第216話 給仕の練習
「まさかあんな事になるとはなぁ……」
悠斗が執事姿になるなど全く思っておらず、自室でぽつりと呟いた。
その原因の一端である美羽が、悠斗の膝の上に乗りながら、申し訳なさそうな目でこちらを見上げる。
「……嫌だった?」
「やりたいかやりたくないかで言えば、やりたくないな」
「ごめ――」
「でも、美羽に任せたのは俺だ。その上で執事姿になるなら、俺は出来る限りの事をするだけだよ」
勝手に決まってしまったが、美羽を怒るつもりも、謝って欲しい訳でもない。
美羽の謝罪を遮り、きっぱりと告げた。
それでも罪悪感は消えないのか、端正な顔が曇っている。
本当に大丈夫だと示す為に、淡い栗色の髪を撫でつつ頬を緩めた。
「何よりも、美羽が楽しみにしてくれてるからな。彼女の我儘を叶える甲斐性はあるつもりだぞ」
今回の喫茶店が心底嫌ではないのは、これが理由だ。
正直なところ、悠斗の執事姿に何の良さがあるのかなどさっぱり分からない。
しかし、恋人の願いを叶えるのが彼氏というものだろう。
欲望に嘘はつけないのか、美羽がぐっと言葉を喉に詰まらせた。
「……はっきり言うと、滅茶苦茶楽しみなの」
「期待に応えられる自信はないから、似合わなくても笑うなよ?」
「絶対似合うよ! 私が保証する!」
「……ならいいんだ」
瞳を輝かせて鼻息を荒くする美羽に苦笑を落とす。
ここまで期待してくれているなら、これ以上卑屈な事を言っては駄目だ。
悠斗は美羽に気に入ってもらえるだけで嬉しいのだから。
ただ、美羽が何かに気付いたようで「あ」と声を漏らした。
小さな体から、見る見るうちに元気が抜けていく。
「私以外の人にご奉仕するんだよね?」
「奉仕というか給仕というか……。まあ、そうなるな。こればっかりは勘弁してくれ」
「……うん。分かってるよ」
給仕するのは当たり前の仕事なので、美羽以外の人に執事として接するのは許して欲しい。
普段嫉妬深い美羽も自分で決めた事だからか、文句を口にはしなかった。
「で、文化祭は悠くんと一緒にまわると」
「そのつもりだ」
折角の文化祭なのだから、恋人と一緒に過ごしたいという気持ちは同じだ。
大きく頷くが、美羽の顔は未だに曇っている。
「もしかして、私は悠くんの給仕を受けられないんじゃないの?」
「毎回休憩が一緒って訳にもいかないだろうし、絶対受けられないって事はないだろ」
「でも、代わりに一緒にまわる時間が減っちゃうよね」
「……確かに」
休憩時間は出来るだけ美羽と合わせるつもりだが、そう上手く行くとは思えない。
悠斗と美羽が付き合っているのが公然の事実とはいえ、贔屓してはもらえないだろう。
そうなるとお互いの給仕を受けられるチャンスだが、それは文化祭を一緒にまわる時間が減るのと同義だ。
ままならないものだと、美羽と共に溜息をつく。
「なかなか上手くいかないねぇ……」
「こればっかりは状況次第だな。流石に今の段階じゃ予測すら出来ないし」
「じゃあ、取り敢えず文化祭を一緒にまわる方を優先していい?」
「それは良いけど、給仕を受けられなくなるかもしれないぞ?」
美羽にとってはどちらも捨てがたいと思ったのだが、どうやら一緒まわる方が優先らしい。
最悪の可能性を提示すれば、美羽が思いきり不満そうな顔をしながらも頷く。
「……凄く残念だけど仕方ないよ。もしそうなったら、悠くんの執事姿を目に焼き付けて我慢する」
「俺も美羽のメイド姿を目に焼き付けるよ」
「あれ? 悠くんってメイド服が好きなんだ?」
美羽が無垢な顔で首を傾げた。
これまでメイド服についてあまり触れなかったからか、興味がないと思われていたようだ。
もしくは、悠斗の持っている本から趣向を判断したのかもしれない。
どちらにせよ、それは大きな間違いだ。
「当然だろ。美羽のメイド姿なんだ。絶対に可愛いし、見たいに決まってるっての」
どのようなメイド服になるのかは分からないが、文化祭の出し物である以上は、一般的なものに収まるだろう。
そうであっても、美羽であれば他の人が霞むくらいの可愛さになるはずだ。
迷いなく断言すれば、美羽の頬が淡い朱に染まり、はしばみ色の瞳が驚きに見開かれた。
「そ、そうなんだ……。じ、じゃあ、私のご奉仕を受けたい?」
メイド服でご奉仕となると、妙にいかがわしい気がする。
