ。お主にはまた力を貸してもらうことになりそうじゃ」
つまり、戦を前にしてフィオレンティーナの機嫌を窺いに来たらしい。非常識な時間ではあったが、アルコールが入っているのならそれは単なる気紛れで、深い意味はなさそうだ。
「承りました。具体的な事柄が決まりましたら、お知らせ下さい」
酔っている権力者の話し相手などしたくない。そう思い、一礼して部屋に戻ろうとしたのだが……。
「お主、婿を取る気はないかの」
唐突に、その王は言った。
「……それはどのような――」
意味でしょうか、という問いかけは出来なかった。
「エルピス=エンハンブレという者と仲が良いと小耳に挟んだのじゃ」
――――っ!?
冷水を浴びせられた気分だった。
なぜ、この人が知っているのだろう。いや、考えても無駄なことだ。
表面には出さずに、フィオレンティーナが動揺しながら考えを巡らせるうちに、国王は一人で話を進めていく。要は、彼との結婚を認めてやるから、この国に忠誠を誓え、と言いたいらしい。その傲慢な言葉を聞かされるほど、フィオレンティーナの心は冷めていき、目は据わっていった。
――この人は何を言っているのだろう。
そう思いながら口を開くと、自分でも驚くくらいの、凍てついた声が出た。
「――――それは、誰なのですか?」
フィオレンティーナの変化を覚ってか、国王は言葉を詰まらせる。
「……何を仰っているのです? そのような方は存じ上げません。どなたからお聞きになったか存じ上げませんが、家臣のくだらない進言に一々振り回されていては、この国が保ちませんよ?」
不遜なくらいに一気に捲し立てると、国王は引きつった顔で帰りを告げる。
「そ、そうじゃのぉ。では、宜しく頼むぞ」
戻っていくその姿を、フィオレンティーナは完全に感情の欠落した表情で眺めていた。
部屋に戻ったフィオレンティーナは、うつ伏せでベッドに倒れ込んだまま、長い間動かなかった。
疲れた。体に力が入らない。たった数分のことなのに、国王との会話で酷く消耗していた。
もう、何も考えたくない。しかし……。
――さようなら。
エルピスとはもう逢わない。それだけは決めていた。
心の中でそう呟くと、涙が頬を伝い落ちていく。鬱陶しくて拭っても、瞳から溢れ出る熱い液体は止まる気配を見せない。
――さよなら。
そう何度も呟きながら、フィオレンティーナは明け方まで独りで泣き続けた。
◇ ◇ ◇
その後、セレネアはすぐにアトロセノとの戦争を開始した。同時に、大陸に乱立する小国が、世界で広く信仰されている宗教の、神派・女神の対立から次々と争い出し、世界は大規模な宗教戦争の時代へと突入していった。
新年もとうに過ぎ、春の気配が感じられるようになった頃、その最前線ともいえるチェルイロという地域に、エルピスの属する部隊が派遣されると聞いた。フィオレンティーナは、あれから一度も彼と会っていない。もちろん心配はしたが、彼女にはそれだけの発言権はなかったし、庇おうとすれば、彼女を取り巻く政治的思惑に彼を巻き込むことになってしまう。
この報告を聞いたのはいつのことだったろうか。
そんなことを考えながら、時間の感覚すら失いつつあるフィオレンティーナは疲れ切った体でベッドに倒れ込んだ。最近、精神的な疲れだけでなく、体にも疲労が溜まるようになった気がする。以前は、不眠不休のまま何日働き続けても何とも無かったというのに。
薄れゆく意識の中で、明朝に出発するエルピスのことを考えていた所為だろうか。遠くで、彼の声が聞こえたような気がする。これは……夢?
