第213話 先輩のアドバイス
「さあ、入って入って」
「お、お邪魔します……」
美羽が手招きすると、悠斗の自室へ桜がおずおずと入ってくる。
美羽と一緒ではあるものの、男の部屋に入るのだから、緊張するのも無理はない。
とはいえ美羽にとっては第二の自室も同然なので、既に緊張などとは無縁なのだが。
「……本当に、本が沢山ですね」
桜がきょろきょろと室内を見渡し、ぽつりと零す。
本は沢山あるが、桜のお気に召すかは分からなかった。
しかし目を輝かせているので、心配は無用だったらしい。
「全部悠くんの趣味だよ。私にはよく分からないけど、男の子が読む本が多いんじゃないかな?」
「確かにそうですけど、新鮮で面白いですよ。それに人気作品もありますし、私としては大満足です」
どうやら、桜は読書には一家言あるようだ。
先程までの直哉や美羽、悠斗を気にする態度とは一転して、自信満々な態度を見せている。
これまでとは違った姿にくすりと笑みを零すと、急に桜の顔が曇った。
「でも、本当に私達だけで良いんでしょうか。芦原先輩はやけにあっさりしてましたけど……」
「大丈夫だよ。この家の殆どは把握してるし、この部屋もそう。だから悠くんは私に任せてくれたの」
正臣と結子の部屋を除き、芦原家に美羽の知らない場所はない。
もちろん悠斗の自室も同様で、悠斗が知られたくない物も把握済みだ。悠斗が偶に外出する際、美羽はこの部屋に居るのだから。
初めて確認した時には悲しくなったものの、流石に勝手に捨てる訳にもいかず、使われた形跡もないので不問にしている。
普通では有り得ない関係に、桜の頬が引き攣った。
「は、はぁ……。凄いですね」
「変でしょ? でも、私達の在り方はこういうものなの」
美羽と悠斗の関係が恋人としてもあまりにも近過ぎるのは、美羽自身よく分かっている。
それでも、お互いがこれで良いと納得しているのなら、変える必要はない。
胸を張って断言すると、桜の瞳が眩しいものを見るように細まった。
「芦原先輩の事、大好きなんですね」
「もちろん。しっかり者で、優しくて、甘やかしてくれて、でもヘタレな所もある悠くんが、私は大好きだよ」
良い所も悪い所も全部合わせて、美羽は芦原悠斗という存在が大好きなのだ。
迷いなく告げれば、桜の瞳に興味の色が浮かぶ。
「芦原先輩って、ヘタレなんですか?」
「まあ、そうだね。事情があったり、ちゃんと理由があってそうしてるのは分かるから、別に怒るつもりはないんだけど」
「美羽先輩は大人ですね。それに比べて私は……」
沈んだ声には、羨望がこれでもかと込められていた。
美羽は決して目標にされるような人ではないのだと、苦笑を浮かべて首を振る。
「悠くんにいっぱい我儘言ってるから、そうでもないんだけどね。まあ、私の事は良いんだよ。……何かあったの?」
美羽の事情はいつでも説明出来るし、困ってもいない。問題は、明らかに何かありそうな桜だ。
お節介かもしれないが、どうしても桜の力になりたい。
内心が似ている紬とはまた別方向で、桜と美羽は似ている気がするからだろう。
まず間違いなく、好意を向けている男性の境遇が似ているからなのだが。
出来るだけ柔らかな声を心掛ければ、桜がぽつぽつと語り出す。
「美羽先輩は、直哉先輩の今の状況を知ってますか?」
苗字ではなく名前呼びにしている事を詳しく聞きたいが、ぐっと我慢する。
今は美羽の欲望に従う訳にはいかないのだから。
「ある程度は。あの人のせいで、平原くんは酷い目にあったんでしょ?」
「そうです。でも、最近になって直哉先輩の立場が、ある程度戻ったんですよ。……主に、あの先輩の自爆ですが」
「いつかはそうなるかもって思ってたけど、案外早かったね」
男を物としてしか見ない人に待つのは、身の破滅だけだ。
以前元バレー部のマネージャー達と話した際に、そう遠くないうちに到来すると思っていたが、想像以上に早い。
とはいえ美羽に助ける気などなく、突き放すように告げた。
「でも、良い事なんじゃないのかな? 勝手な想像だけど、桜さんは平原くんの力になりたいんでしょ?」
「そうです。そのはず、なんです。……でも、直哉先輩の立場が良くなったら、私なんて必要ないんじゃないかって、そう思うようになったんです」
絞り出すように告げられた声は、あまりにも痛々しい。
