第80話 余計なお世話
「……久しぶりだな。直哉、篠崎」
「こんばんは。平原くん、篠崎さん」
胸の温かさが急速に冷えていき、暗く濁ったものが流れ込んでくる。
表情を動かさずに挨拶すれば、茉莉が顎に手を当てながら悠斗を見た。
「へえ、芦原が東雲さんをデートに連れてったんだ」
「違う。普段のお礼として出掛けただけだ。デートなんかじゃない」
「普段のお礼? それって何?」
「お前に言う必要があるのか?」
茉莉に悠斗達の事情を話さなければならない理由などない。
穏やかな空気に水を差されたせいで、悠斗の口調が刺々しいものになってしまった。
茉莉を苛立たせてしまったらしく、眉を吊り上げて悠斗を睨む。
「どうせ芦原の事だから東雲さんに迷惑を掛けてるんでしょ? 今日東雲さんと出掛けたのも、お礼っていうかお詫びなんじゃないの?」
「迷惑を掛けてるのは否定しないが、お詫びだろうとお礼だろうと、そんなのどっちでもいいだろ」
正直なところ、美羽に普段のお礼が出来ているとは自信を持って言えない。
けれど、今日のお出掛けを美羽が喜んでくれたのは確かだ。
お出掛けの理由がお礼であれ、お詫びであれ、茉莉にはなんの関係もない。
冷たく言い放つと、茉莉の表情が呆れきったものになった。
「結局迷惑掛けてるじゃん。今日はまだしも、普段からちゃんと迷惑掛けた分は返さないと」
「……篠崎に心配されなくてもきちんと返してるつもりだ」
余計なお世話だと心配を突っぱねれば、茉莉が訝し気に悠斗を見つめる。
「芦原が返してると思ってるだけで、東雲さんはそう思ってないかもしれないよ? 東雲さん、本当のところはどうなの?」
悠斗では会話が進まないと思ったのか、茉莉が話し相手を美羽へと変えた。
急に話題を振られたものの、美羽は慌てる事なく真っ直ぐに茉莉を見つめる。
「悠くんにはいっぱいお礼をもらってるよ。むしろ、私の方こそお礼したいくらい」
「へぇ、そうなんだ……。というか、芦原を名前で呼んでなかった?」
つい普段のように悠斗を呼んでしまったのだろう。動揺でぴくりと体が揺れてしまった。
美羽を怒るつもりはないが、あれこれと詮索されるのは面倒だ。
どうやって切り抜けようかと思考していると、美羽が作ったようなにこやかな笑みを浮かべる。
「仲のいい人を名前で呼ぶのはおかしな事かな?」
「仲がいいだけで男子を名前で呼ばないでしょ。もしかして二人って――」
「ねえ篠崎さん。あれこれ探るのは止めてくれる?」
幼げな声が不思議とよく響き、茉莉の言葉を遮った。
顔に笑みを張り付けつつ、けれど少しも笑っていない瞳が茉莉をじっと見つめる。
「そうやって踏み込まれるの、嫌いなの」
口調は穏やかなのに、鈴を転がすような声なのに、美羽からは迫力のようなものを感じた。
怒りを押し込めているような、こんな美羽の姿は初めて見る。
感情を向けられていない悠斗ですら圧を感じるのだ。向き合っている茉莉は悠斗よりも強い圧を受けているのだろう。
怯んだように茉莉の頬が引き攣った。
「ごめんね。でも昔の芦原って外で遊ぶでもなくずっと家で遊んでたし、彼女なんていなかったの。だから、芦原って女性の扱いが慣れてないんだよ。そんな芦原と一緒にいる東雲さんが心配なの」
悠斗の昔の事をさらりと美羽に伝えられ、ズキリと胸が痛む。
もちろんやましい事など何もしていないが、茉莉にバラされたくはなかった。
ぐっと唇を噛んでこらえていると、繋いだままの小さな手が握る力を強めた。まるで、心配など必要ないと励ますように。
「心配してくれてありがとう。でも、それは昔の事だよね? 今の悠くんはとっても優しいよ」
「本当に? 無理してない?」
「してないよ。それに、悠くんに迷惑なんて掛けられてない。勝手に決めつけないでくれるかな?」
美羽の声が一段と低くなり、はしばみ色の瞳が僅かに茉莉を睨んだ。
流石に踏み込み過ぎたと理解したようで、茉莉が慌てて手を横に振る。
「ご、ごめんね! それならいいけど、何かあったら言ってね。芦原の隣に住んでるんだし、いつでも力になるよ」
「うん、その時が来たら頼りにさせてもらおうかな。……まあ、絶対に嫌だけど」
最後の呟きはあまりに小さく、悠斗にしか聞こえていなかったようだ。
にこりと笑んだ美羽から圧がなくなっていく。
「それはそうと、篠崎さんは今から帰るの?」
「そうだよ、直哉に送ってもらうの。東雲さんは?」
「私も悠くんに送ってもらうの。でもこっちだから、ここでお別れだね」
美羽が帰り道とは違う方向を指差した。美羽の思惑を把握して、悠斗は口を噤む。
さっさと茉莉達と別れようとしたのだが、先程の圧など忘れたかのように茉莉が美羽へと笑顔を向けた。
「そうだ! 結局遊びに行けてなかったし、今度行こうよ!」
「タイミングが合ったらね」
「じゃあ冬休みの間にどうかな?」
「ごめんね。今日は時間を作れただけで、これから忙しくなるの」
美羽の予定は知らないが、遊べない程に忙しくなるなら、悠斗に一言伝えるはずだ。
