第60話 穏やかな日常
昼飯を摂り終えて自室に戻り、暫くすると美羽がやってきた。
曰くアイロンを掛け終わったので、悠斗の部屋でゆっくりしたいとの事だ。
(土曜日で時間があるし、俺の部屋に何度も入ってるから警戒しないってのは理解出来るけどさぁ……)
以前は、美少女であってもあくまで友人というくくりだった。
けれど、今の悠斗は美羽を魅力的な異性として強く意識している。
そんな内心で、しかも一番悠斗が素を出せる自室で土曜日の午後を過ごすのだ。当然ながら、時間の長さは先日のマッサージの比ではない。
絶対に落ち着けないはずだと渋面を作っていると、悠斗の表情を勘違いしたのか、美羽が柔和な表情で小首を傾げる。
「もう何度も来てるんだし、遊んでもいるんだよ? 何をそんなに心配してるの?」
「……そう言われたらそうなんだがな」
美羽の言葉は確かに事実だ。変わったのが悠斗の心境だけなので、強く否定し辛い。
どうやって言いくるめるべきかと悩んでいると、美羽が何か思い付いたようで「あ」と発した。
「お願いなんだけど、悠くんには普段通りに過ごして欲しいの」
「普段通り? 一人でいる時と同じようにって事か?」
「うん。私を気遣って一緒に何かしようとかはいいからね」
「それなら美羽は何をするんだ?」
提案を受ければ美羽を意識する事も減るはずなので、非常に有難い。
しかし悠斗が普段通り過ごすのであれば、美羽が出来る事はそう多くないのだ。
まさかこの部屋でジッとしているのではと不安になったが、美羽が本棚を指差した。
「この前の本の続きを読ませて欲しいな」
「分かった。それ以外も好きに読んでいいからな」
この部屋には一日読書しても読み切れない量の本がある。美羽が暇になる事はないだろう。
読まれて困る物はないので好きにしてくれと伝えれば、美羽が柔らかく唇をたわませた。
「ありがとう」
美羽が読書に取り掛かったので、悠斗は一人用のゲームを起動させる。
そして特に喋る事もなく、同じ部屋で過ごし始めて二時間が経過した。
「……」
突然美羽が無言で立ち上がり、部屋を出ていく。
あまり詮索するのも悪いと思って探さないでいると、一時間後に再び美羽が戻ってきた。
ふわりと焼き菓子の匂いが鼻をくすぐり、ゲーム画面から美羽がテーブルに置いたトレイに視線を移す。
そこには、お茶と一口サイズのクッキーが乗っていた。
「はい。好きな時に食べてね」
「ありがとな」
ゲーム中でも摘まめるようにという配慮が嬉しく、小さく笑みを零す。
とはいえ悠斗も少し疲れたので、コントローラーを離してクッキーを口に含んだ。
さくりとした歯ごたえと、バターの甘味が堪らない。
美味しいは美味しいのだが、こんなに美味いクッキーなど近くのスーパーやコンビニに売っていたかと首を捻る。
「これ、どこで買ったんだ?」
「買った? ああ、これはさっき下で作ってきたの」
「え、手作りなのか?」
あっさりと手作りをしてくる美羽が凄すぎて、驚きに目を見開く。
買ってきた割には妙にバター等の匂いが強いなと思ったが、どうやら一時間前に作りに行ったらしい。
そんな事をさせたにも関わらず、全く気にせずゲームをしていた自分に呆れた。
「すまん、大変だったんじゃないのか?」
中学校の頃に調理実習でクッキーを作ったが、あまりに手間で二度とやるものかと決意した覚えがある。
同じように苦労させているはずなので頭を下げると、美羽が穏やかな笑みのまま首を振った。
「大丈夫だよ。そんなに疲れる事でもないし、こういうのは慣れてるから」
「慣れてるって、もしかして……」
「そう、お母さんに練習させられたの」
「……ごめんな」
家事や料理を勉強させられたと聞いてはいたが、その中にはお菓子作りも入っていたらしい。
