第72話 互いの匂い
三時過ぎに起きたトラブルは、顔をほんのりと赤く染めた美羽からの無言の圧により、お互いに触れないという決まりになった。
とはいえ、あんな事があったのだから美羽も警戒して無防備な体勢を止めるだろう。
そんな悠斗の考えも虚しく、美羽が再び悠斗のベッドの上で寛ぎ始めた。
(警戒した結果がそれって……。まあ、美羽が納得してるならいいんだけどさぁ)
今も美羽は肘をついて本を読んでいるが、対策の為にか悠斗の枕を抱きかかえて胸元を隠している。
別に枕を使われるのは構わない。しかし、異性が使用している枕など普通使いたくないはずだ。
だが時折すんすんと枕の匂いを嗅いで頬を緩めているので、嫌悪感などないらしい。
堂々と、しかもずっと匂いを嗅がれると、恥ずかし過ぎて背中がむずむずしてくる。
「匂いを嗅がれるのが嫌って訳じゃないが、程々にしてくれよ?」
「え、そんなにいっぱい嗅いでたかな?」
「ちらちら見てた限りだと割とな」
「私は悠くんの匂い好きなんだけど、嗅がれるのは嫌?」
ふにゃっと緩んだ表情からは、油断しきっているのがありありと分かる。
それだけでなく、悠斗の匂いが好きだと真っ直ぐに告げられて、心臓の鼓動が加速した。
喜びに緩もうとする表情筋を引き締め、平静を意識する。
「嫌というか、他人にベッドの匂いを嗅がれ続けるなんて、普通は恥ずかしいだろ」
「でも、いい匂いなのに……」
しゅんと肩を落とす姿に、本心から残念がっているのが伝わってきた。
だが、ここで折れてずっと嗅がれるのだけは避けたい。
「俺が美羽の部屋に入って、ベッドの匂いを嗅いだらどう思う?」
家を知らない仲ではないし、単に用事がないだけで東雲家に入る事だって出来る。
もちろん無断で入りはしないが、美羽の部屋に行く可能性もゼロではない。
しかし男性が女性のベッドの匂いを嗅ぐなど、言い訳のしようもないくらいアウトな行為だ。
最低な事を言っているなと呆れつつ尋ねると、美羽が首を斜めにした。
「私の部屋に入りたいの?」
「いや、そうじゃなくてだな……」
微妙に論点がズレてしまい、大きく息を吐き出す。
正直なところ入りたいが、今はそんな話ではないのだ。
「単に逆の立場を想像してくれって事だよ」
「逆の立場? うーん……」
苦い顔で懇願すれば、美羽がむっと唇に力を入れて考えだした。
思案している綺麗な顔を観察していると、次第に頬が血色良くなっていく。
「……なんだか恥ずかしいね」
「だろう?」
逆の立場になって、ようやく自分のしている事を理解したらしい。
これで多少は匂いを嗅ぐのを止めてくれるはずだ。
ホッと胸を撫でおろすが、美羽が頬を赤らめて悩ましそうな顔で口を開く。
「ベッドは置いておいて、私の匂いを嗅ぎたいの?」
「はあ!? なんでそうなるんだよ! 逆の立場になると恥ずかしいのを理解して欲しかっただけだ!」
決して美羽の匂いを堪能したいから言った訳ではない。
あまりにも想像の斜め上な質問に、素っ頓狂な声を上げてしまった。
取り乱した悠斗を、ほんのりと潤んだ瞳で美羽が見つめる。
「でもそう思うって事は、私の匂いを気に入ってくれてるんだよね?」
「……否定は、しない」
一緒の部屋に居るのだから、近くにいなくても多少は美羽の匂いを嗅いでしまう。
落ち着くような、けれど心臓をざわつかせる匂いは、好意を自覚してからより意識するようになってしまった。
しかしほんの少しの匂いを嗅ぐなどマナー違反だと、出来る限り考えないようにしていたのだ。
