第204話 娘の意思
「……何ですって?」
美羽が逆らうと思わなかったのか、仁美が目を見開いて驚愕を顔に張り付ける。
その後、美羽に似た顔はみるみるうちに、不機嫌さを隠さない表情となった。
「もう一度言うわ。美羽、行くわよ」
「お断りします。私の家はここで、私の居場所は悠くんの隣ですから」
毅然とした態度で自らの考えを口にし、子供が母親に反論する。
感情が溢れてきたのか、仁美が美羽を睨みつけた。
「誰が美羽をそこまで育てたと思ってるの? 恩を仇で返すつもり?」
「それについては感謝しています。お母さんのお陰で、私は芦原悠斗くんという最高の恋人を見つける事が出来ましたから」
「最高の恋人? まあいいわ。なら――」
「ですが、お母さんは私を厄介者として扱い、おじいちゃんに引き取らせました。ならば今の私は、私がやりたいと思った事をします」
澄んだ瞳が、憤怒の表情の母親をまっすぐに見つめる。
小さな体のはずなのに、今の美羽は悠斗よりも大きく見えた。
美羽を厄介払いした事について突かれ、仁美が僅かにたじろぐ。
「……っ。それで納得出来る訳ないでしょ?」
「ご不満なら、私に使ったお金を返済しましょう。社会人となれば働けますから。それとも、自分の為に働けと高校を中退させますか? そうなった場合、私は周囲に事情を言いふらしますよ」
まさかそこまでの覚悟をしているとは思わず、背筋を伸ばして座っている恋人の顔色を窺う。
すると、美羽が一瞬だけ申し訳なさそうに表情を曇らせた。
しかし、すぐに真剣なものへと切り替え、はしばみ色の瞳に絶対に譲らないという強い意思を灯す。
「う……」
脅しとも取れる発言を受け、仁美が言葉を詰まらせた。
会話が止まった事で、丈一郎が大きく咳払いする。
「働いて金を返す必要も、高校を中退する必要もない。美羽が選んだ事は儂の選んだ事だ」
おそらく、この場で一番の立場を持つであろう人の、呆れ交じりの声がリビングに響いた。
丈一郎が美羽の味方をした事で、仁美の顔が驚愕に彩られる。
「お父さんは美羽の味方をするの!?」
「儂は娘と孫、どちらの味方でもある。だがその前に、儂は美羽の教育を任された身だ。美羽が嫌がる事はさせられん」
「私の子供の世話はどうなるの!?」
金切り声を上げる仁美を、怜悧な瞳が見据えた。
圧力すら感じる眼光に、仁美がびくりと体を震わせる。
「子供の世話は親がするものだ。それが、子を作る親の責任というものだろう。厄介払いした美羽を引き戻してまで、子育てを手伝わせる事は認めん」
「そんな……」
「これは美羽が自分の意志で選んだ事であり、儂の決定だ。美羽はお前の元に行かせない」
遠雷のような声に断言され、仁美が頬を引き攣らせる。
しかし、濁ったはしばみ色の瞳には未だに昏い光が灯っており、まだ食い下がるつもりのようだ。
「……美羽がこいつの所に行くのはいいのかしら? 聞けば、こいつの家に泊まっているんでしょう? そんなの大問題じゃない」
どうやら美羽が悠斗の家に泊まりに行っている事を、丈一郎から聞いたらしい。
高校生二人が親の目の届かない所で自由にしている現状を突き、悠斗達の負い目を引き出すつもりなのだろう。
分が悪くなれば全く別の話から切り崩すという意地の悪さに、ひっそりと溜息を零した。
(そんなの今は関係ないってのに。というか、名前で呼ばれなくなったなぁ……。美羽も滅茶苦茶怒ってるし)
ついに悠斗の三人称が「こいつ」となった事で、美羽も我慢出来なくなったようだ。
先程までは必死に無表情を取り繕っていたが、今は眉を顰めて瞳に怒りを灯している。
しかし口を出すべきではないと静かにしており、代わりに丈一郎が険しい表情で口を開く。
