第75話 終業式の朝
寒さの厳しい十二月二十四日。普段であればとっくに家を出ている時間だが、まだ悠斗は家にいる。
学校に行く準備を終えてリビングでのんびりしていると、呼び鈴が鳴った。
中に何も入っていない鞄を持って玄関で靴を履き、家の扉を開ける。
朝のひんやりとした空気の中、穏やかな笑顔を浮かべる美しい少女が目に入った。
「おはよう、悠くん」
「おはよう、美羽。じゃあ行くか」
「うん」
約束していたとはいえ、朝から美羽に会えた事で悠斗の胸が弾んだ。
ゆっくりと駅へと歩みつつ、美羽へと頭を下げる。
「朝飯、準備してくれてありがとな。助かった」
「気にしないで。むしろ気付けて良かったよ」
元々、学校へ向かうついでにコンビニに寄って朝食を買っていたため、今日の朝飯をどうしようかと悩んでいた。
けれど美羽が昨日のうちに準備してくれていたので、温めるだけで美味しい朝食を摂れたのだ。
悠斗の礼に首を振り、ホッとした表情の美羽がこちらを見つめる。
「今度から前の日に準備しようか?」
「いや、止めてくれ。どうせ家を出る時間ギリギリに起きるから、食べる時間がないと思う」
朝は時間の許す限り寝ていたい。それは間違いないが、何よりも朝飯の準備まで美羽にさせるのは申し訳なさすぎる。
あまりにもだらしない理由で断ったので注意されると思ったが、美羽がくすくすと軽やかに笑った。
「それなら朝から悠くんの家に行って起こしてもいいよ? おじいちゃんが早起きだから、私も早起きだし」
「……いやいや、そこまでされる理由なんてないから」
気負っているようには見えず、美羽が柔らかく笑んでいるので、完全な善意での提案のはずだ。
おそらく、悠斗がお願いすれば本当に毎日起こしに来てくれるのだろう。
美羽がいいと言っているのだし、朝食くらいお願いしようかと一瞬だけ考えたが、やはり断った。
なんというか、このままでは悠斗の食生活が美羽によって完全に支配されそうな気がしたのだ。
(いやまあ、既に手遅れな気がするけどな)
朝と昼は抜きにしても、夜は美羽のご飯しか口にしていない。
とっくに骨抜きにされている事実からは目を背け、苦い笑みを浮かべた。
「にしても、終業式の日にパーティーとは蓮と綾香さんは凄いな」
悠斗は蓮に、美羽は綾香に、今日の放課後にパーティーをしないかと誘われていた。
恋人といちゃつけばいいのではと尋ねたが、明日するということで今日は自由らしい。
結局、四人だけのパーティーという事が最後の一押しとなり、参加することに決めた。
そうして自転車通学では移動の際に不便だろうと、今日は電車での登校をしている。
(電車に乗るまで一緒に行きたいなんて言い出すとは思わなかったけど)
電車の中まで一緒に居れば悠斗達が知り合いだとバレてしまうので、離れなければならない。
そして駅までそう遠くはないので、美羽と一緒に居られるのはほんの少しの時間だ。
けれど美羽にはその僅かな時間でもいいらしく、昨日許可した時には随分喜んでいた。
しかし、今の美羽は唐突な話題の転換に不満そうな顔をしている。
「話を逸らしたね?」
「ナンノコトデショウカ?」
「はぁ……。今日は引いておくよ」
流石に惚け方が雑過ぎたせいで美羽に思いきり溜息をつかれたが、どうやら諦めてくれるらしい。
むくれた表情を気まずそうなものへと変えた。
「綾香さんの家でやるんだよね? 悠くんは行った事あるの?」
「いや、ないな。けど大体予想はつく」
綾香は日本屋敷に住んでいる蓮の婚約者なのだ。それに、蓮と同じくらい家の力があると聞いている。
そんな人が住む場所など、高級な家しかないだろう。
誘いを受けはしたが今日も場違いな思いをするのだろうなと引き攣った笑みをすると、美羽が不安そうに悠斗を見上げた。
「……もしかして、凄い誘いを受けちゃったかな」
「別に変な事にはならないさ。……ただ、びっくりはするだろうなぁ」
「ねえ、前に悠くんは綾香さん達の事を良家って言ってたけど、とんでもなかったりする?」
蓮達の家の事については、初めて会った際に簡単に説明しただけだ。
ただ、悠斗の表情から美羽の暮らしとはかけ離れている事を把握したのか、悠斗と同じように渋面を作った。
とはいえ美羽は普段から綺麗な所作をしており、あっさりと順応出来そうな気もする。
何だか悠斗だけが仲間外れにされるような気がしたので、道連れを一人でも作っておきたいと、にこやかな笑みを向けた。
「そういう事だ。ま、一緒に驚こうぜ」
「……悠くんと知り合ってから、場違いなところに放り込まれる事が多くなった気がするよ」
「焼肉の事を言ってるなら、あんなの安いもんだ。もちろんあの二人からすれば、だけどな」
「うわぁ、そこまでなんだ……」
二人して放課後のパーティーへと思いを馳せ、楽しみなような、不安なような、何とも言えない顔を作る。
蓮は使うと思った事に関してはお金を渋らない。おそらく、綾香もそうなのだろう。となればどんなパーティーなのかは大体予想がつく。
そういう所はズレているのだなと小さく笑むと、ふと疑問が浮かんだ。