好きだとは答えられず玉虫色の回答をすると、形の良い眉が不満気に歪められた。
「そういう答えは狡いと思うなぁ」
「こうして一緒に居るんだから、嫌いな訳ないだろ」
「好きだって言ってくれないんだ?」
悪戯っぽい目が悠斗の心をくすぐり、顔に熱を集めていく。
美羽に思い知らせるはずが、どうして悠斗がこんな目に遭わなければいけないのだろうか。
上機嫌に弄ってくる美羽にどうやって言い返そうかと考えていると、ふと良い案を思いついた。
「じゃあ好きだって言ったら嗅がせてくれるのか?」
「ふえっ!?」
お互いに相手の匂いを気に入っているのだ。しかも美羽は悠斗の匂いを既に嗅いでいる。
ならば、悠斗にも美羽の匂いを嗅ぐ権利はあるはずだ。
流石に驚いたようで、美羽がびくりと体を震わせ、変な声を上げた。
「え、えっと……」
視線をあちこちにさ迷わせ、耳まで真っ赤に染めている姿は非常に可愛らしい。
思わず頭を撫でたくなるが、今は美羽への仕返しなので我慢した。
居心地悪そうにもじもじしている姿に、悠斗の溜飲も下がっていく。
(まあ、これくらい脅せばいいだろう)
今日は朝から美羽に振り回されっぱなしだったが、これでようやく落ち着ける。
ホッと胸を撫で下ろしてゲームを再開するべく視線を外そうとすると、何を思ったのか美羽が起き上がっておずおずと両手を広げた。
「……いいよ?」
もはや耳どころか首まで真っ赤にしているのだから、美羽が羞恥を感じていないはずがない。
はしばみ色の瞳は潤みつつも、その奥に期待と喜びを潜ませている気がする。
全く予想のしていない態度に、悠斗の提案を受け入れた事に、心臓が激しく鼓動した。
「やれる訳ないだろうが……」
美羽の態度からすると、今から嗅げという事だろう。
しかし、ベッドの上で男女が身を寄せ合うなどあまりに危険過ぎる。
がっくりと肩を落としつつ、大きく息を吐き出した。
「もういいよ。好きにしてくれ」
「何を好きにするの?」
「あれ、何だっけ?」
「さあ、何だっけ?」
話があちこちに飛び過ぎて、本来何を伝えるべきかすら忘れてしまった。
二人して首を傾げる姿がおかしくて、どちらともなく笑いだす。
「まあ、なんだ。美羽の匂いは嫌じゃないけど、そういう事を言うんじゃないぞ」
「でも、悠くんになら……」
「し、な、い!」
再び心臓に悪そうな事を言い出しそうだったので、話を切ってゲームに取り掛かるのだった。
美羽を送り届けてベッドへと寝転がる。
先日もそうだったが、今日の美羽はあまりに無防備過ぎた。
もしかすると、甘えてくれと言ったのは失敗だったかもしれない。
しかし美羽があれだけ自分を出してくれたのが嬉しかったのは確かなので、悠斗の行動は合っていたはずだ。
「つっかれたぁ……」
美羽が自分を曝け出す代わりに、悠斗の精神がガリガリと削られていくのは我慢するしかない。
美羽の態度に嫌な感情など欠片も湧かず、嬉しさしか感じなかった時点で悠斗の負けなのだから。
重い溜息を吐き出し、枕に顔を埋める。
すると、甘いミルクのような匂いが微かに漂ってきた。
「もしかして、美羽が寝転んでたから匂いが移ったのか」
たった半日寝転んでいただけなので濃ゆくはない。
けれど悠斗のベッドから好きな人の匂いがするというのは、嫌でも心臓の鼓動が早まってしまう。
「ああもう、一人になっても落ち着かないのかよ」
悪態をついたが、情けない事にベッドから離れる気は起きず、体の力を抜く。
とくとくとペースを早める心臓の鼓動を聞きつつ、甘い匂いを嗅ぎながら目を閉じるのだった。




