第205話 実は一番立場が上の人
東雲家のキッチンから、調理の音が聞こえてきている。
これまでと同じなら、祖父と孫が仲良く調理していたはずだ。
しかし、その孫は悠斗の傍でそわそわと体を揺らしている。
今にも手伝いに行きそうな美羽へ、苦笑を向けた。
「丈一郎さんが言い出した事なんだし、そんなに気にしても仕方ないって」
迷惑を掛けたお詫びという事で、今日は東雲家で晩飯を摂る事になった。
それだけでなく、丈一郎が一人で作ると言い出したのだ。
悠斗は料理が出来ないので素直に甘えたものの、美羽は最初抵抗していた。
しかし、結局は丈一郎の頑固さに美羽が折れ、リビングに待機している。
悠斗の言葉にある程度は納得したようだが、端正な顔に呆れた風な笑み浮かんだ。
「そうだけど、そんなに気に病まなくてもいいのになぁ……」
「こうでもしないと、丈一郎さんの中で気持ちの整理が付かないんだろ」
「それは分かってるんだけどね。でも、おじいちゃんのお陰で私がここに居られるっていうのを、もっと分かって欲しいの」
「俺や美羽の言葉はあの人に届かなかったからなぁ」
いくら美羽が嫌だと言った所で、最終的な決定権は親にある。
ましてや、たかが彼氏の言葉など何の意味もなかった。
役に立った事と言えば、生意気な態度で仁美の考えを引き出した事くらいだろうか。
今回は丈一郎が口を挟める状況だった事もあるが、美羽が東雲家に居られるのは、間違いなく丈一郎の功績なのだ。
(……でも、そんな簡単に割り切れるものじゃないよな)
あえて丈一郎を悪く言うなら、仁美があのような性格になった事、悪い男に捕まったのは、丈一郎の教育が原因だ。
それだけでなく、美羽が子供の頃に苦労した事や、約一年前まで家に帰る事が気まずかった事も、丈一郎のせいと言えるかもしれない。
もちろん、全ての元凶が丈一郎と言うつもりはないし、抱え込まなくとも良いのだが、そう簡単に割り切れないのが祖父という存在なのだろう。
ならば、今は丈一郎のやる事に手を出さない方が良い。
「だから、後でまたお礼を言わないか? 俺だってまだまだ丈一郎さんにお礼を言いたいんだからな」
「……うん。そうだね」
美羽とて、丈一郎が一度決めた事を決して譲らないのは分かっている。
渋々ながら頷いた美羽の頭を撫でていると、ふとある案を思いついた。
「そうだ。折角だし、今日は――」
美羽に説明すると、はしばみ色の瞳が嬉しそうに細まる。
「おじいちゃんを放っておけないし、悠くんさえ良ければお願いしたいな」
「そうと決まれば、早速準備してくるよ」
「うん、気を付けてね」
大した距離ではないし、準備する物も多くない。
美羽をリビングに残して、キッチンに居る丈一郎へと声を掛ける。
「少し出てきます。すぐに帰って来ますので」
「気を付けるんだぞ」
簡素な言葉だが、そこには悠斗を心配する気持ちが込められていた。
美羽と全く同じ心配をされ、やはり祖父と孫なのだなと頬が緩む。
事故などほぼ起きないと思うが、優しい二人を悲しませてはならないと、気を付けつつ芦原家に帰るのだった。
「ごちそうさまでした。やっぱり丈一郎さんのご飯は絶品ですね」
相も変わらずの美味し過ぎる料理を平らげ、作り主へ賞賛の言葉を送る。
普段であれば鼻で笑われそうなものだが、今日は代わりに何とも言えない苦笑を向けられた。
「……まあ、あれだけ美味そうに食べていたのだから、嘘ではないのだろうな」
「お世辞なんて言うつもりはないですよ。それと改めて、ありがとうございました、丈一郎さん」
「本当にありがとう、おじいちゃん」
美羽と二人して頭を下げると、丈一郎の顔が泣きそうに歪む。