――明日、僕は出発します。
すっかり準備を整えたエルピスが、いつものように穏やかな表情で彼女を見ていた。
――くれぐれも、無理はしないで下さいね。
それはこっちの科白よ。そう言うと、彼は笑って、それから少しだけ真面目な顔になって言う。
「フィオレンティーナ。今度、勿忘草を持って帰ってきます。そうしたら、僕に返事を聞かせて下さい」
これは、本当に夢なのだろうか。
そう思った瞬間、意識は現実に戻っていた。
―――かさっ……
微かに、外で遠ざかっていくような足音が聞こえる。慌ててベランダに出て見回すが、見たところ誰も居ない。足音も空耳と思える程だった。しかし、薄闇に目を凝らすと、エルピスの綺麗な銀髪が見えたような気がした。
王城の裏手にある部屋とは言え、見回りの兵士は定期的にやってくる。危険だと承知で来てくれたのだろう。
気が付かなかった自分を恨みつつ、逢わずにいたままでよかったのだという気持ちも浮かんできて、フィオレンティーナの心は乱れる。
「無事に、帰ってきて。エルピス……」
もう限界だった。この戦争が終わったら、全てを話して逃げてしまいたい。この気持ちを伝える資格が、自分にもあると信じてみたい。だから、どうか無事で――数時間後に昇る太陽に祈りながら、フィオレンティーナは白くなるほどに手を握りしめた。
その様子を、新月が近付いて薄くなった月が、じっと観ていた。
◇ ◇ ◇
エルピスが出発してから、春が過ぎ、夏が過ぎ、半年の月日が流れた。戦況は一進一退で、両国とも疲労の色が見え始めている。
その日、ついに業を煮やした国王は、自分がその罪を半分背負うのを承知で、フィオレンティーナの魔力を使い、敵国中枢の抹殺を決める。そうして呼び出された彼女は、国王や大臣たちの詰めている部屋にいた。
戦地から次々と入ってくる情報を頭から完全に遮断し、部屋の中央に画いた魔法陣の中で、霊視を行う。五分と経たないうちに、彼女の意識は目的の場所にいた。
――対象発見……
そう呟くが、相手には聞こえていないし、こちらの存在も認識していないだろう。そのまま更に、身に迫る危険に気付いていない相手の体内――心臓に意識を集中させる。慣れ切った手順で、ほんのわずか血流を滞らせると、その人物はとたんに胸を押さえてその場に昏倒した。
――……。
すぐに次の人物を探していく。そうして、その動作を繰り返しているフィオレンティーナは、もう何も感じていない自分に気付いて内心で苦いが込み上げてきた。
程なくして、命じられた暗殺を完了させた彼女が、今日もこのまま過ぎていくのかと考えながら、意識を自国にある自身の体に戻そうとしかけた時、突然、霊視中の視界に別の映像が乱入してきた。
――っ!?
すぐに元の景色に戻ったが、今、一瞬だけ見えたのは、彼ではなかっただろうか。
嫌な予感を振り払うように頭を振ったが、再び視界が切り替わる。
「――最前線に敵国の援軍が到着、自軍壊滅も時間の問題――」
戻ってきた聴覚にそんな報告を聞きながら、フィオレンティーナは目の前で展開されていく映像に、動けなくなっていた。
昨日まで、相手とこちらの戦力は同等だった。いや、むしろ、優秀な魔法使いや魔法剣士たちが多く所属しているセレネア側が有利だったと言ってもいい。
しかし、今朝方早く、アトロセノの援軍が到着し、多くの者が仮眠を取っているところを、いきなり仕掛けられた。対応が大きく遅れたために犠牲も多く、遠目にも人数の差が痛い程判る。その上、こちらは長期に及んだ戦争で、皆が疲れ切っていた。
――勝ち目はない。
そう解ったが、援軍が望めない以上、最早とるべき行動は一つだった。
そして、至る現在。当然の如く、セレネア側は壊滅寸前の状態だった。そんな中、エルピスは黙々と剣を振るう。そろそろ戦況が国に伝わり、彼女が動き出す頃だ。それまでに、少しでも状態を改善しておきたかった。