自分の力が必要なくなる。その状況と似たような事に美羽もなった事があるからこそ、桜の気持ちが良く分かった。
(球技大会の時に、悠くんがクラスメイトの女の子に話し掛けられてたっけ。それに、あの日から悠くんの家に行く言い訳もなくなったんだよね。あれは嫌だったなぁ……)
悠斗が髪を切り、クラスメイトに受け入れられ、楽しそうにバレーをする。
もちろん華々しい活躍はあまりなかったが、それでも悠斗は一目置かれたのだ。
その場に美羽が居ない事を、あれほど憎々しく思った事はない。
そして、丈一郎との関係が改善され、悠斗の家に行く理由が無くなった時、美羽はまだあの関係を続けるという選択を取った。
絶対に忘れない行事に思いを馳せつつ、桜の手を握る。
美羽よりも大きく、それでも女性として小さい手は、不安に震えていた。
「大丈夫だよ。平原くんは、桜さんにもらった物を忘れたりなんかしない。見捨てられる事なんてないよ」
周囲の人全てに壁を作る中、ただ一人自分に接してくれた人が居た。その有難さも、美羽はよく分かっている。
もちろん、直哉が美羽と同じく救われた人とずっと一緒に居るとは断言できない。
それでも、茉莉に酷い仕打ちを受けた直哉が、恩を忘れるとは考えられないのだ。
(それに、きっと平原くんも、桜さんの事が好きなはず)
桜を想っていなければ、夏休みに一緒に行動しようとは思わない。
例え桜から言い出したのだとしても、戻りつつある直哉の立場なら断れたはずだ。
そうしなかったのは、多かれ少なかれ桜への好意がある事を意味している。
深読みかもしれないが、何となく合っている気がした。
だからこそ、美羽なりのやり方で桜の背中を押す。
「ねえ桜さん。平原くんと一緒に居るのは、嫌?」
「そんな事ありません! 直哉先輩は自分が辛いのに私を気に掛けてくれて、つまらないはずの私の本の話をちゃんと聞いてくれたんです! それに――」
「わ、分かった。よく分かったよ」
どうやら、美羽が考えている以上に桜は直哉の事が好きらしい。
止まらなくなりそうだった桜の言葉を切り、こほんと咳払いを行う。
「なら、桜さんからは絶対に離れちゃ駄目だよ。もちろんやり過ぎは注意だけどね」
やり過ぎている気がする美羽が言っても説得力など無いと思うが、桜は知らないので良しとする。
例え何があっても、直哉から離れない限り、桜には十分に望みがあるのだから。
「桜さんが平原くんから離れなくても、色々悩んで見て見ぬフリをするかもしれない。あれこれ理由をつけて、前に進まないかもしれない。それでも傍に居る覚悟はある?」
美羽はやりたい事をやっただけだが、誰もが同じような事が出来るとは思えない。
だからこそ桜の覚悟を確認すれば、桜は瞳に強い意志を秘めて大きく頷いた。
「はい! だって、私は直哉先輩の事が好きですから!」
「ふふ、その意気だよ」
似た立場の人が同じ選択をしてくれた嬉しさに、美羽よりも濃ゆい茶色の髪を撫でる。
桜は目をぱちくりとさせて驚いていたが、へにゃりと頬を緩めて身を委ねた。
「……何だか、お姉ちゃんみたいですね」
姉という単語に、美羽の心臓が跳ねる。
まさか言われるとは思っていなかった言葉に、歓喜が沸き上がった。
膨れ上がった感情は、勝手に美羽の頬を緩ませる。
「姉が居るの?」
「いえ、お姉ちゃんが居たらこんな感じなんだろうなって思っただけです。……変な事を言ってすみません」
「ううん、変じゃないよ! もう一回言って欲しいなー!」
「……お姉ちゃん?」
「はうっ」
無垢な顔で首を傾げ、美羽を姉と呼ぶ姿に心が打ち抜かれた。
子供扱いされがちな美羽にとって、その単語はあまりにも気持ちがいい。
胸を抑えていると、くすくすと軽やかに桜が笑った。
「こう言うのも何ですが、美羽先輩って変な人ですね」
「あ、言ったなー」
ほぼ初対面にも関わらず桜との会話は弾み、穏やかな空気が部屋を満たす。
「もしかして、妙に真に迫ったアドバイスと、芦原先輩がヘタレって言ってた事から察するに、実体験ですか?」
「そうだよ。悠くんには内緒ね?」
「構いませんよ。代わりに、もっと詳しく教えて欲しいです」
「しょうがないなぁ。特別だよ?」
悠斗に悪いと思いつつ、似た立場の男子を好きになった人と会話を弾ませて笑い合う。
本の事など、頭からすっかり抜け落ちていたのだった。