「礼など必要ない。儂はただ、美羽に選択を委ねただけだ。成長したな、美羽」
「成長出来たのは、悠くんと一緒に居る事をおじいちゃんが許してくれたからだよ」
「……ならいい」
今の状況は丈一郎の力があってこそだと実感出来たのか、しわがれた頬に僅かだが笑みが浮かんだ。
少しだけ軽くなった空気に、ここが切り込み所だと口を開く。
「折角ですし、今日はこっちに泊まっても構いませんか?」
「そうは言うが、準備など何もしていないだろう?」
「大丈夫です。もう準備は出来てますから」
リビングの端に置いてある、少し大きめの鞄を指差した。
してやったりと笑顔を浮かべれば、丈一郎に呆れたと言わんばかりの視線を向けられる。
「何かと思えば、着替えだったのか。……好きにしろ」
既に準備を終えているこの状況で、断るに断れなかったのだろう。
やれやれと肩を落としつつも頬を緩める丈一郎に、再び頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ふん。孫とその彼氏に気遣われるとはな」
普段の調子をある程度取り戻したようで、丈一郎に鼻で笑われた。
美羽と悠斗の思惑が完全に把握された事で、二人して苦笑を浮かべる。
「ははは……」
「え、えへへ……」
「まあいい。ならば、今度の晩酌は悠斗に付き合ってもらうとするか」
どうやら、今日は酒を飲みたい気分らしい。
しかも以前正臣と結子が来た時とは違い、今日は悠斗が晩酌の相手をしろとの事だ。
おそらく、悠斗と美羽に気遣われた照れ隠しもあるのだろう。
普通の人ならば嫌と思うかもしれないが、悠斗からすればむしろ望むところだ。
「はい。お酒は飲めませんが、いくらでも」
「私も私も!」
当然のように美羽が手を挙げるが、何となく丈一郎は望まない気がする。
ちらりと視線を移せば、美羽に似た赤茶色の瞳と目が合った。
「「……」」
何とかして止めさせろ、という丈一郎の意志が伝わってくる。
前回正臣と飲んだ時は美羽に引かれたので、今回は酔った姿を見せたくないのだろう。
目だけで丈一郎との会話を行い、華奢な肩に手を置く。
「美羽は部屋に居てくれ」
「なんでー!? おじいちゃんと悠くんだけずるい!」
案の定、美羽が不満をこれでもかと露わにし、猛抗議してきた。
流石にまずいと思ったのか、丈一郎が助太刀に入ってくれる。
「こういうのは、彼氏の役目なのだ」
「でも、前は結子さんも居たじゃない!」
「……娘の彼氏側の役目なのだ」
「そんなの屁理屈だー!」
「う……」
微妙に言葉を変えたものの、それで美羽が納得するはずもない。
頬を膨らませる美羽に、丈一郎が冷や汗を流す。
そして、視線で悠斗に助けを求めてきた。
ある意味この家で一番権力のある女性へは、誰も頭が上がらないらしい。
「美羽だって、俺がリビングに居ない時に父さんや母さんと何か話してただろ? あれと同じだ」
今の状況と似ていて、しかも逆の立場だった事は何度もある。
もちろん怒るつもりはないが、美羽の性格からすると開き直れないはずだ。
少し狡くはあるものの、悠斗の予想通り、美羽がぐっと言葉を喉に詰まらせた。
「う゛ー」
潤んだ瞳で唸り声を上げられ、あまりの可愛らしさに意思がぐらついてしまう。
しかし、ここで折れる訳にはいかない。
「という訳で、今日は俺の番だ」
「……分かったよぅ。でも、ちゃんと覚えておくからね」
「覚悟しておくよ」
後で何か報復をされるのか、それとも今度両親が帰ってきた時に何か企むのだろう。
そうであっても、その時の悠斗が頑張ればいいだけだ。
未来の悠斗へ問題を丸投げし、肩を竦めるのだった。




