第56話 球技大会明けの日常
昨日は風呂にも入らずいつの間にか寝てしまっており、朝があまりにも忙しかった。
最悪な事に寝た時間が遅かったのか、球技大会での体の疲れが残った上での寝不足だ。
今すぐにでも帰りたい気持ちに駆られつつも、義務的に教室の中に挨拶を響かせる。
「おはよう……」
「おはよう、芦原」
「芦原くん、おはよー」
これまでは簡素な挨拶が返ってくるか無反応だったのだが、妙にフレンドリーな挨拶が返ってきた。
挨拶をしてくれた人を確認すると、昨日の球技大会で関わった人が多い気がする。
少なくとも昨日限りの関係ではないと分かった気がして、胸が温かくなった。
ただ、やはりそう物事は上手くいかないようだ。
教室内を見渡すと、悠斗をほんのりと睨んでいるクラスメイトもいる。
「……」
視線を合わせるとさっと顔を逸らされたので、面と向かって文句を言うつもりはないようだ。
ホッと胸を撫で下ろしつつ、自分の席に着いて頬杖をつく。
(今まで地味だった俺が目立って、気に食わないんだろうなぁ)
こういう事になるのは予想していた。
窓際でひっそりと過ごしていた男子が球技大会だからと張り切ったのだ。
調子に乗っていると思われてもおかしくはない。
ましてや一緒に試合に出たチームメイトだけでなく、女子からも受け入れられているのだから、余計に反感を買っているのだろう。
とはいえ、陰口で済むのなら安いものだ。
今日からはこれまでと同じくひっそりと過ごすのだし、時間が経てば悠斗への興味など失われていく。
こういう時に視線を遮る髪が有難かったなと重い息を零せば、とん、と後ろから軽く肩を叩かれた。
「よう、随分眠そうじゃねえか」
昨日の疲れなど感じさせない、爽やかな笑みを蓮が浮かべている。
試合中はどれほど助けられたのか分からない笑みだが、今はその笑顔が無性に腹立たしい。
「あんなに試合したんだ。疲れが残るのも当たり前だっての」
「ははっ、バレーで疲れるその感覚も久々だろ? いいじゃねえか」
「今回は試合だったけど、こんなのを続けたくはないなと改めて思ったぞ。練習だけとはいえ二年半もよく続けたよなぁ……」
中学生の頃は苦しくて辞めたいと思っても、くたくたになるまで練習していたと思い返す。
もうそんな元気など無いと顔を顰めると、けらけらと蓮に笑われた。
「その結果準優勝まで行ったと思えば良いもんだろ? 優勝出来なかったのは心残りだけどな」
「結果は結果だ。大人しく受け入れるさ」
準優勝とはいえ素直に喜べはしない。渋面を作って蓮に応えると、蓮の顔が険しくなる。
「……にしても、どいつもこいつも悠の活躍を軽く見やがって。試合に出てない奴が文句を言うなっての」
どうやら悠斗が来る前に悪口を言われていたようで、蓮にしては珍しく声と表情に怒りが滲んでいた。
その態度は嬉しいが、そんなに怒らなくてもいいのではと思う。
いつだって目立つのは活躍する人間なのだから。
「仕方ないだろ。点を取ったのは殆ど蓮なんだから」
「そりゃあ俺がその役目だったからだ。取れたのは悠がボールをくれたからだってのに。それを『元宮が凄いから準優勝出来ただけだ。芦原の役は誰でもいい』だなんて言うのはふざけてるだろ」
「蓮の力に頼ったのは事実なんだから、何を言われても気にしないさ。怒ってくれてありがとな」
蓮がいなければ準優勝まで行けなかったし、悠斗が蓮の力に頼っていただけと言われても気にしない。
こうして怒ってくれる人がいるのだ。それだけで悠斗は十分に救われている。
眉を吊り上げてムスッとしている蓮にお礼を言うと、蓮が大きな溜息をはく。
「お前はどうしてそう変に大人びてるのかねぇ……」
「別に大人びてなんかないだろ。俺はただ、蓮やチームメイトが俺を受け入れてくれた事が嬉しかっただけだ」
「……まあ、何かあったら言ってくれ。他のやつらも気にしてるようだし、遠慮すんなよ」
眩しいものを見るように蓮の瞳が細まり、からりとした笑顔になった。
蓮の言い方からすると、どうやらチームメイトも悠斗の陰口を気にしているらしい。
本当に良いメンバーに恵まれた事を実感して、胸が痺れる。
「ああ、じゃあ遠慮なく頼らせてもらうよ」
「おう、任せてくれ」
「それと、蓮と綾香さんに球技大会まで特訓してくれたお礼がしたいんだが、何がいい?」
悠斗が負けられないという事情を知っていたのは蓮だけだ。
もちろん他のメンバーにも感謝しているが、学校行事のお礼をしても戸惑わせるだけだろう。
