第53話 美羽の決意
「……どうして、ここに?」
美羽には体育館裏に行く事を伝えていない。まさか来るとは思わなかった。
呆けたように尋ねると、美羽がふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
「悠くんがこっちに行くのが見えたの。多分、一人になりたいんだろうなって思ったけど、どうしても会っておきたくて」
「……バレたら大変な事になるぞ」
「誰もいないし大丈夫だよ。仮にバレても、文句は言わせない」
強い意志が込められている言葉に苦笑し、美羽から目を逸らす。
今はその心強さを受け入れたくない。
「悠くん、ありがとね」
何から話せばいいか迷っていると、お礼の言葉が耳に届いた。
その声色は驚くくらいに穏やかで、悠斗を労う気持ちに溢れている。
だが、悠斗にはその言葉を向けられる資格などない。
「あれだけ言っておきながら負けたんだ。お礼なんていい」
「私が言いたかったんだよ。……本当に、ありがとう」
「止めてくれ。結局、あの話はなしになったんだから」
「その事だけど、丈一郎さんと向き合うよ」
「……どうして?」
優勝していないので、丈一郎から料理を教わるという話は無効のはずだ。
なのに、美羽はあれだけ恐れていた丈一郎に近付くという。
顔を上げて疑問をぶつけると、美羽が澄んだ瞳を細めて悠斗を見つめた。
「悠くんに勇気をもらったから。私の為に悠くんはあんなに頑張ったんだよ? なのに、それを見ても逃げていたら、私は悠くんに顔向け出来ないの」
「あれは俺が俺の為にやった事だ。無理する必要は――」
「無理なんてしてない。私がそうしたいと思ったからするだけ。私が、私の為にやる事だよ」
悠斗の言葉を遮った美羽は、してやったりという風な笑みだ。
全く同じ言葉を返され、何も言えずに唇を結ぶ。
散々自分の為だと言って、静止の言葉を聞かなかったのだ。そんな悠斗が美羽を止める事は出来ない。
悠斗は何の役にも立たなかったという事実を突きつけられた気がして、悔しさにぐっと拳を握る。
「……ごめんな」
「どうして悠くんが謝るの? 私は悠くんが頑張ってくれなきゃ前に進めなかったんだよ?」
「そんな事ない。前に進めるのは美羽が強いからだ」
聡明な美羽ならば、悠斗の力が無くともいつかは丈一郎と向き合えたはずだ。
正しい事を言っているはずなのに、美羽は眉を下げて微笑みながら首を振る。
「ううん、違うよ。私は弱くて、臆病で、逃げ続けた人だよ。そんな私の心を悠くんは変えてくれたの」
「俺は、俺には、そんな力なんて……」
他人の為なら結果が残せると信じて、今回は美羽の為にと行動した。
けれど、結果はこの様だ。おそらく悠斗は何をやっても駄目なのだろう。
よくよく考えれば、悠斗が美羽にこうなって欲しいと願望を押し付けていただけなのかもしれない。
(……なんだ、結局自分の為だったのか。そりゃあ失敗する訳だ)
どこまでも醜い自分に嫌気が差し、顔を俯けた。
力不足な上に自分勝手な人間など救いようがない。
「悠くん」
何も話す気が起きず項垂れていると、細く柔らかいものが悠斗の頭に触れた。
それは悠斗を慰めるように、ゆっくりと髪を撫でる。
「背中を押してくれてありがとう。私を決意させてくれてありがとう。だから、そんなに自分を責めないで?」
「俺は、何もしてない」
「してくれたよ。視線が怖いのに髪を切ってくれて、バレーに乗り気じゃなかったのにあんなに頑張ってくれたでしょ?」
「勝たなきゃ、結果を残さなきゃ意味がないだろうが」
勝負の世界は結果が全てだ。負けてしまった悠斗のバレーに意味はない。
心に入り込んでくる温かな言葉を否定し続ける。そうしなければ自分を赦してしまいそうだ。
けれど撫でてくる手を止める気は起きず、振り払う事が出来ない。
「確かに優勝出来なかった事だけを見たらそうかもしれない。でも結果はそれだけじゃないよ。その過程を見て、私は頑張ろうって思えたんだから。ほら、結果を残してるでしょ?」