昨日手入れをした剣に、雷の魔力を帯びさせる。もう何人斬ったかなど覚えてはいなかったが、切れ味の落ち方をみると、そろそろ剣を取り替えた方がいい。そんなことを考えながら、向かってきた敵国の兵士を、首を狙って斬り付ける。自分は大抵の兵士と比べて若干腕力が劣っていることを解っていたから、刃が皮膚に触れた瞬間、致命的なダメージを与えるために、神経系に沿って電流を流す。
そうして絶命させた兵士の剣を奪ったが、立ち上がる時に軽い眩暈を起こした。そう言えば、昨日の晩の食事以来、水分すら満足に摂っていなかった。厳しい訓練に日々耐えていることもあり体力には自信があったが、こんなに酷い現場は初めてだ。
今度こそ駄目かもしれない、なんて弱気な思考が掠める。いや、こんなことではいけない。――帰ると、約束したのだから。そう自戒し、再びエルピスは歩き出した。
更に半時。いたる所に兵士の屍が累々と積み重なっている。それも、自軍の見慣れた服を着た数の方が多いような気さえする。それは単なる気のせいではないはずだ。
木々の生い茂った細い小道を数人の仲間と進みながら、エルピスはいつどこから現れるともわからない敵兵に神経を集中させていた。
先程から、一向に誰とも出会わない。もしかしたら、他の部隊は全滅したのではないだろうか。そんな最悪の予想も浮かんでしまう程、おかしいくらいに静まりかえっているのだ。
そして、その予想は当たっていた。
ずっと続いていた小道が途切れ、向こうに広場が見えた。警戒しつつ、誰も居ないことを確認してから進み出た……はずだった。
―――ヒュッ!
突然飛来した矢が、エルピスのすぐ隣にいた兵士に命中する。一瞬にして絶命したその兵士が崩れ落ちるその前に、聞こえてきたのは大勢の敵兵達の声だった。
周囲を完全に囲まれて、少ない仲間達と戦ったが、圧倒的な数の差には敵わない。一人、また一人と、隣で戦っていたはずの仲間が姿を消す。
終にはたった一人になり、エルピスは追い詰められた。死は、目前に迫っている。なのに、妙に落ち着いていられたのは、相手が普通の兵士達だったからかもしれない。自分には、彼女ほどではないが、魔力が備わっている。この力を解放すれば、万が一にも逃げられるかもしれない。そんな考えがあった。もちろん、そんなことをすれば自分の命まで失う可能性も十分にある。しかし、その時は大丈夫な気がしたのだ。
剣を構えて、意識を集中させようとした。しかし……。
――え……?
真っ直ぐ立っているはずの視界がブレている。無茶をさせ過ぎた身体が悲鳴を上げ、バランスを崩したのだと気付くまでには数瞬の時間を要した。
慌てて体勢を立て直すが、相手がその隙を見逃すはずも無い。敵兵は目の前に迫っていた。
魔法は発動した。雷が炸裂し、周囲にいた人間に致命的なダメージを与える。しかし同時に、身体に鈍い衝撃を受けていた。
腹部の辺りから、生ぬるい液体が流れ出している。見れば、剣が身体を貫通していた。全身から力が抜けていく。傾いでいく身体を立て直すことも出来ずに、地面に倒れた。手足の先から感覚が無くなって行く。
――ごめんなさい……僕は、貴女との約束を守れませんでした……
急速に意識が遠退いていく中、最期の瞬間に、エルピスは自国で自分を待っているであろう、フィオレンティーナを想っていた。
「――何だと!?」
珍しく取り乱した様子の大臣の声と共に、フィオレンティーナの感覚は現実へと引き戻された。
他の大臣が、どういうことだ、と知らせを伝えた人物に詰め寄り、起きたことを把握しようと頭を抱えている。
「……」
手足が酷く冷たかった。
――嘘、でしょう……?
閉じていた瞼を静かに開け、床を凝視したままの彼女の瞳が揺れる。
「……まあ落ち着け」
大臣の一人が、動揺を隠しきれていない皆を宥めるように言った。
―エルピス、が……?