ただ、蓮と綾香だけは当日だけでなくその前も力を貸してくれたのだ。
少なくない恩があるので、絶対に返さなければならない。
真剣に尋ねると、蓮が茶化すことなく考えだした。
「そうだなぁ……。なら今週の日曜日に悠斗の家で遊ぼうぜ」
「……それだけでいいのか?」
大金を使うような事は言われないと思っていたが、あまりにも拍子抜けなお願いに首を傾げる。
しかし、蓮が大真面目な顔をしながら頷いた。
「いいぜ。俺や綾香の家は悠が緊張するだろうし、悠の家がいいだろ。それに綾香もお前の事を心配してたんだぞ」
「綾香さんが? ……それならますます優勝出来なかったのが申し訳ないな」
どうやら綾香は随分と悠斗の事を気に掛けていたらしい。
期待に応えられなくて申し訳ないと肩を落とせば、蓮が焦りながら手を横に振った。
「いやいや、優勝とかは気にしてなかったぞ。まあ、最近遊んでなかったし、ここらでどうだってだけだ」
「遊ぶのは良いんだが、家には――」
美羽が居ると言おうとしてしまい、慌てて口を噤む。
許可も取らずに関係をバラすのは駄目だと思ったが、ふと当たり前の事に気付いた。
(そうか、美羽は関係ないのか)
もう美羽は料理を作りに来てくれはしないし、毎日出迎えてくれもしない。
仮に遊びに来る事があったとしても、その時は連絡してくれるはずなので断ればいいだけだ。
つまり、これまでのような悠斗と美羽の関係が無くなった以上、蓮にバレる事はありえない。
ちくりと傷んだ胸を無視し、無駄な考えを頭を振り払って追い出す。
悠斗が急に固まった事で首を傾げている蓮へと向き合った。
「……予定もないし、いいぞ。日曜日だな」
「そうか。いやー、楽しみだな!」
「単に三人で遊ぶだけだろうが。それじゃあ皆で出来るゲームでも部屋から下ろしておくよ」
「頼むぜ!」
「……それと、サプライズで高い食べ物を持ってくるのは無しだからな?」
一度だけだが蓮は悠斗の家に遊びに来た事がある。
その際にいかにも高級そうなお菓子を持ってきたのだ。
値段は絶対に言わなかったので、おそらく結構な額だったのだろう。
それに昨日の高級料理の事もある。油断は出来ない。
念の為に釘を刺すと、蓮の顔がばつが悪そうに歪んだ。
「いいじゃねえか。遊びに行くんだから、差し入れだっての」
「今回の件は俺のお礼のはずなんだが? むしろ俺がお菓子を用意すべきだろ」
「お、用意してくれるのか!?」
「……適当にスーパーで買ってきたやっすい煎餅でも用意してやるよ」
なぜか蓮が期待に目を輝かせるので、その希望を打ち砕くべくとても蓮では食べなさそうなものを選ぶ。
あまりにも失礼すぎて言った悠斗が罪悪感を抱くくらいなのだが、蓮が握り拳を作った。
「ああいうのいいよなぁ。いかにも家庭のお菓子って感じだ」
「俺にはお前の感性が分からん」
「自分で買うならまだしも、もらいもののお菓子が全部高級なのとか疲れるだけだぞ」
「はぁ……。これだから上流階級は」
こういう所で悠斗と蓮の違いを感じるのだと呆れつつ、少しだけ変化した学校生活を過ごした。
元々、悠斗と美羽はメッセージアプリで積極的に会話をしない。
最近では悠斗の食の好みが完全に把握されたのか、何が食べたいかを聞かない事もある。
悠斗が「何でもいい」とよく言っていた事も原因なのかもしれない。
(……今日も連絡はなしと。まあ、そりゃあそうだよな)
今日も相変わらず、スマホに美羽のメッセージは来ていない。
そもそも悠斗の家に来る理由などないので、当たり前の事なのだが。
これまでと変わらない時間に家に帰り着き、玄関の扉を開ける。
静寂だけが家を満たしているかと思ったが、リビングから足音が聞こえてきた。
「……は?」
ふと足元を見ると、約二ヶ月で見慣れてしまった女子高生のローファーがある。
有り得ないと首を振り、瞬きしても靴は消えなかった。
それどころか、どんどん足音が近づいてくる。
(何で? ここに居る理由なんてないだろ)
思考を困惑が埋め尽くし、まともに頭が働かない。
それなのに胸は期待で勝手に弾み、押し込めようとしていたはずの感情が溢れてくる。
どんな顔をして会えばいいか分からずおろおろしていると、足音の主が悠斗の目の前まで来た。
小さい背に、子供っぽく感じさせない不思議と整った顔つき。
見慣れた少女の姿に、強く心臓が鼓動した。
「おかえり、悠くん」
嬉しさが詰め込まれたあまりにも魅力的な笑顔で、美羽が出迎えてくれた。