口に出せば話が脱線しそうなので、胸の奥に仕舞い込んだ。
「出来る事なら是非受けたいな。だから、俺だって残念なんだぞ」
悠斗とて文化祭を美羽と共にまわりたいし、給仕も受けたい。
両立させる事の難しさに眉を顰めれば、美羽が上機嫌そうに唇をたわませた。
「なら、もしご奉仕出来る機会があったら、全力を尽くすね」
「楽しみにしておくよ」
全力を尽くすと言っても、喫茶店で出来る事などたかが知れている。
それでも、美羽ならば露骨に悠斗を贔屓するはずだ。
嬉しさに頬を緩めたが、逆の立場も十分あり得る。
喜んでばかりはいられないと、頬を引き攣らせた。
「どうしたの?」
「美羽はまあ、多分問題なく接客出来るだろうけど、俺にはそんな自信ないんだよなぁ」
「私も接客の経験はないけど、決まった挨拶をするだけでしょ? 普通じゃない?」
何を問題にしているのか分からない、という風に美羽がきょとんと首を傾げる。
「ええい、初対面の人との会話に慣れている人はこれだから……」
最近では友人も増えて会話する事が多くなったが、元々悠斗は窓際でひっそりと過ごしていたのだ。
蓮は例外としても、壁を作るのが当たり前だったし、クラスメイトとも軽い世間話程度で済ませていた。
いくら接客のマニュアルがあるはずだとはいえ、そんな人が簡単に接客など出来るはずがない。
少し前までは取り繕っていつつも、会話には慣れている美羽に嘆息をつく。
ただ、美羽は本気で悠斗の悩みが分からないようで、頭に疑問符を浮かべていた。
「何で呆れられたのか分からないけど、心配なら練習してみる?」
「……じゃあ、取り敢えずやってみるか」
美羽になら情けない姿を見られてもいいし、笑わないでくれるはずだ。
美羽を膝から下ろして、先程悠斗が座っていた場所に座らせる。
悠斗はというと、美羽の前に立った。
部屋着で申し訳ないが、流石に服装まで拘ってはいられない。
「ええっと。まずは挨拶からだよな」
「そうそう。悠くんが私に対してだから、『おかえりなさいませ、お嬢様』かな」
「分かった」
どうしてそんなセリフがすらすらと出て来るのかは疑問だが、おそらく情報元はクラスメイトからだろう。
少しだけ緊張に胸を弾ませつつ、左手を腹に持ってきて、右手を腰の後ろに回す。
本当にこれが正しいのかは分からないが、それっぽい仕草にはなったはずだ。
腰をしっかりと曲げて一礼し、柔らかな笑顔を意識する。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「……」
悠斗としては結構頑張った方なのだが、美羽の表情が固まった。
それほどまでに似合わなかったのかと溜息をつけば、美羽の頬が一瞬で真っ赤になる。
「あ、あわわわわ……」
「……やっぱり駄目だったんだな?」
「ち、違うよ! 破壊力が凄すぎただけ!」
「は、はぁ……」
いまいち理解出来ないが、どうやらお気に召したらしい。
美羽が耳すらも真っ赤にして、勢いよく首を振る。
嬉しくはあるものの、悠斗の予想した反応とのあまりの違いに、むしろ一歩引いてしまう。
悠斗の態度すら視界に入っていないようで、美羽が頬に手を当ててゆらゆらと体を揺らした。
「既に似合い過ぎてるし、あの笑顔は反則だよぉ……。しかも執事服じゃないって事は、まだ上があるって事でしょ? そんなのずるい、ずる過ぎる。あぁ、独り占めしたいなぁ。これは失敗したかも。でも喫茶店じゃないと執事なんてしてくれないだろうし、でもでも本気でお願いしたら、文化祭以外でもやってくれるかなぁ。家で私一人にご奉仕する悠くん。……そ、想像しただけで鼻血出そう」
悠斗にすら聞こえないような小声かつ、恐ろしく早い口調なせいで、全く聞き取れない。
「み、美羽?」
「――」
呼び掛けても全く反応してくれず、何かを呟いている。
少なくとも駄目出しではなさそうなので、気にしない事にした。
「練習の度に美羽がこうなるなら、蓮や哲也に見てもらった方がいいかもな」
あの二人なら、笑いつつも割と真剣にアドバイスしてくれるだろう。
文化祭まで一ヶ月もないが、美羽に喜んでもらう為なら、出来る限りの事はした方がいい。
意気込みを新たにしつつ、美羽を放り出してゲームをするのだった。




