第74話 秘密のご褒美
「♪~、♪~」
もう少しで冬休みとなる日曜日。朝の空気が温まっていく中、美羽は悠斗の家へと向かっている。
買い物袋の中には、朝一番で買ってきた今日の昼と晩の食材で一杯だ。
少々重いが、後にあるご褒美を考えるだけで、この程度何ともないと思えるくらいに元気が漲る。
鼻歌を歌いながら十五分と少し。何度も通った道を歩いて芦原家に着いた。
「お邪魔しまーす」
他人の家の鍵を使い、中に入る事はとっくに慣れた。
既に芦原家の殆ど家具の位置や、中に何が入っているかすら把握している事に、くすりと小さな笑みを落とす。
「……そうだ」
玄関で靴を脱ごうとしたところで、最近やろうと思いつつも普段の癖で出来ていない事を思い出した。
食材を玄関に置き、身を翻えして外に出る。
それだけではなく、再び鍵を閉めて開けるという無駄な事をして、もう一度玄関へと足を踏み入れた。
「ただいま」
他人の家では使えない――ましてや悠斗の居る前でなど絶対に口に出せない――ここが居場所だと宣言する言葉。
けれど、この言葉を口に出してもいいと思えるくらいに、この家に来るのが当たり前になっている。
羞恥と歓喜が沸き上がり、美羽の心臓を虐め始めた。
「~~~っ!」
頬が熱い。鏡で今の美羽の顔を見たら、真っ赤に染まっているはずだ。
いつか、悠斗が居てもこの言葉を口に出せる日が来るのだろうか。
それが出来たらどんなに嬉しいのかと思いつつ、にやけている顔のまま家に上がる。
美羽の家よりも使うのに慣れたキッチンへ向かい、冷蔵庫に食材を入れた。
「さてと、時間はっと……。うん、まだ悠くんは寝てる時間だね」
悠斗が起きる時間は前回で覚えた。この時間はぐっすり寝ているだろう。
それでもなるべく足音を立てないように二階へ上がり、目的の部屋の前へと来た。
「……これは仕方ない事だから。私は得た権利を使ってるだけだから。そう、だから、私は悪くない」
不用心に鍵を渡し、家の人が居なくても入れるようにした悠斗が悪い。
何度も部屋に鍵を掛けろと忠告したにも関わらず、掛ける素振りすら見せない悠斗が悪い。
想い人のプライベートなエリアに入れる下地が出来ているのなら、入らずにはいられないのが人間というものだ。
寝ている人の元に行くのは駄目だと心の片隅にある良心が囁いたが、大きく膨らんだ欲望の前には敵わなかった。
「失礼します」
出来るだけ起こさないように、最低限のマナーとして小さく挨拶をして中に入る。
この時点でマナーも何もないが、けじめはつけたい。
美羽とは違う、何とも言えない落ち着く匂いの中でベッドに視線を向ける。
そこには、すうすうと穏やかに寝息を立てている悠斗が居た。
「今日もぐっすりだねぇ。そういう無防備な事をしてるから、私のような人に寝顔を見られるんだよ?」
聞こえていないと分かっていつつも囁きを落とし、悠斗の顔の傍へと近づく。
「睫毛長いし、髪はさらさらだし、凄いなあ」
誰かと比べた訳ではないが、悠斗の睫毛は長い方だろう。
風呂上がりの悠斗は適当に髪を拭いているので、髪のケアなど気にした事がないはずだ。
それでもさらさらと流れる黒髪には艶があり、こんな髪質になれたらなと少しだけ悠斗を羨む。
「寝顔はなんだか子供みたい」
普段は仏頂面が多く、笑う事こそあれどこんなに安らかな顔をしてはいない。
大人びた雰囲気とは反対の無垢な寝顔は、下手をすれば年下にも見えてしまう。
「ふふっ、幸せだなぁ」
先週から始めたが、これが日曜日の美羽の楽しみだ。
とはいえ、最初から悠斗の寝顔目当てで来ようとした訳ではない。
もっと悠斗と一緒に居たいからと早めに来て、悠斗が起きるのを下で待っているつもりが、つい魔が差してしまったのだ。
「触りたいなぁ。撫でたいなぁ。一緒に、寝たいなぁ……」
悠斗に心のままに行動しろと言われてから、あれこれと我儘をしてきた。
その全てを悠斗が受け入れてくれたので、ほんの一週間と少しで美羽はこんなにも強欲になってしまった。
ずっと、ずっと一緒に居たい。熱すぎる思いは日増しに大きくなっている。
それこそ、丈一郎には悪いが泊まりたいと考えるくらいに。
「ん……ぅ」
「あぁ……」
飽きもせず寝顔を眺めていると、悠斗が寝返りを打って美羽から背を向けた。
悲しみに暮れた声が口から漏れ、がっくりと肩を落とす。
「仕方ない。それじゃあ悠くんが起きた時の為にご飯の準備をしようかな」
空いたスペースに体を潜り込ませたいと思ったが、流石にそれは駄目だと考えなおして立ち上がった。
まだ悠斗とは友人なのだ。異性の友人との添い寝はやりすぎだろう。
音を立てずに一階へと降り、朝食兼昼食の準備をする。
「でも、よくよく考えたら後は悠くんだけなんだよねぇ」
丈一郎は悠斗の事を認めているし、正臣と結子からは家に上がる許可をもらっている。
残るは悠斗の想いだけなのだが、それがなかなか上手くはいかない。
「仕方ないとは思うんだけどね」
悠斗が美羽の事を信用しているのは分かっている。美羽を女性として見ている事もだ。
それでも、美羽が近づいても、悠斗は見て見ぬフリをする。
その理由が何となく分かっているからこそ、焦る必要はない。
ゆっくり、ゆっくり悠斗の心に触れていけばいい。
「……まあ、誰にも悠くんの隣は譲らないけど」
ここまで芦原家に受け入れられている人など、美羽を除いて今は誰もいないはずだ。
学校で悠斗に近付く女子はいるだろうが、彼女達と美羽を比べた場合、悠斗は美羽と一緒に居てくれるという自負がある。
「悪い子だ、私」
みっともない感情を抱く事に呆れてしまう。けれど、気持ちとは裏腹に美羽の口は弧を描いた。
悪い女に手を差し伸べた悠斗には申し訳ないが、逃がすつもりはない。
今日はどうやって過ごそうかと考えていると、リビングの扉が開いた。
のそりと背の高い男性が入ってきて、呆れの目で美羽を見つめる。
「……おはよう。今日も来たんだな」
寝起きでぼんやりとした顔に、寝ぐせでボサボサの髪。
普段とは違った緩んでいる姿に、美羽の心臓がどくんと高鳴った。
(髪を洗ってあげたいなぁ。服も準備してあげたいなぁ)
悠斗が何もしなくてもいいようにお世話したい。
うずうずと体が動き出すが、一度断られているので今は我慢だ。
「おはよう、悠くん。日曜日は朝から来れるのがいいよねぇ」
「……来る前提なんだな。まあ、美羽がそれで良いなら構わないけどさ」
悠斗がはあ、と溜息をつきながらガシガシと頭を掻く。
そうやって許可をするから、美羽が我儘になっていくというのに。
「ふふ、それじゃあご飯にする? お腹減ってないなら後にするけど」
「腹減ってるから、飯をお願いしていいか?」
「任せて!」
秘密のご褒美を隠し、何でもない日曜日が始まるのだった。