「そんなの、俺が頑張った結果じゃない」
「私はそう思ってるの。……どうしても納得が出来ないなら、負けたお詫びにやって欲しい事があるんだけど」
何を言っても受け入れない悠斗に痺れを切らしたのか、気遣うような優しい声色で美羽が提案してきた。
優勝出来なかったのだから、どれだけ辛くとも美羽の願いは叶えたい。
「何でも言ってくれ。俺に出来る事なら絶対にやるから」
「じゃあ丈一郎さんから料理を教わる時に、一緒に居てくれる?」
「……そんなのでいいのか?」
腹を割って話すのだから、悠斗が居てもいいのか分からなかった。しかし、美羽は一緒に居て欲しいようだ。
よくよく考えれば、あれだけ美羽に勧めておいて悠斗は待つだけというのも薄情な気がする。
それに、丈一郎の事は怖くもなければ苦手でもないのだ。会うのは全く苦ではない。
想像以上に簡単なお願いなので、本当にそれでいいのかと確認を取ると、美羽が柔らかく笑んで頷く。
「私一人だと駄目かもしれない。でも、悠くんが居てくれるなら頑張れるよ」
「分かった。じゃあお邪魔する」
「お願いね」
罪滅ぼしには釣り合っていないが、美羽の提案に少しだけ心が軽くなった。
それでも結果が残せなかった悔しさと、事態が前に進んだ事への安堵で心がごちゃ混ぜになる。未だに撫でられ続けているというのもあるかもしれない。
しかし話が終わったので、少なくとも悠斗を撫でる手は止まるだろう。
そう思ったのだが、美羽の手が止まる気配はない。
「……なあ、いつまで続けるんだ?」
「ん? 私が満足するまで」
当然のように告げられた言葉に頬が引き攣った。
反対に美羽はにへらと溶けるように眉尻を下げ、幸せそうな表情をしている。
「そんなに楽しいのか?」
「楽しいよ。誰かの頭を撫でたりなんてした事なかったし、悠くんの髪はさらさらで触り心地がいいから」
「運動後で汗掻いてると思うんだが」
「そんなの気にしないよ。むしろ、もっと撫でたくなる」
「……物好きめ」
悪態をついたものの、細い指先が髪を撫でる感触は心地がいい。
どうせ文句を言っても止めないのだから、美羽が満足するまで好きにさせてもいいだろう。
「最後まで諦めないの、かっこよかったよ」
「勘弁してくれ。あんな姿、思い出したくない」
無駄だと分かっていても、諦めたくないという一心で走っただけだ。
他人からすれば意味の無い行為だと思うし、指摘されると恥ずかしい。
ムッと唇と尖らせると、くすくすと軽やかに笑われた。
「泥臭いかもしれない、見苦しいって馬鹿にする人もいるかもしれない。それでも、あの時の悠くんの姿は凄くかっこよかった。……だから、絶対に忘れない」
「ああもう! 変な事を言うな!」
純粋な褒め言葉に背中がむず痒い。頬が熱いのが実感出来る。
この状況で頭を撫で続けられるとおかしくなりそうで、勢いよく立ち上がった。
まだ満足していなかったのか、美羽が僅かに頬を膨らませる。
「本当の事なんだから別にいいでしょ? ほら座って」
「もう終了だ。残念だったな」
「むぅ……。じゃあこれから悠くんが頑張る度に頭を撫でようかな」
「どうしてそうなるんだよ……」
どうやら美羽は悠斗の頭を撫でるのに嵌まったらしい。
訳が分からないと溜息をつき、この話題は危険だと話を逸らす。
「丈一郎さんに料理を教わる日はいつにするんだ?」
「出来る限り早い方がいいだろうし、今日にするつもり。今から連絡すれば、多分大丈夫だと思う」
「分かった。じゃあ俺は先に行くよ」
「うん。それじゃあ放課後、よろしくね」
「ああ。……ありがとう、美羽」
小さくお礼を言い、美羽に背を向けて体育館裏を出る。
角を曲がる瞬間に「私の方こそ、ありがとうだよ」と柔らかく包み込むような聞き心地の良い声が聞こえてきた。
「俺が救われてどうするんだか……」
ぽつりと零して大きく息を吐き出す。
苦しかった胸の内は、いつの間にか温かなもので満たされていたのだった。




