第94話 徹夜
薄暗い部屋の中、スマホで時刻を確認すると、電子の表示は午前五時を悠斗に知らせてきた。
「…………ねむい」
悠斗の予想通り、美羽が傍で無防備に寝ている状況は落ち着く事など出来なかった。
そのくせ、今になってようやく睡眠欲が悠斗の頭を揺さぶってきている。
もう欲望に負けて寝てしまおうかと思ったが、今寝てしまうといつ起きるか分からない。
根性で目を開きつつ美羽を撫で続けていると、長い睫毛がふるりと震えた。
「ん……」
ゆっくりと瞼が開き、虚ろな目が悠斗を見上げる。
とろみを帯びた瞳は吸い込まれそうで、ずっと見ていたくなる綺麗さだ。
「おはよう。よく眠れたか?」
囁き声で挨拶すれば、美羽がへにゃりと頬を緩ませる。
「おぁよぅ、ゆぅくん」
深く眠った後だからか、美羽の声がいつにも増して舌足らずだ。
無防備な笑顔に心臓が鼓動を早める。普段ならばどくどくとうるさい鼓動を鬱陶しく思うが、今は眠気覚ましにちょうどいい。
「起きるか?」
「……やら。まら、ねるぅ」
「普段からこの時間に起きてるんだろ? 本当にいいのか?」
「んー、ぅー」
目覚ましを掛けずに目を開けたという事は、この時間に起きる習慣がついているはずだ。
朝飯などのやる事があるのではと心配になって尋ねれば、美羽が唸り声を上げて悩みだす。
その後思考が終わると、すぐに悠斗の胸へと頭を埋めた。
「ねる」
「どうなっても知らんぞ?」
「いい。こっちのほうが、だいじ」
単にもっと寝たいというのもあるだろうが、悠斗とくっつくのを優先してくれたようにも思う。
すぐに寝息が聞こえてきたので、どうやら二度寝したようだ。
「嬉しいは嬉しいけど、どれくらい続くんだろうか……」
既に四時間くらいはこの体勢を続けている。
もちろん美羽の頭を撫でるのは飽きないし、密着してくれるのは嬉しい。
心臓が未だに落ち着かないのは苦しいが、このままいけば鼓動も落ち着き、寝られるかもしれない。
そんな淡い希望を抱いた瞬間、控えめなノックの音がした。
「っ!?」
この家で美羽の部屋をノックする人など一人しかいない。
びくりと体を震わせ、首だけを動かして扉を凝視する。
「美羽? 寝ているのか? 悠斗の姿が見えんのだが――」
開けないでくれという悠斗の願いも空しく、丈一郎が顔を出して部屋を覗き込んだ。
まだ日も昇っていない暗闇の中だが、ばっちりと目が合った気がする。
「……ふっ」
小さな含み笑いが聞こえ、パタンと扉が閉まった。
悠斗の間違いでなければ、にやりと意地の悪い笑みをしていたはずだ。
孫と異性が一緒に寝ている姿など、普通は激怒されてもおかしくはない。
それがなかったのだから、まだ悠斗は救われているのだろう。その代わり、後が怖いのだが。
「どうすんだよ、これ……」
先程は美羽に、そして今は丈一郎に心臓を揺さぶられ、眠気が吹き飛んでしまった。
その上で美羽が腕の中で寝ているのだから、頭を抱えたくなる。
とはいえ、ここであれこれ考えても仕方ない。
思考を停止させて頭を撫で続けると、朝日がカーテンの隙間から差し込む頃、ようやく美羽が目を開けた。
「……あれ、悠くん?」
「おはよう」
たっぷり寝て満足したのか、美羽がはしばみ色の瞳に意思の光を灯した。
当然ながら未だに悠斗の胸の中なので、悠斗を見上げる整った顔がすぐ近くにある。
「あ、あれ、なんで?」
真っ白な頬が一気に赤へと染まっていき、瞳があちこちへと散歩し始めた。
動揺しきった態度からすると、さっきもそうだが眠くなってからの記憶がないらしい。
無防備に甘える姿も可愛いが慌てる姿も愛らしく、悠斗の顔に笑みが浮かぶ。
それはそれとして、この状況は慌てても仕方ない。普通に考えれば、こうして密着しているのはありえないのだから。
「昨日俺がどこで寝ればいいか聞いたんだけど、美羽がここで寝ろって言ったんだよ」
「え!? 私、そんな事言ったの!?」