「儂も許可して、悠斗の両親にも許可をもらっている。それに、儂も悠斗の両親も偶に様子を見ているのだ。ならば問題はあるまい?」
「信用出来ないなら、今から両親へ電話を掛けますが?」
こうなる事など全く予測していなかったので、両親は戸惑うだろう。
しかし、必ず悠斗と美羽の味方をしてくれるはずだ。
最後の抵抗も虚しく終わり、仁美が顔を俯ける。
「……こんなの、おかしいわ。美羽が反抗するのも、お父さんが私に味方しないのも変よ」
淡い栗色の髪の隙間から、呪詛のような言葉が呟かれた。
背中を悪寒が駆け巡り、手にじっとりとした汗が滲む。
そしてついに仁美が顔を上げ、悠斗を鋭く睨みつけた。
「……あんたのせいね? 美羽が私に逆らうのも、お父さんが美羽の味方をするのも、全部あんたのせいでしょ!?」
「っ!」
大人の女性からの凄まじい悪意に、勝手に体が震えてしまう。
しかし、悠斗は間違った事などしていない。美羽が嫌がる事をさせるのは、例え母親であっても許されないのだから。
この女性には負けられないと、弱気になる心を抑えつけて仁美を見据える。
「俺は何もしてませんよ。これが美羽の本心で、丈一郎さんの想いなだけです」
「ふざけないでよ! 美羽はこれまで私の言う事を全部聞いてたのよ!? それが変わったのなら、あんたしかいないじゃない!」
「それがどうかしましたか? 何にせよ、美羽が東雲家に留まる事は決定したんです」
「屁理屈を捏ねないで! 勉強も運動も、何一つ出来ないくせに!」
娘を物同然に扱うこの母親には、言いたい事が山ほどある。
しかし、ここで言い合いをしても話は何も進まない。
そう頭で分かってはいても、無茶苦茶な事を言われて、堪忍袋の緒が切れた。
いい加減怒鳴ろうと口を開こうとすれば、美羽に手で遮られる。
「美羽?」
「お母さん。先程の言葉は取り消してください」
不自然な程に抑揚のない声を、美羽が発した。
悠斗からすれば、美羽がいつ爆発してもおかしくはないのが分かる。
しかし、今の仁美にとっては、単に娘が気に入らない態度を取っただけのようだ。
怒りに染まった目を、今度は美羽へ向ける。
「私の言う事に従わないくせに、文句は言うつもり!?」
「いいから、悠くんへの暴言を取り消して!」
今まで一度も聞いた事のない、美羽の悲痛な声がリビングに響いた。
娘の怒りに考えを変えるかと思ったが、母親は顔を真っ赤にして口を開く。
「ふざ――」
「そこまでだ!」
鋭い雷のような声に、美羽と仁美の会話が途切れた。
会話を止めた丈一郎が、憤怒を込めた瞳を我が子へ向ける。
「仁美、いい加減にしろ。美羽の彼氏というのを抜きにしても、他人を馬鹿にするのは許さん。悠斗へ謝れ」
「でも――」
「謝れと言ったのが聞こえないのか!」
「っ!」
やはり丈一郎には逆らえないようで、仁美がびくりと肩を震わせた。
娘と同じ年齢の子供に頭を下げるのは不服のようで、瞳には未だに苛立ちが秘められている。
しかし再び丈一郎に意見する気はないらしく、ゆっくりと頭を下げた。
「………………ごめんなさい」
「……いいですよ」
許せないと口にするのは簡単だが、それよりも話を先に進めたい。
胸に渦巻く黒い感情に蓋をし、仁美へ問いかける。
「それで、言う事を聞かないと美羽を非難した貴女が、今度は父親である丈一郎さんの決定に逆らうんですか?」
「……それは」
そんな事をすれば、美羽を非難する大義名分がなくなってしまう。
どうにも出来ない事を悟ったのか、仁美が憎々し気な表情で歯ぎしりした。
しかし、彼女はそれ以上何も出来ない。
