第203話 歪んだ考え
「……ごめんね」
盆の中日である八月十四日。昨日美羽から伝えられた通り、東雲家に来ている。
普段であれば穏やかな空気を纏う美羽は、家に着くまで無言で顔を俯けていた。
ようやく隣から聞こえて来た消え入りそうな声に、明るい笑顔を作る。
「美羽が謝る事じゃないだろ? それに、こういう呼び出しは二度目なんだ。さっさと顔合わせを終わらせて帰ろうぜ」
本人はどう思っているか分からないが、仁美は美羽を捨てたのだ。
にも関わらず、美羽とその彼氏である悠斗を呼び出している。
理由はさっぱり分からないものの、この邂逅を美羽は望んでいない。
ならば悠斗に出来るのは、背を伸ばして彼氏として美羽の隣に立つ事だろう。
息を吐きつつ気の抜けた笑みを見せれば、美羽が泣きそうに顔を歪ませた。
「悠くんは強いねぇ……」
「そんな事はないんだけどな。でも、そう見えてるなら、それは隣に美羽が居てくれるからだ」
この件に関して、悠斗とて何も思わない訳がない。
緊張と怒りで指先は震えてるし、既に喉は乾いている。
だが、下手な事をすれば、今の美羽との暮らしが無くなるだろう。
そんな恐怖と隣り合わせだからこそ、美羽の存在が大切だからこそ、こうして強がっていられる。
自信満々に告げると、美羽が澄んだ目を大きく見せた。
少し青かった顔色が、僅かに血色良くなる。
「安心してくれ。何があっても俺は美羽の味方だ。もちろん丈一郎さんもだろうし、離れたりしないからな」
悠斗は当然として、丈一郎も美羽の味方をしてくれるはずだ。
ならば、恐れる事は何も無い。
淡い栗色の髪を一撫ですると、美しい顔がみるみるうちに覇気を取り戻していく。
「……私も、悠くんと離れたくない。だから頑張る!」
「その意気だ。それじゃあ、行くぞ」
「うん!」
気持ちを確かめ合い、東雲家の呼び鈴を鳴らす。
美羽が鍵を持っているので、普通ならそれを使って入ればいい。
しかし、我が物顔で入って来た悠斗を仁美は歓迎しないはずだ。
迎えが来るのを待っていると、ゆっくりと足音が近付いてくる。
扉が開いた先には、迫力すら感じる程に険しい顔をしている丈一郎がいた。
「こんにちは、丈一郎さん」
「ただいま、おじいちゃん」
「……上がれ」
怜悧な目を鋭くし、丈一郎が背を向ける。
初対面の頃のような丈一郎に、苦笑を落とすのだった。
リビングに入ると、にこやかな笑顔を浮かべる男性と、悠斗を値踏みするような視線の女性が居た。
女性の方は美羽と同じ淡い栗色の髪を肩まで伸ばしており、どことなく美羽に似ている。
視線の質が違えば、美羽とそっくりなのだろう。
「座れ」
「「はい」」
丈一郎に促され、二人の前に美羽と座る。
丈一郎はというと、テーブルを挟んでちょうど彼等と悠斗達を二分するように座った。
「初めまして。東雲美羽さんとお付き合いさせていただいている。芦原悠斗です」
すぐに頭を下げて挨拶すると、女性の表情が僅かに和らぐ。
男性はというと、ほんのりと微笑を浮かべているだけで、何の反応も示さなかった。
「東雲――いえ、佐竹仁美よ。こちらは旦那の佐竹透。よろしくね」
「よろしく、芦原くん」
流石に紹介されたら無視してもいられなかったようで、透が小さく頭を下げる。
ただ、その視線は悠斗を見ているようで見ていない。
(多分、この人は俺に興味がないんだろうな。なら、やっぱり目的は美羽か)
この中で一番繋がりがないのは悠斗と透なので、無関心な態度を取りたいのは分かる。
露骨な無視をされないだけ、良い待遇なのだろう。
悠斗の自己紹介が終わった事で、次は美羽が頭を下げる。
「お久しぶりです、お母さん、透さん」
「ええ。本当に久しぶりね、美羽」
「久しぶりだね、美羽さん」
二人の表情は悠斗の時よりは感情を込めた笑顔なのだが、どこか張り付けたような笑みだ。
取り敢えずの挨拶を済ませると、仁美が悠斗へ視線を向けながら、ゆっくりと口を開く。
「芦原くん。あなたの学校の成績はどれくらい?」
「最近のテストでは、四十六番でした」
「……スポーツは?」
「バレーを少しだけ。それ以外は苦手ですね」
「分かったわ」
仁美の視線の質が変わり、目の奥に失望の色が灯った。
おそらく、仁美が納得出来るだけの能力を、悠斗が持っていなかったからだろう。
露骨に向けられた悪感情に胸が少しだけ痛んだが、必死に表情に出さないようにする。
そして悠斗が失望された事で、美羽の顔に一瞬だけ怒りが浮かんだ。
しかし、ここで話をややこしくする訳にはいかないと思ったのか、ぐっと言葉を飲み込んでいる。
「早速だけど、美羽を引き取る事にしたわ」
もう興味はないという風に悠斗から視線を外し、仁美が衝撃的な言葉を口にした。
美羽が動揺して息を呑み、顔に絶望を宿す。