嫌な事を思い出させたと顔を顰めれば、険の取れた優しい微笑を向けられた。
「今日は私が望んだ事なんだから、謝らないで。それに、今はあの苦労も悪くないなって思ってるんだよ」
気持ちの変化が起きたのか、美羽は仁美からの過剰な教育をあまり恨まなくなったようだ。
とはいえ、その結果美羽が周囲と遊べず、一人になったのは変わらない。
そんなに簡単に呑み込めるものではないはずだ。
「でも、そのせいで美羽はずっと苦しかったんだろうが」
「そうだね。でも、こうして悠くんにお菓子を作れてるから、恨み半分、感謝半分って感じかな」
悠斗の為にこれまでの事を受け入れたと言われているようで、背中がむずむずする。
羞恥が沸き上がって顔を背けたくなったが、少なくとも作ってくれたのだから感想は言うべきだ。
「……そうか。クッキー、美味いぞ」
「ふふ、なら良かった」
にへらと溶けるように眉尻を下げ、幸せそうに笑う美羽に心臓が騒ぎ立てた。
もう美羽の顔を見ていられず、そっぽを向いてクッキーを黙々と口に運ぶ。
「……にしても、なんていうか、平和だねぇ」
ぽつりと美羽が呟いた言葉には、嬉しさが込められていた。
用事もなく、何かに急かされる事もない。ただゆっくりと時間が過ぎていく一日。
最初は緊張すると思っていた。しかし、実際はこんなにも穏やかで落ち着いた時間を過ごせている。
不思議なものだと小さく笑みを落とし、少し前までの慌ただしい日常を振り返る。
「球技大会まで殆ど毎日運動してたからな。そうだ。先週の末に家を掃除してくれてありがとな」
一週間と少しだが平日や休日など関係なく、悠斗はずっとバレーの特訓に集中していた。
その結果、家の掃除がロクに出来なかったのだ。
幸いなことに美羽が代わりにやると提案してくれたので、申し訳ないが甘えていた。
当日もお礼を言ったが改めて感謝を伝えると、ふわりと美羽が笑む。
「むしろ、それくらいしなきゃ悠くんに顔向け出来なかったからね。間違っても遊びになんて行けなかったよ」
「どうしてそこまで気負うんだよ……」
どうやら掃除の裏側では使命感を感じていたらしい。
遊びに行くくらいで怒りはしないのだが、はしばみ色の瞳には強い意志が浮かんでいた。
「そりゃあそうだよ。私の為だったからね」
「……好きに言ってくれ」
嬉しさが滲み出たような笑顔を向けられ、否定も出来ずに素っ気ない対応をする。
誤魔化すようにお茶を飲み干し、休憩は終わりとコントローラーを握った。
「そうだ。悠くんがゲームするところ、見てていい?」
「見て分かるようなものでもない気がするけど、見たいならどうぞ」
一人用のゲームを眺めるだけなど、普通はつまらないと思う。
けれど美羽が望むのであれば、悠斗に拒否する理由はない。
そしてゲームを再開したのだが、どうにも美羽の視線が悠斗に向いている気がする。
熱いような、刺すような強い視線に、流石に疑問を覚えた。
「俺の顔、何か変か?」
「ううん、全然。見られるのが嫌だった?」
「嫌じゃないけど、緊張するから程々で頼む」
視線に悪感情が含まれていないのは分かるので、単に気恥ずかしいだけだ。
やんわりと注意すると、美羽が小悪魔のような笑みになる。
「じゃあ悠くんが私の視線に慣れるように特訓だね」
「えぇ……。そもそも見ないっていう選択肢はないのか?」
「それは嫌かな」
「……よく分からん」
美羽の考えは全く読めないが、にこにことご機嫌な笑みを浮かべているので悪い事ではないだろう。
いちいち気にするのも馬鹿らしいと、ゲームに集中する。
「ふふ。ずっと見ていられるなぁ」
甘さを滲ませた柔らかい声に心臓が跳ね、必死に意識を逸らしてゲームを続けるのだった。