流石に家庭の事情を持ち出されては踏み込めないのか、茉莉が気まずそうな苦笑を浮かべる。
「ならしょうがないね。それじゃあまた!」
「うん、またね」
別れの挨拶を済ませ、すぐに帰るかと思ったが、茉莉が悠斗の方を向いた。
茶色の瞳は悠斗を心配しているように見えても、その瞳の中に悠斗が入っていないように思える。
「ホント、気を付けなよ? 東雲さんを困らせたら駄目だからね?」
「うるさい。余計なお世話だ」
「ホラ、すぐそういう事を言う。女子の扱いがなってないんだから。どうせ東雲さんを苦労させるに決まってるよ」
握っている小さな手の力が強まった。茉莉の方を向いているので美羽の表情は分からないが、あまり好意的な表情ではないのだろう。
強引に離れようかと思考していると、苦い笑みを浮かべた直哉が茉莉の肩をポンと叩く。
「茉莉、もう行こう。余計な口出しをしない方がいい」
「……分かったよ」
まだまだ悠斗に言いたい事があるのだろうが、茉莉がムスッとした顔で直哉に従った。
「悠斗、またな。……俺としては、悠斗が吹っ切れるのを願ってるよ」
「だったら、こうして話して欲しくはなかったんだがな」
「……ごめん。じゃあな」
短い会話の後に直哉達が離れていく。
二人の姿が見えなくなったところで、美羽が顔を怒りに染めてぶんぶんと腕を振った。
「もう、もう! 折角楽しかったのに!」
「……悪い。会うかもとは思ったが、本当に会うとはな」
危惧はしていたが、夜遅いので大丈夫だと思っていた。
どうしてこうもタイミングが悪いのだろうかと肩を落とす。
「……ねえ悠くん。今から結構愚痴を言っちゃうけど、いい?」
「ああ、言いたい事を言ってくれ」
ここで悠斗が否定する権利はない。それどころか、吐き出して欲しいとすら思う。
きっと、悠斗が吐き出してしまえば止まらないだろうから。
何とか笑みを作って許可すると、美羽が大きく息を吸った。
「何なの! 今の悠くんを知らないくせに! 昔を知ってるからって悠くんを馬鹿にして!」
「家が隣同士ってのはそういうものなんだよ」
「だからって、悠くんが私に迷惑を掛けてるのが当たり前のような発言は許せないよ! 私はいっぱい、いっぱい悠くんにもらってるのに!」
普段の美羽からすれば考えられないくらいの悪口に、悠斗の心がすっと軽くなる。
毎日一緒に居る人が、こんなにも感情を露わにしているのだ。きっと嘘ではないのだろう。
先程までの痛みとは違い、温かくも苦しい気持ちが胸に込み上げてくる。
目の奥が熱くなって視界が僅かに滲むが、奥歯を噛んで必死に堪えた。
「昔の悠くんを知ってるくせに、こんなにも今の悠くんを分かってないとは思わなかった!」
「そうだな……」
むっと眉を顰めつつ、まくしたてるように言葉を放った美羽にぽつりと呟きを返す。
こんなにも怒ってくれる人に隠し事は出来ない。
断られたらどうしようかと少しだけ不安に思いつつも、意を決して口を開く。
「なあ美羽。家に帰ってご飯を食べる前に、聞いて欲しい事があるんだ」
「うん、分かった。……でも、本当にいいの?」
この雰囲気で何を話すかなど、分からないはずはない。
なのに、美羽の言葉には悠斗を気遣う気持ちが溢れんばかりに込められていた。
悠斗の選択は間違っていなかったと確信し、大きく頷く。
「ああ、今度は俺の番だ。今まで聞かないでいてくれて、これから聞いてくれて、ありがとう」
「お礼なんていいよ。私がやりたい事をやっただけ。それに、悠くんがしてくれた事を返すだけ。だから、ちゃんと聞くからね」
「……本当に、ありがとう」
溢れた気持ちが抑えられず、声が震えてしまった。
顔を俯けて感情を押し殺していると、小さな手がぐいっと悠斗を引っ張った。
「さあ、善は急げだよ! すぐ帰ろう!」
「そんなに早く帰ると、あの二人に会うぞ」
嘘を吐いてまで茉莉と直哉から離れたのだ。鉢合わせしてしまえば気まずいなんてものではない。
それもあるのだが、この温かな手を少しでも長く握っていたいと思ってしまった。
苦笑しながら告げれば、美羽が明るくて真っ直ぐな太陽のような笑顔を浮かべた。
「じゃあゆっくり帰ろう? ……それにしても、あの木は凄かったねぇ」
「飾り付けで木があんなに綺麗になるとは思わなかったな」
先程の出来事など忘れたかのように、イルミネーションの感想を言い合いながら家へと向かう。
繋いでいる手の暖かさを噛み締めていると、白い粉が視界に入ってきた。
空を見上げた美羽が、天真爛漫な笑みになる。
「わあ、雪だ!」
「……ホントだ。綺麗だな」
今日は一段と寒かったが、そのお陰だろう。
黒い雲に覆われた空から、真っ白な雪が降ってきている。
その光景があまりに美しくて、呆けたような感想が口から出た。
「ふふ、神様がプレゼントしてくれたのかなぁ?」
「偶には神様も良い事をするじゃないか」
お出掛けの最後があんな出会いで終わるのは最悪だったが、これなら最後に相応しい。
皮肉を口にした悠斗に美羽がくすっと小さく笑む。
悠斗達の間には、繋がれた手がずっと揺れていたのだった。




