第206話 絡み酒とごほうび
晩酌の前に風呂を済ませるとの事で、以前と同じく悠斗が一番最初に入った。
今は美羽が入っており、その間に悠斗は丈一郎に一つお願いをしている。
丈一郎は最初目を見開いて驚いたが、仕方ないなという風に苦笑して、悠斗を案内してくれた。
「ここだ」
「失礼します」
今まで一度も来たことのない部屋の襖を、ゆっくりと開ける。
畳の匂いが香る部屋の中には、よく手入れされた仏壇が置いてあった。
中央に置いてある写真の中で、美羽に似た顔立ちの女性が笑っている。
「この人が、真理子さんなんですね」
「そうだ。……全く。美羽の墓参りに付き合っただけでなく、家の中でも挨拶したいとはな。物好きな奴め」
呆れたと言わんばかりの声を発して、丈一郎が肩を竦めた。
やはりというか、東雲家の人は自分の事となると遠慮するらしい。
仁美はどうか分からないが、気にしたくもないので頭から弾き出す。
昨日の美羽と今の丈一郎の姿が重なり、くすりと笑みを零した。
「挨拶したいと思うのは当たり前じゃないですか。丈一郎さんもそうですが、真理子さんが居なければ、俺は美羽と出会えませんでしたから」
今日は色々な事があったのだ。昨日墓前に挨拶はしたが、改めて挨拶したい。
そして、一度も仏壇に来なかった事の謝罪をしなければ。
「何度も家に来ているのに、一度も顔を見せずにすみません。それに、昨日は簡単に挨拶を済ませてしまいました。……改めて、貴女の孫の美羽とお付き合いをさせていただいている、芦原悠斗です」
仏壇の前で正座し、深く頭を下げる。
もちろん、声が返って来る事はない。
それでも伝わって欲しいと思いつつ、ゆっくりと今日の出来事を話していく。
「美羽は凄い人なんですよ。あんなに小さいのに、俺の弱い心を受け入れて、支えてくれました。……小さいって言ったら、美羽に怒られそうですがね」
本人は背の高さより、胸の大きさを気にしているようだが、何も気にする必要はない。
あれはあれで、素晴らしいものだったのだから。
とはいえ、頭の中に顔を真っ赤にして、悠斗を叩く恋人のイメージが浮かぶ。
あまり不謹慎な想像はすべきではないと、思考を切り替えた。
「でも、本当に立派なんです。子供の頃に母親――貴女の娘でもありますが――に怒られて、それ以降言う事に従うだけだった美羽が、怒られるのも覚悟で言い返したんですよ」
「……そう、だな」
震える声が悠斗の傍から聞こえ、悠斗の隣に丈一郎が座り込む。
しわがれた頬には、輝く水滴が流れていた。
「美羽は儂の間違った行いのままに育たず、真っ直ぐに成長してくれた。美羽は本当に、良い子に育ってくれたよ、真理子!」
美羽に受け止めてもらっても、まだまだ感情は収まっていないようだ。
むしろ、美羽にすら話せない事もあるのだろう。
悲痛な声が、丈一郎の口から発せられていく。
「お前を少しも気遣わなかったせいで早死にさせ、仁美は間違った教育により歪な考え方になってしまった。だが美羽は、美羽は、儂に笑ってくれたんだ!」
真理子の事について、あれこれ聞く事は出来ない。
それは、丈一郎が話したいと思った時でなければ、聞いてはいけないと思う。
「それも全て、お前の目の前に居る悠斗のお陰だ。この子が、儂と美羽を救ってくれた」
「……面と向かって言われると、反応に困るんですが」
何度も感謝の言葉を言われているので、この場で「俺は何もしてませんよ」とは言えない。
しかし露骨に褒められて、背中がむず痒くなった。
体を揺らしつつ苦笑を落とすが、悠斗の反応を無視して丈一郎が続ける。
「会った事もないお前に挨拶をするだけでなく、昨日は墓参りもしてくれた。本当に、出来た子なんだ」
「あ、あの、それくらいで……」
「……む。そうか」
これ以上は我慢できないと、丈一郎の言葉を止めた。
既に頬どころか耳まで熱く、今の悠斗は顔全体が真っ赤だろう。
丈一郎は不満そうな顔だが、悠斗への賞賛を止めて立ち上がってくれた。
「まだまだ話し足りないが、悠斗を付き合わせる訳にもいかん。それではな」
「また来ます。真理子さん」
丈一郎と共に部屋を後にし、リビングへと戻る。
その途中で、先を歩く老人がちらりとこちらに振り返った。
「会ってくれてありがとう、悠斗」
「いえ、これは俺がやりたい事ですから」
悠斗の言葉に丈一郎は反応せず、すぐに顔を戻す。
照れ隠しのような鼻での笑いが、聞こえたのだった。
「本当に、悠斗は良い子だ!」
ダン、とコップが勢い良くテーブルに叩きつけられた。
普段の落ち着いた所作の丈一郎は、見る影もない。
それどころか、皺がれた頬には赤みが差し、赤茶色の瞳は僅かに焦点が定まっていない気がする。
丈一郎が飲み始めて一時間。悠斗の前には酔っ払いが出来上がっていた。
「丈一郎さん。そろそろ止めた方が……」
普段あまり酒を飲まないと以前聞いたので、飲ませ過ぎは身体に悪い。
丈一郎が体調を崩すのは、悠斗も悲しいが美羽も悲しむのだから。
そろそろ止めるべきだと声を掛けたが、胡乱な瞳が悠斗を射抜く。