「敵国の首脳部は魔術師殿が始末した、そうですよね、アレーズ様」
確かめるような臣下からの視線を受け、国王は肯く。
「ああ、そうじゃ。現にこうして、働いておるからの」
視線を移した国王を追い、皆がフィオレンティーナを見る。
――約束……したのに……
彼女は、皆の意識が自分に向いたことにすら、気付けないでいた。
「どうじゃ、終わったのかね?」
彼女が目を開けていることに気付いた国王が、静かに訊いた。
「……」
フィオレンティーナは答えない。聞こえてすらいなかった。
――嘘……嘘よ。
「……どうしたのじゃ。何か問題があったのかね?」
言いながら、国王は彼女に歩み寄る。
――ねえ、嘘だと言って……!!
誰かが、無遠慮に彼女の魔法陣の中に入ってくるのが見えた。注意しなければ。そう思うのに、心の叫びは止まらない。
――エルピス……っ!!
と、その時。彼女の肩に手が置かれた。
「――っ!!」
突然のことに驚いて顔を上げたフィオレンティーナと、国王の視線がぶつかる。王も少し目を見開いたが、彼女ほどに動揺はしていないようだった。
「どうし――」
言いかけた国王の、言葉が止まる。一瞬の後、酷くゆっくりとその身体が傾いでいったかと思うと、どさり、と重い音を立てて床に倒れ込んだ。
「――アレーズ様!?」
成り行きをじっと見守っていた大臣の一人が、その音に我に返って叫んだ。そして、ずかずかと彼女の魔法陣の中に踏み込んでくると、国王の容態を確認しようと跪く。
「アレーズ様……アレーズ様!? どうなさったのですか!?」
フィオレンティーナは、ただ空中に視線を彷徨わせる。
国王を診ていた大臣が顔を上げ、静かに首を横に振った。皆がどよめきを漏らす。
――また……
「……――貴様、一体何を――」
そう叫んで向かってくる大臣を見ながら、フィオレンティーナの意識は徐々に薄れていく。制御を失った身の内の膨大な魔力が、自分の手を離れて暴走を始めるのが分かる。
猛烈な風を感じたのを最後に、そこで彼女の記憶は途切れた。
◇ ◇ ◇
「コリオルム様、例の報告書が届きました」
そう言った部下から手渡された書類に、クレスツェント王国の宰相、コリオルムは素早く目を通す。それに記載されているのは、数日前に立て続けに起きた事件についての調査報告だった。
「お前は、これが偶然だと思うか?」
控えていた部下に、意見を求める。突然の問いかけに、数瞬考え込んだその部下は、コリオルムと同じ見解を述べる。
「……単なる偶然と言ってしまえばそれまででしょうが、敵対していた二国が僅か数日で滅ぶなど、誰かの意図が働いていたとしか考えられません」
そうだろうな、とコリオルムは呟く。一礼して退室していく部下を見ながら、彼は深く嘆息した。
その報告書は、こんな記述から始まる。
――聖暦三七一八年春、アトロセノ共和国は、長年敵対していたセレネア王国との戦争を開始した。
実力は王国が圧倒的に勝っていた。共和国の独裁者が始めた無謀とも言える戦争。ひと月とかからずに終結すると思われた争いだったが、意外にも共和国側がなかなか引き下がらなかっため、最近は両者ともに疲弊したまま、戦況は泥沼に突入しようとしていた。
次第に明らかになっていく力の差。このまま、王国が勝つように思われたが、その争いの最前線とも言えるチェルイロ地域に、共和国側の援軍が現われたことにより、王国軍は壊滅。戦局は逆転する。