「勝手に家を漁って布団を使うのも悪いし、申し訳ないけど一緒に寝させてもらった。ごめんな?」
「それは、仕方ないから、いいんだけど……。寝顔、見ちゃったよね?」
どうやら悠斗は怒られずに済んだらしい。
代わりに美羽が耳まで真っ赤に染め、瞳を潤ませながら悠斗を見つめる。
「……すまん」
身を寄せ合って寝ているのだから、見ていないとは言えない。
ずっと頭を撫で続けるのは疲れるし、休憩がてら美羽の寝顔を眺めていた時もある。
よくよく考えれば、女性の寝顔を見るのはマナー違反だった。
どうしようもなかったとはいえ、こういう時は男性が謝罪するべきだろう。
頬を引き攣らせつつ謝ると、美羽が声にならない声を上げて悠斗の胸に顔を埋めた。
「なあ、俺に抱き着いてどうするんだよ」
「ご、ごめんなさい!」
逃げ場がなく顔を隠す為だったのだろうが、寝ている訳でもないし、流石に駄目だ。
申し訳なく思いつつも指摘すると、美羽が思いきり悠斗から離れる。
ようやく自由になったとベッドから離脱すれば、美羽が毛布にくるまって丸くなった。
「……っ! ~~~っ!」
ジッとしていられないのか、丸くなったままベッドの上をバタバタと動き回る。
この様子からすると、寝顔を見られたのは余程恥ずかしかったようだ。
羞恥に苛まれる姿を見るのは忍びなくて、おずおずと口を開く。
「俺、リビングに行ってるよ」
「……オネガイシマス」
小さな呟きを背に、美羽の部屋を出てリビングへと向かった。
暖房によって温められた部屋に入ると、しっかりと背が伸びた老人からじろりとした視線をいただく。
「おはよう。よく眠れたか?」
「おはようございます。……いえ、ちっとも寝れませんでしたよ」
美羽に伝えるつもりはないが、丈一郎になら伝えてもいい。
大変だったと肩を落とせば、呆れた風な視線を向けられた。
「美羽が寝床を教えるだろうと思っていたが、まさか美羽と一緒に寝るとはな。まあ、その睡眠不足はお代と思え」
「お代にしては安すぎますが、もう寝てしまいそうですよ……」
徹夜では釣り合わない程の良い思いをしたので、後悔は全くない。
それに、丈一郎も怒らないでいてくれたのだ。本当に、優し過ぎると思う。
美羽の部屋から出て気が抜けたせいで、睡魔がドッと襲ってくる。
ぐったりと椅子に体重を掛ける悠斗を、丈一郎が僅かに微笑んで眺めた。
「手を出さなかったのは褒めてやろう」
「不謹慎過ぎませんかね。そんな事出来る訳がないじゃないですか」
美羽と一緒に居る事を許してもらっているとはいえ、丈一郎の言葉に肝を冷やす。
どう考えても年明け早々にする会話ではない。
妙な疲れにがっくりと肩を落とすと、目の前にお茶を置かれた。
「だろうな。だから、せいぜい頑張るといい」
赤茶色の瞳にからかいの色を込め、丈一郎が悠斗を見下ろす。
嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちで頷いた。
「はい。これが今の俺に出来る事ですからね。頑張ります」
前に進む勇気がない以上、これくらいの苦労は甘んじて受ける。
その後リビングでくつろいでいると、羞恥が収まったのか美羽がやってきた。
美羽が丈一郎へと視線を向けるが、流石に恥ずかしいようで悠斗を見ようともしない。
「……おはよう」
「おはよう、美羽」
「おはよう。朝食はすぐ食べるか?」
「いる。お腹空いちゃった」
「なら準備する。待っていろ」
「ありがとう、おじいちゃん」
美羽を茶化す気はないのか、丈一郎がキッチンへと向かう。
「「……」」
二人きりになったが、お互いに言葉が出て来ない。
どこか気まずいような、むず痒い空気の中、ちらりと美羽を見ると目が合った。
「……寝顔、おかしくなかった?」
「……いや、全然、可愛かった」
「…………そう」
なんとなく、今日の事をこれ以上口に出さない方が良い気がする。
それから丈一郎が帰ってくるまで、微妙な空気の中、二人共が無言でいるのだった。