「これが飲まずにいられるか! 墓参りをしない透や仁美とは違う! 儂は、美羽の彼氏が悠斗である事が、心の底から嬉しいのだ!」
「は、ははは……」
どうやら、丈一郎の心に潜む後悔は無くなったらしい。
代わりに、悠斗をべた褒めする方向に向かってしまった。
(……というよりは、絡み酒かな)
おそらく、以前両親が東雲家にお邪魔した時も、似たような事になったのだろう。
元々丈一郎に対して苦手意識はなかったが、羽目を外した姿を見て、更に壁がなくなった。
とはいえ、今はフレンドリーに接する事など出来ないのだが。
苦笑を返した事で更に気分が乗ったのか、丈一郎に肩を掴まれた。
酒で視点が合っていない瞳に、殺気のような迫力を込めて、丈一郎が悠斗を見つめる。
「頼む、悠斗! 美羽を幸せにしてやってくれ! 儂の一生のお願いだ!」
「はい。それは、俺が一番に目指す事ですから。その努力を俺はし続けます」
たかが高校生が簡単に「幸せにします」と言っても説得力などない。
丈一郎からすれば嘘でも言って欲しかったかもしれないが、悠斗はこの言葉を伝えたかった。
不機嫌になるかと心配していたものの、丈一郎が珍しく破顔する。
「なら安心だ! さあ、悠斗も飲め!」
「いや、俺は未成年ですから」
「んー? 儂の酒が飲めんのかぁ?」
「あ、やっぱりそうなるんだな……」
一瞬で不機嫌になった丈一郎に肩を落とす。
その後丈一郎に酒を止めてもらうまで、暫く説得し続けたのだった。
「美羽、入るぞ」
丈一郎がようやく寝床につき、悠斗も解放された。
数回した来た事がないものの、迷いなく美羽の自室に辿り着き、軽くノックする。
寝ているかと思ったが「どうぞ」と不機嫌な声が聞こえてきた。
「お邪魔します」
「……ん」
不満を隠そうともしない返答に頬を緩めつつ、美羽の部屋に入る。
ベッドの方を見れば、最愛の恋人がじっとりとした視線を悠斗に向けていた。
頬は膨らみ、悠斗のあげたぬいぐるみは細腕に締め付けられている。
これでもかと拗ねたような態度を見せつけられ、小さな笑みが零れた。
悠斗の態度に美羽が更に機嫌を悪くし、ぽつりと呟く。
「……なんで笑うの」
「ごめんごめん。一人にした事も、ごめんな」
「……さみしかった」
「本当に、ごめんな」
丈一郎の事も分かっているだろうが、それでも美羽は珍しく駄々を捏ねた。
理不尽な恋人を愛しく思い、ぬいぐるみごと美羽を抱き締める。
体勢が悪いのか、美羽がぬいぐるみを手放してされるがままになった。
不機嫌であっても素直に甘えてくる美羽の髪を、梳くように撫でる。
「私、頑張ったんだよ」
暫くすると感情がある程度落ち着いたのか、美羽がぽつりと零した。
強い拗ねが込められた言葉に、撫でる手つきをより柔らかくする。
「ああ。嫌だって言う所、ちゃんと見てたよ。よく頑張ったな、美羽」
「じゃあ、ご褒美をちょうだい。おじいちゃんだけじゃなくて、私も甘やかして」
「もちろんだ」
どういうご褒美が欲しいのか、言わずとも分かった。
少しだけ体を離して美羽の顎を軽く掴み、上を向かせる。
すると、幼げな顔から一瞬で不機嫌さが抜け、瞳が期待に潤んだ。
「ん……」
唇と唇を合わせ、美羽の感触を味わう。
ここで終わるかと思ったのだが、美羽がぐいぐいと体を押し付けてきた。
勢いに押され、ベッドに倒れ込む。
ミルクのような甘い匂いが強く香り、悠斗の心臓が跳ねた。
「……美羽?」
悠斗の声も聞かず、美羽が悠斗の腹に乗る。
ようやく見えたはしばみ色の瞳には、どろどろとした熱の塊が秘められている気がした。
そして悠斗を見下ろす恋人が、妖艶に微笑む。
「ふふっ。ごほうび、いいよね?」
「え゛!? いや、丈一郎さんが居るだろ」
まさかここで体を求められるとは思わず、変な声が出てしまった。
丈一郎にバレては大目玉だと思うのだが、美羽は少しずつ顔を近付けてくる。
「どうせ酔っぱらって簡単には起きないよ。ね、いいでしょ?」
「いや、でもな――」
「じゃあ悠くんはジッとしてて。私が勝手にご褒美をもらうから」
美羽が眉を寄せ、唇を尖らせた。
一度だけ夢で見た光景と今の状況が重なり、下半身が反応してしまう。
密着している美羽が悠斗の反応を逃すはずがなく、興奮に淡く染まった頬が緩んだ。
「なぁんだ、悠くんもしたかったんだぁ。じゃあ、遠慮しないでいいよねぇ……」
「美羽、落ち着けって! せめて俺の部屋でだな――」
ここまで来て据え膳を食わないのもどうかと思うが、なけなしの抵抗を試みる。
しかし、幼げで綺麗過ぎる顔が視界を埋め尽くし、言葉が出なくなった。
「やぁだ。だって、悠くんの隣を勝ち取ったんだよ? 誰にも渡さないんだから」
日中の出来事が無事に済んだからか、先程まで美羽を放っておいたからかは分からない。
何にせよ、美羽に火がついたらしい。
情欲に染まった瞳が更に近付き、瑞々しい唇が悠斗のものに触れそうになる。
「それじゃあ、いただきまぁす」
貪られる事を覚悟した瞬間、唇と唇が再び触れ合った。