奇跡的な勝利を収めた共和国は、しかし、僅か数日の内に滅びることとなった。王国・共和国の両国で、突如として謎の伝染病が蔓延し、大勢の犠牲者を出したのだ。それと同時に起きた前触れのない大嵐のせいで、建物なども甚大な被害を被った。
また、両国の首脳部が、その事件以前に一人残らず死亡していた、との報告もある。
――セレネア王国の魔術師の行方も判明していない。
そう、報告書は締め括っていた。
街道を進む馬車の外を、コリオルムは見遣る。まだ夏の終わりだというのに、辺りは薄っすらと雪を被っていた。この異常気象は、チェルイロ地域周辺でのみ起きており、発生した時期も両国が滅んだ時期と一致している。
――どうやら間違いなさそうだな。
そう確信しながら、彼は、探している魔術師をどう手中に収めようかと、策を巡らせていた。
セレネアの魔術師、フィオレンティーナ=オルニティア。その人物こそ、彼が共和国の指導者を唆して王国に仕掛けさせ、両国を相打ちにさせてまで欲した力を持つ者だった。
「チェルイロに到着いたしました」
馬車が止まり、そう声がかかる。地面に降り立ち見ると、そこにあったのは奇妙な眺めだった。雪の切片の舞う、足跡一つ無い光景の中に、不自然にできた幾つもの小山がある。よく見てみれば、それは死んで放置されたままの人間が、雪を被った姿だった。
「アトロセノ側の本陣はどこにある」
一瞥したコリオルムが同行した男に問うと、我に返った様子の男は、慌てて歩き出した。男は、共和国と親交のあった小国の役人だ。コリオルムに続いて、数人の部下も付いて来る。
「こ、こちらです。現在は復旧作業を行っているはずなのですが……」
そう言う男は困惑した表情で、手元の書類を何度も見返していた。報告と実際の現場との情報が食い違っていたのだろう。しかし、アトロセノの本国が滅び、親交のあった近隣の小国の援助を受けながら作業を進めなければいけない共和国軍と、小国側との連絡が、そうスムーズに出来ているとは到底思えない。恐らくは、面倒になった共和国軍は、逃げるか何かしたのだろう。
そう推測しながらも、コリオルムは首を傾げていた。何かがおかしい。敵はともかく、普通、共に戦ってきた仲間の遺体を、そのまま放置しておくものだろうか。
少し歩くと、僅かに高くなった場所に設営された、テントが見えてきた。
――何か、在ったな。
近付き、役人が入り口を覆う幕に手をかけようとした時、コリオルムの推測は確信に変わる。案の定、中を見た男が、信じられないものと遭遇したように、目を見開いて動かなくなった。
コリオルムは、男を押し退けて中に入る。
「……」
予想通りの光景に、驚きこそしなかったものの、今度はその後の対策に頭を巡らせることとなった。
誰も居ないだろうと役人が思っていたその場所には、しかし、確かに人は居た。……もう、生きてはいなかったが。
ざっと見渡しただけでも十人近い人間――コリオルムにも見覚えのある、共和国の国防大臣をはじめとした面々が、一面の血の海に沈んでいた。皆が、首の、しかも頚動脈を、かなり鋭利な刃物で的確に切り裂かれている。噎せ返るような血の臭気に思考を邪魔されながらもよく観察すれば、先程外で見た兵士のものよりも、この部屋の血液はずっと新しい。つまり、争いが終結した後に、自分たちより先に「誰か」がこの場所に来たということだ。
「一体……何が……」
男と部下たちには、その「誰か」が分からずにただ呆然とするしかないようだが、コリオルムは大方の予想がついていた。テントの奥のほうから来る風を感じ、裏へ回り込む。既に乾いているとはいえ、血の海に足を踏み入れようとは思えなかった。
