第95話 年明けの日常
「本当にいいの?」
東雲家で朝食を摂り終え、玄関に立つ悠斗へと美羽が気遣わし気に声を掛けてきた。
美羽としては、正臣と結子が帰ってくるまでお邪魔して欲しいのだろう。
けれど、流石にそこまでお世話になる訳にはいかない。
「気にすんな。四日には父さんと母さんが帰ってくるし、数日くらい生活出来るって」
美羽がお世話してくれるのは嬉しいが、もともと一人暮らしだったのだ。
飯がコンビニ弁当にはなるものの、それくらい問題ない。
美羽が心配しないようにと笑みを向けるが、綺麗な顔は曇ったままだ。
「それなら、ご飯を作りに行くよ」
「大丈夫だって。美羽は家でゆっくりしてくれ」
「でも――」
「悠斗の家に遊びに行っても構わんぞ。悠斗も、美羽がやりたいと言っているのだから遠慮するな」
悠斗と美羽が玄関で一歩も引かない会話をしていると、らちが明かないと思ったのか丈一郎が割って入ってきた。
丈一郎が許可した事で、美羽が瞳を輝かせる。
「本当!?」
「ああ。家に居てもテレビを見るか、勉強するだけだろう? 悠斗の家の方が沢山遊べるはずだからな」
「ありがとう、おじいちゃん!」
「……まあ、それでいいなら俺は構いませんが」
美羽の部屋を見た今では、正月にやる事がないはずだという丈一郎の言い分も理解出来る。
それに丈一郎から提案した以上、悠斗に言える事はない。
美羽の料理を今日も食べられるのだから、有難いというのもある。
渋々承諾すると、顔を綻ばせた美羽が悠斗へと視線を向けた。
「じゃあ折角だし、今から――」
「まあ待て。ちょうど時間もあるのだから、今まで口頭でしか伝えられなかった他の煮物のコツも教えよう。焦って今から行く必要はあるまい?」
「そう、だけど……」
やはりというか、美羽は普段から悠斗の家に来ているせいで、あまり丈一郎から料理を教わっていないようだ。
だからこそ時間のある時に一緒に料理をしたいのだろうが、一瞬だけ悠斗を見た丈一郎の目は気遣わし気なものだった。
おそらく、悠斗の睡眠不足を心配して提案してくれたのだろう。
嬉しいような、情けないような気持ちで苦い笑みを浮かべる悠斗を、美羽が瞳を不安に揺らして見つめた。
「悠くん、大丈夫?」
「それくらい大丈夫だって。ゆっくり丈一郎さんから教わって、夕方に来てもいいからな」
「うん、分かった。それじゃあ後でね」
「ああ」
ようやく納得してくれたのか、美羽が表情を和らげて悠斗を見送る。
ホッと息を吐き出して、丈一郎へと頭を下げた。
「お邪魔しました。泊まりもご飯も、本当にありがとうございます」
「気にするな。また来い」
「はい」
暖かい家を後にし、一日ぶりに家に帰ってくる。
昨日が濃厚な一日だったせいで、随分と久しぶりに感じた。
手洗いとうがいを済ませ、パジャマへと着替えてベッドへとダイブする。
「もう、限界……」
徹夜した上に朝食をしっかり食べたせいで、東雲家のリビングに居ると寝てしまいそうだった。
悠斗の内心を見抜いて手助けしてくれた丈一郎に、内心で感謝して目を閉じる。
「……ようやく、寝れる」
散々悠斗の理性を削った、甘いミルクのような匂いが僅かに香った。
しかし今回は緊張などせず、むしろ悠斗の心を落ち着かせる。
ぐったりと体の力を抜くと、すぐに睡魔が襲ってきた。
さわさわと誰かが悠斗の髪を撫でている。
あやすような指使いは心地よく、ずっと撫でて欲しいとすら思ってしまった。
けれどそんな人などいただろうかという疑問が、悠斗を覚醒へと導く。
重い瞼を開けると、穏やかに笑んだ美しい顔が視界に入ってきた。
「おはよう、悠くん」
「……あれ、美羽? どうして?」
「どうしても何も、朝言ってたでしょ?」
ぼんやりとする頭を回転させて起き上がる。
美羽が来るのは夕方だったはずだ。いくら何でも来るのが早いのではないだろうか。
疑問に思って時間を確認すると、日が傾いている時間だった。
「マジかぁ……」
どうやら昼飯も摂らずにぐっすり寝てしまっていたらしい。
徹夜した後なのだから可能性としては有り得たが、流石に目覚ましを掛けるべきだったかと肩を落とす。
「ねえ悠くん、もしかして、あんまり寝てなかった?」
冬休みとはいえ、これまで悠斗が夕方寝ている事はなかった。
だからこそ、今の状況に疑問を覚えたのだろう。美羽が眉を下げて尋ねてきた。
(どうするかな……)
今更しっかり寝ていたと言えはしない。けれど、正直に伝えるのも気が引ける。
ただ単に徹夜したと言えば、美羽は絶対に気に病むのだから。
そうして眉を寄せながら迷ったのは、ほんの僅かな時間だった。
「美羽は悪くない、それは本当だ。……だけど、女の子の部屋で一緒に寝るなんて、ぐっすり寝れる訳ないだろ?」
「そうかな? 私も――」
どうやら、美羽は悠斗の気持ちがあまり理解出来なかったようだ。
きょとんと首を傾げ、何かを言おうとする。
けれど、しまったという風な顔をして口を噤んだ。
「どうした?」
「……何でもない。でも、悠くんが寝れなかったのは確かだよね。ごめんね?」
「謝る必要なんてないから。まあ、男ってのはそういうもんだと思ってくれ」
全員がそうとは限らない。それでも、想い人と一緒に寝る際に緊張しない方が変だと思う。
美羽が密着してきたというのも十分にありそうだが、少なくとも悠斗は全く寝れなかった。
この状況は悠斗のせいだと美羽の頭を撫でると、仕方ないなあという風に笑われた。
「悠くんがそう言うなら、もう気にしないね」
「ああ、そうしてくれ」
「それで、今からランニングに行くの?」
「今日はいいや。寝起きに動く気が起きないしな」
ぐっと背伸びをして、大きく深呼吸する。
もう一日が終わってしまうが、今日はのんびりしたい。
ベッドから降りると、なぜか美羽がむっと唇を尖らせた。
「それはいいけど、おはようだよ、悠くん」
「……おはよう、美羽」
返事をしていなかったと指摘されて気付き、遅い挨拶を返す。
気まずさで眉を下げる悠斗を、美羽がくすくすと軽やかに笑うのだった。
「にしても、正月明けも変わらないな」
年が明け、新たな一年が始まったとしても、美羽との晩飯は何も変わらない。
慣れきった二人での食事中にぽつりと零せば、美羽がくすりと小さく笑った。
「そりゃあそうだよ。何か変化がある訳じゃないからね」
「まあ、俺としてはその方が有難いけど」
東雲家で料理を食べるのも良かったが、やはり自分の家の方が落ち着く。
気の抜けた笑みを零せば、美羽もふわりと表情を和らげた。
「私も悠くんと食べるのに慣れちゃったからねぇ。こういう晩ご飯が一番だよ」
どうやら美羽も同じ気持ちのようだ。
今更ではあるが、他人である悠斗の家でも寛げているのを嬉しく思う。
「まあ、なんだ。改めて今年もよろしくな」
「こちらこそ、よろしくね」
今更ながらに今後の挨拶を交わし、どちらともなく笑いだすのだった。