「今更だけど、美羽は別の用事がなかったのか?」
終業式かつクリスマスイブとなれば、クラスの女子達と何かイベントをしてもおかしくはない。
綾香の方を優先していいのかと尋ねると、美羽が強い意志を込めた瞳で悠斗を見つめた。
「クラスでの集まりがあったけど断ったよ。私にとっては、こっちの方が大切だから」
「それで美羽が変な事にならないならいいけどな」
悠斗が美羽の価値観を変える訳にはいかない。美羽が断るというならそれで何も問題ないのだろう。
余計なお世話とすら思えるが、それでも心配すれば美羽が疲れたように肩を落とす。
「というか、誘っておきながら私が来ると男子が取られるかもって警戒するんだよ? そんな人と一緒に過ごしたくはないかな。むしろ内心では私が行かなくて喜んでたと思う」
「……女子って怖いなぁ」
やはり、女子のやりとりは水面下でいろいろあるらしい。
学校内だけだがいろんな人と付き合いがある分、なかなか気楽な人間関係は構築出来ないようだ。
美羽が離れていくと思っていた悠斗が言える事ではないが、今までと変わらない過ごし方をしてくれて本当に良かったと胸を撫でおろす。
「にしても、綾香さんとたった一日だけで随分仲良くなったよなぁ」
美羽の性格やこれまでの生き方からすると、仲の良い友達を作るのはあまり得意ではないように思える。
けれど、綾香とは一日一緒に過ごしただけで連絡先を交換するくらいに仲良くなっていたのだ。
綾香の暴走もあったので警戒するかと思ったが、悠斗の予想から外れている。
意外に思ってしみじみと呟けば、美羽が悲しさと嬉しさを混ぜ込んだ笑みを浮かべた。
「多分、似てるからだと思う。……綾香さんの学校生活を見たことはないけど、私のように誰にも頼れないんじゃないかな」
「……そういう事か」
綾香も美羽と同じく、十人に聞けば十人が美少女と答えるくらいに容姿が整っている。
そこに家柄も合わさってしまい、学校では常に気を張っていなければならないのだろう。
それが美羽の境遇と似ており、だからこそ意気投合したようだ。
「でも抱き着かれるとは思わなかったけど。窒息しそうだったよ」
あの時、直前まで美羽は不機嫌になっていたが、それすらも忘れて悠斗に助けを求めてきた。
しかも綾香が離れた途端に悠斗の背中に隠れたので、本当に余裕がなかったのだろう。
羨ましくも思えるし、気の毒でもあるので、こればかりは美羽の味方をし辛い。
「ま、助かって良かったじゃないか」
「……ねえ悠くん。もしかして、羨ましいとか思ってない?」
顔に出したつもりはなかったのだが、底冷えのするような声が小さな口から発せられた。
いつもなら温かみのあるはしばみ色の瞳は冷え切っており、刺々しい雰囲気が容赦なく悠斗に突き刺さる。
「思ってない」
「……」
ジッと悠斗の顔に穴が開きそうなほどに美羽が見つめてきた。
視線を逸らせば非を認めてしまうので、必死に目を合わせ続ける。
無言の時間がどれくらい過ぎたか分からないが、ようやく美羽が視線を正面へと向けた。
とはいえ頬は不満そうに膨らんでおり、隣から小さな呟きが聞こえてくる。
「どうせ私は綾香さんみたいに、スタイルが良くないですよーだ」
「俺は何も言ってないんだが」
「言ってた! 目が言ってた! 人の恋人に見惚れるなんて最低だよ!」
「おぅ……」
普段の美羽からは想像出来ない言葉の刃が悠斗の胸に突き刺さった。
決して綾香に見惚れてはいなかったのだが、美羽に怒られたというだけで胸が痛い。
言い訳もせずにがっくりと項垂れる悠斗に、申し訳なさそうな声が掛かる。
「……ごめん、言い過ぎた」
「いや、そう思われる行動を取った俺が悪い。一応言うが、他人の彼女に見惚れるほど節操なしじゃないぞ」
「分かってるよ。本当にごめんね」
「いや、俺の方こそ悪かった」
よくよく考えれば美羽に怒られる理由もないし、どうして謝っているのかも分からない。
けれど、何となく悠斗が悪い気がしたのだ。
お互いに謝って水に流すと、ちょうど駅に着いた。
切符を買って一緒に改札口を通り、ホームまで上がる。
「……それじゃあ、放課後にな」
「……うん、またね」
同じ車内に居ても大丈夫だとは思うが、念には念を入れておきたい。
美羽がバレても構わないと思っていても、悠斗が納得出来ないのだから。
しゅんと落ち込む美羽を少しでも元気付けたくて、悠斗の我儘で振り回している謝罪の意味も込めて、淡い栗色の髪に触れた。
この地域の学生が登校する時間帯よりも早く、人が少ないので多少なら問題ないだろう。
「ごめんな」
「いいよ。悠くんに無理強いは出来ないからね。それに、終業式の日に悠くんと知り合いってバレたら強制的に連れて行かれそう」
「違いない」
決して悠斗のせいではないという美羽の心遣いに励まされ、悠斗の顔に笑みが浮かぶ。
髪が乱れては駄目なので、撫でるのを程々にして切り上げた。
「じゃあ美羽、気を付けてな」
「うん」
先程よりも穏やかな雰囲気の中、美羽から数車両離れる。
同じ学校に行くくせに、同じ車両にすら乗れない意気地なさに呆れるのだった。