「コリオルム様?」
未だ事態を飲み込めていない役人を残して、部下たちが付いて来る。よく彼の無茶に付き合わされているだけあり、順応能力が高いようだ。そんな部下たちには何も言わず、コリオルムは立ち止まり、残された跡を見遣る。
「これは……」
気付いた一人がそう漏らす。そこには、降りゆく雪ですら隠せなかった血痕が、点々と森の方へ続いていた。
すぐに、コリオルムは痕を辿って行く。この先に、確かに彼女はいる。
「……危険ではないですか?」
臆病者はここで待っていろ。彼が短くそう告げると、部下たちは黙って付いて来た。
両側を木々に挟まれた小道を行くと、間もなくして、前方に開けた場所が見えた。その広場だけ、不自然に積雪がない。いや、それだけではなかった。剥き出しの地面の色が、嫌にドス黒い――それは血だった。血液を吸った大地が、全ての光を吸収している。その血と周囲の雪が対比して、広場を異様に浮き立たせていた。
雪に覆われていないだけに、そこかしこに転がった死体が、生々しい様子を晒している空間。その中央に佇むのは――。
――時が止まったかのように動かない、虚ろな瞳の少女だった。
「――!?」
背後の部下が、息を呑む。無理もない。彼女は全身に返り血を浴び、それが不気味に赤黒く変色し、元の色も判らないような服を着ていて、その細い手に持つ剣もまた、彼女以上に血を吸っていたのだから。
亜麻色の髪に、いつも黒に近い暗灰色の衣服を身に着けた、碧緑の瞳の少女。滅多に自室から出ないらしい少女に、いつもはどんな機密情報でも探り出してくる密偵が、わずかに伝えてきた報告。聞いていた姿と少女が、同一人物だとは誰も思わないだろう。コリオルムが辛うじて彼女だと判断した瞳でさえ、今は暗く濁っていた。
何かが見えているのかさえ判断しかねる彼女の視線を辿れば、その先には剣で深々と刺されて既に息絶えた、銀髪の青年の姿がある。
ゆっくりと、コリオルムは足を踏み出した。気付いた部下が、転がる邪魔な死体たちを退かしていく。そして、少女が凝視している青年に、手をかけた。その時だった。
―――ひゅっ
風を切る音がして、少女が、青年に向けた視線を逸らさないままに、血に濡れた剣を持つ右手を振り上げた。
「……」
その部下は、何が起きたのか解らない様子で、虚ろな瞳の少女を仰視する。しかし、それも一瞬のことで、一拍の後に、首筋から大量の鮮血を噴き出して地面に傾倒した。
「――っ!?」
何が起きたかを理解した部下たちが、後退る。
少女は、新たに衣服を染め上げていく血を気にする様子もなく、銀髪の青年を凝視し続けていた。
――そうか、この青年が……
酷く冷静に成り行きを傍観していたコリオルムは、青年が誰なのかについて考えていた。
少女についての数少ない報告の中に、セレネアの国王が彼女との婚姻を持ち出した者がある。エルピス=エンハンブレというその青年は、軍の優秀な魔法剣士で、当然この地にも駆り出されていた。内心は酷く動揺した様子で、冷たく王を一蹴していた彼女が、唯一心を開いていた者だと思われる、との報告だったが、どうやらこの銀髪の青年がその人物らしい。
「――そなたが、亡国セレネアの魔術師、フィオレンティーナ=オルニティアか」
我に返って彼を庇おうとした部下を手で制し、コリオルムは静かに言った。
「……」
少女が答える様子はない。聞こえているかすら怪しいが、彼は更に続ける。