話が膠着すると、今までほぼ黙っていた透が大きな溜息をついた。
「もういい。駄目だったのなら、話は終わりだ」
「っ!? と、透さん!? ごめんなさい!」
仁美が青い顔で透に頭を下げる。
謝罪されたにも関わらず、透は何の感情も浮かんでいない顔を仁美へ向けた。
「子供はお前が育てろ。作る時の約束通りな」
「……分かったわ」
どうやら、この二人の間にも何かしらの思惑があったようだ。
少しだけ気にはなるものの、聞いてどうにかなるものでもない。
黙って二人の様子を眺めていると、仁美が頷いたのを確認して透が立ち上がった。
「帰るぞ。お義父さん、お邪魔しました」
血の繋がった娘が出来るというのに、先程から透の態度はどこか他人事のように思える。
気味の悪さを感じていると、丈一郎が透へ憐憫の目を送った。
「間違ってばかりの儂からの、せめてもの助言だ。そんな態度を取っていれば、いつか儂のように痛い目を見るぞ」
「ご心配なく。既に双方が納得の上ですので」
丈一郎の忠告は全く響いていないらしく、透が張り付けたような笑みを浮かべる。
どうにもならないと思ったようで、溜息をつきつつ丈一郎が仁美へと視線を移した。
「では、次に仁美だ。儂の古臭い考えを捨てろ。そうでなければ、幸せな家庭など築けん」
「何を言ってるの? 私は教えられた事をしているだけよ」
「…………そうか。何にせよ、お前が幸せな家庭を作れるのを願っているぞ」
今回は敵対してしまったが、丈一郎は仁美の父なのだ。
仲が拗れたとはいえ、娘の幸せを願っているのだろう。
痛々しい苦笑の丈一郎が告げた言葉に、仁美が一瞬だけ目を見開く。
しかし、すぐに不機嫌そうな顔になった。
「帰るわ」
「気を付けてな」
透と仁美がそそくさとリビングから去っていく。
透が話し始めてから、二人は一度も美羽と悠斗へ視線を向けなかった。
おそらく、我儘な娘とその傍に居る気に食わない彼氏など、もう欠片も興味ないのだろう。
玄関の扉が閉まる音が聞こえ、丈一郎が大きな溜息を吐き出した。
「……娘が迷惑を掛けた。すまん、美羽、悠斗」
「そんな事ないよ。私の居場所を私の意思に委ねてくれて、ありがとう」
「そうですよ。俺一人じゃ絶対に何も出来なかったですし、丈一郎さんが居てくれたからこそ、美羽がここに居られるんです。本当に、ありがとうございました」
今日一番の功労者に、美羽と共にお礼を告げる。
少しは気持ちが和らいだようで、しわがれた頬に笑みが浮かんだ。
「ならいい。全く、どうしてあの子はああいう男に捕まるのやら。……いや、それも儂のせいだな。本当に、見る目がない」
普段なら伸びている背筋を曲げ、丈一郎が肩を落とす。
その姿は哀愁が漂っており、先程まで見せていた屹然とした態度は見る影もない。
「それに、悠斗へあれほどの暴言を吐くとはな……。墓参りもせずに帰るのも含めて、ああいう風に変わってしまったのも、儂のせいなのだろう」
「違う! おじいちゃんのせいなんかじゃない! あれはお母さんが悪いんだよ」
美羽が声を張り上げ、席を立つ。
丈一郎の傍まで来ると、その胸に勢い良く飛び込んだ。
「悠くんの傍に居させてくれてありがとう! 怒ってくれてありがとう! 私は、おじいちゃんの孫である事を誇りに思うよ!」
「そうか。………………そうか」
満面の笑みを浮かべて告げられた言葉に、丈一郎の顔が泣きそうに歪む。
細く皺の多い腕が、美羽をしっかりと包み込んだ。
俯いた顔に、一筋の涙が流れる。
「すまんなぁ……。儂のせいで、仁美にも、美羽にも、苦労を掛けて。儂は、儂は……」
震える声が、リビングに響く。
その言葉一つ一つに、美羽が頷きを返すのだった。
 