悠斗も驚いたが、今の状態の美羽は会話出来そうにないので、代わりに口を挟ませてもらう。
「その理由は?」
「私、一ヶ月前に妊娠したのよ」
「……そうですか。おめでとうございます」
「…………おめでとうございます、お母さん」
あまりに脈絡のない会話に眉をひそめるが、妊娠自体は良い事だ。
取り敢えず祝いの言葉を送れば、美羽も悠斗に続いた。
とはいえ綺麗な横顔は完全な無表情で、喜びを感じられない。
その反対に、テーブルの下の小さな手は、震える程に握り締められている。
(まあ、そりゃあそうだよな)
連れ子が嫌だからと美羽を捨てたのに、気付けば新しい子を身ごもっているのだ。
美羽の立場からすれば、激怒してもおかしくはない。
そうしないのは、怒った所で意味がないからなのだろう。
美羽の簡素な言葉に仁美が眉を一瞬だけ顰めたが、すぐに表情を和らげる。
「それで、折角子供が出来たんだし、美羽にお世話してもらおうと思うの。そうなると、美羽はここには居られないでしょう? その事情を芦原くんにも分かってもらう為に呼び出したの」
「……」
あまりにも無茶苦茶な理論に、呆けたように仁美を見つめた。
美羽と同じはしばみ色の瞳は澄んでおり、自分が言った事を正しいと思い込んでいるように見える。
丈一郎へと視線を映せば、小さく頷かれた。
この場での一番立場が上の人が許可したのならと、大きく首を振る。
「分かりません。理解出来る訳がないでしょう」
「理解しなさい。透さんの足元にも及ばない学力に低い運動能力。そんな人が意見できる状況じゃないの」
「それは今関係ないのでは?」
「じゃあハッキリ言いましょうか。家族の話に他人が口を挟まないでくれるかしら」
「こ、の……っ!」
呼び出したのは仁美のはずなのに、その上で意見するなというのは暴論過ぎる。
おそらく、仁美としては何の価値もない男の言葉など、聞くに値しないという事なのだろう。
もしくは、夫や父を立てはするものの、娘の彼氏を立てる理由はないという事だろうか。
有無を言わせない強い口調に、怒鳴りそうになってしまった。
必死に感情を落ち着かせていると、悠斗が理解したと勘違いしたようで、仁美が勝ち誇ったような笑みになる。
「あなたの立場はこの場で一番低いのよ。何も言わずに従いなさい」
「……それなら、俺の事は良いです。でも、丈一郎さんの言葉によれば、貴女は美羽の教育を丈一郎さんに一任したはずでは? その意思に逆らって連れて行くのは駄目だと思うんですが」
悠斗の想いを口にする権利がないというのなら、疑問を解消するくらいはいいはずだ。
さんざん虚仮にされているのだから、口答えくらいはさせてもらおう。
悠斗の言葉に、仁美が不快そうに顔を歪ませる。
「……そうでもないわ。お父さんは『美羽の好きにさせる』って言ったもの。ほら、連れて行っていいじゃない」
「はぁ……」
丈一郎さんの言葉の意味は「美羽が行きたくないのなら、行かなくとも良い」というもののはずだ。
それが仁美の中で「丈一郎が許可したのなら連れて行っても良い」という風に歪曲されている。
あまりにも自分勝手な理論に溜息をつけば、視界の端で丈一郎もひっそりと息を吐き出した。
「では次です。子供の世話というのは、貴女がすればいいのでは? なぜ美羽を連れ戻すんですか?」
子供が出来たのなら、三人で仲良くやればいいだけだ。
わざわざ子育ての為に、美羽を連れ戻す理由はない。
だが、仁美の中ではきちんと理由付けがされているようで、呆れたという風に首を振られた。
「子育ての苦労も知らない子供が、偉そうに言わないでくれるかしら? 私だって丸一日お世話出来る訳じゃない。でも美羽の力があれば、最初は上手く行かなくても楽になるわ」
「それは――」
都合の良い道具ではないか、という言葉を必死に飲み込む。
口に出してしまえば、我慢していた感情が溢れ出してしまいそうだから。
しかも、仁美は「最初は上手くいかない」と言っていた。
おそらく、美羽はお世話が出来ないと高を括っているのだろう。
悠斗が口ごもったのを反論が出来ないと思ったのか、仁美が上機嫌な笑顔になった。
「透さんの許可は既にもらっているし、後は美羽を連れて行くだけ。さあ美羽、行くわよ」
もう悠斗と話す気はないようで、仁美が美羽に命令した。
恐怖すら覚える笑顔を向けられ、美羽がびくりと肩を震わせる。
おずおずと悠斗へ視線を映したはしばみ色の瞳は、不安に揺れていた。
(大丈夫、怒られても俺がついてる)
幼い頃に仁美に怒られたせいで、口答えする事に恐怖があるのだろう。
けれど、美羽はもう一人ではない。
小さく笑んで頷けば、潤んだ瞳に覇気が戻った。
今まで母親に従うだけだった子供が、まっすぐ母親に立ち向かう。
「お母さん。私は行きません」