「私は、王国クレスツェントの宰相、コリオルム=イーンシーグニス。そなた、クレスツェントに来る気はないか」
「……」
少女の表情は動かない。それを確認し、彼は落ち着いた声音で付け加える。
「そうすれば、彼はこちらで鄭重に埋葬しよう」
少女が微かに身動ぎした、ように見えた。そして彼は、再度言う。
「どうだ。我が国に来ないか」
その言葉もすぐに静寂に呑み込まれる。彼は、少女の返事を辛抱強く待った。
―――かたっ……
長い長い空白の後、振り上げたままになっていた少女の右手が、静かに下ろされた。元は曇り一つ無い鈍色であっただろう細剣が、力の抜けた彼女の手の平をすり抜けて、地面に投げ出される。
「――お連れしろ」
呆然と佇む部下に短く命じ、コリオルムは緩慢な動作で来た道を歩き出す。
「こ、コリオルム様!?」
何が起きたのか把握しきれていない部下が、確認するように彼を呼んだが、コリオルムは答えなかった。
魔術師だという少女が、その魔力を行使しないか不安に思いながらも、仕方なくその部下は青年に近付くが、彼女が動く気配はない。彼がもう一人の同僚と青年を担ぎ上げるのを見ると、少女はふらふらとした足取りで、先に宰相が立ち去った道へと歩き出した。少女をどのようにして連れて行こうかと悩んでいた彼らは、安堵の溜め息を漏らし、命じられた通りに青年を連れて行く。
彼らが去った広場には、ひらひらとした季節外れの雪片が、舞い降り始めていた。
◇ ◇ ◇
その後も、宗教戦争はありとあらゆるものを巻き込みながら数十年続いた。多くの血が流れ、多くの国が生まれては滅んでいく。世界は、依然として混乱に満ちていた。
―――きぃ……
低く音を立てて扉が開くと、薄暗い部屋の中に、漆黒の衣装を身に纏った少女が入って来た。少女の顔には、感情というものは見当たらない。ただ無表情にベッドに座り込むと、そのまましばらく微動もしない。僅かに疲労の色が伺えるが、それも身体が実感しているだけで、本人は恐らく気付いていないのだろう。もう、いつからそうだったのかさえ覚えていない程前から、少女はそのようにして、日々を送っている。
しかしこの日、何の偶然か、少女は何十年ぶりかに外界へと意識を向けた。
少女が視線を上げると、薄暗い月光に照らされて、机の上に何かが飾ってあるのに気が付いた。恐らく花だろう。そう言えば、最近入ったばかりの侍女が、お節介にも、時々花を生けていたような気がする。
一体、今日は何の花を採ってきたのだろう。何となく興味が湧いて、少女は立ち上がると傍まで行ってみた。
その花は、薄闇の中で月光を浴び、小さくても存在感のある、蒼くて可憐な―――
――――勿忘草。
「―――っ!!」
少女――フィオレンティーナは、息を呑む。
忘れはしない――忘れることなどできない、あの花――彼が最後にくれた花が、確かにそこに在った。
「エ……ル……ピ、ス……?」
無意識に、愛しい人の名前を呟いていた。
同時に、忌々しい記憶が、信じたくない記憶が、忘れてしまいたかった記憶が、次々と甦ってくる。
叫び声。悲鳴。視界に割り込む断片。
――エルピスが……
彼は刺されて、私も刺した。噎せ返るような血の臭い。
――どうして……?
折り重なる屍の山。立ち昇る黒煙――ここは戦場?
――帰ってくると言ったのに……
吹き荒ぶ風。断末魔。耳に残って離れない。
――エルピス……ッ!!
目の前には彼が、彼が眠るように倒れていて――彼は、死んでしまったの?
――いいえ。私が……私が、殺した。
他の誰でもない。自分が、彼を殺してしまった。まだ未来があった彼を、自分が……。
「―――っ!!」
熱い。体の奥底から何かが溢れ出てくるようで、心が張り裂けてしまいそうなくらい、痛い。そして何より、自分が、許せない―――……
次の瞬間。フィオレンティーナは、忽然と部屋から姿を消していた。
どこをどう歩いたのかも分からない。今が一体いつなのかさえも分からない。
――なぜ、私はここに居るのだろう。
見たこともない樹海の中を、フィオレンティーナは彷徨っていた。体中の感覚がどこかへ消え失せ、いくら歩いても疲れを感じない。目的も忘れ、ただ大き過ぎる喪失感だけを持ったまま、どこへ行くともなく進んでいる。
そうして、どれだけの時間が流れたのだろうか。ある日、彼女の目の前に巨大な樹が現れた。
――懐かしい……
その樹に吸い寄せられるように近付くと、フィオレンティーナは目を閉じて幹に耳を押し当てた。微かに、水の流れる音がする。
その心地よい音を聴きながら、彼女は自分の身体に、もう力が全く入らないことに気付いていた。ゆっくりと傾いでいくことは分かっても、何もできない。その太い幹に身体を預け、意識が闇に沈んでもなお、フィオレンティーナは音を聴き続けていた。
それから何十年、いや、何百年が過ぎただろう。
世界を巻き込んだ宗教戦争も、ひとまずは落ち着き、神派と女神派のそれぞれが、大陸を南北に流れる河を境に住み分けるという形で、取り敢えずの平和が訪れた。
もう誰も、「彼女」のことを覚えている人は居らず、またどこの記録にも「彼女」のことは一切残されていない。混沌を抜け出してようやく発展しつつある世界で、「彼女」は完全に忘れ去られた過去の人物となっていた。
そんな世界に、神派・女神派のどちらにも属していない土地がある。鬱蒼とした木々に覆われ、年中霧が立ち込めているその場所は、人の立ち入りを許さず、聖地と呼ばれるようになった。
創造神の降臨りた聖地。
そんな雰囲気から、いつしかこう呼ばれるようになったのだが、事実は違う。「彼女」が最期に彷徨い歩いた場所が、まさに聖地だった。不気味に密生する木々も、深い霧も、全ては「彼女」の魔力の欠片が魅せる幻影にすぎない。「彼女」にとっての「死」とも呼べる瞬間から今まで、時が止まったように切り離された土地、それが「聖地」だった。
◇ ◇ ◇
ある時、女神様が聖地に降り立ちました。日差しの一切届かない森の中で、鮮やかなその姿は、太陽が本当に降り注いでいるかのようでした。
密林の中とは思えないような足取りで、女神様は中央にある一番長く生きている樹を目指して歩きます。
少しして、女神様は樹まで辿り着き、その根元に、壊れかけた魂を見つけました。魔力のほとんどを失い、精神も切れ切れになったその魂を、女神様はそっと救い上げます。そして、その姿が次第に薄れはじめ、女神様は天へと還って行きました。
後に残されたのは、世界で最も長く生きる樹の枝ではためく、色褪せた薄桃色のリボンと、燦々と降り注ぐ太陽の光だけでした。
―fin―
長い物語をここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「月色の水晶」は、設定を二人で考え、現在友人が執筆中の物語の主人公の前世を書いたものです。そちらは公開未定となっていますが、プロットがまとまり時間があれば、別バージョンとして執筆を開始するかもしれません。
さて、国名や人物名がたくさん出てきて少々わかりにくかったと思います。特に宗教のあたりの説明がくどくなったわりにはっきりしていなかったのではないでしょうか。
そこで、補足のようなものを少し書きたいと思います。
物語の世界は、プロローグにあるように、月の神様が創りました。太陽の女神は娘のような立場にいます。
この神様たちを信仰の対象としているのがこの世界の宗教で、その他の宗教はありません。
基本的な考え方(道徳心や倫理など)は共通していますが、生をつかさどる女神を信仰する陽光派が「生きている時の幸福を願う」という理念を持っているのに対して、死をつかさどる月の神様を信仰する月光派は「死後の幸せを願う」という理念を持っています。
フィオレンティーナの来世の時代には両者の住み分けがなされていますが、この時代は互いに違いを意識し、両派が争い始めた、日本で言う戦国時代のような時代です。
住み分け後はそれぞれの経済活動などにも違いが出てきて、格差も広がっていきます。たとえてみると、陽光派は資本主義、月光派は社会主義のような感じでしょうか。
ややこしくなってきたので、解説はこの辺りで終了させていただきます。
細かく考えすぎて、世界観だけで小説が一つ書けそうな気がします。
「月色」シリーズは、これからも同じ世界を舞台にいくつか投稿していこうと思っているので、よかったら読んでみてください。