第192話 浴衣
時間はあっという間に過ぎ、昨日終業式を終えて、今日は蓮達と約束していた花火大会だ。
開催場所までは綾香が車を出してくれるようで、その前に悠斗と美羽は浴衣への着替えを行っている。
しかし、残念ながら悠斗は一人で着付けが出来ず、両親もまだ帰って来ない。
ならば、誰に着付けてもらうかというと――
「……すみません」
手際良く悠斗へ浴衣を着付けていく、しゃんと背中を伸ばしている老人へと謝罪する。
蓮に頼んでも良かったのだが、昨日のうちに美羽から提案されていたのだ。
曰く、丈一郎が「一人も二人も変わらん」と言っていたらしい。
素直に甘えてもいいのか悩んだものの、一番頼れる人なので、こうして提案を受け入れている。
「気にするな。浴衣を一人で着るのは難しいからな。若い子に一人で着られる人はそうおらん」
丈一郎が鼻を鳴らして目を細めた。
今から悠斗が美羽と一緒に花火大会に行くにも関わらず、丈一郎のテンションが妙に高い。
悠斗が信用されているという事もあるだろうが、それにしても上機嫌な気がした。
「何か、機嫌が良くないですか?」
「美羽が悠斗以外の友人と遊びに行くのだ。しかも余程仲が良いのだろう?」
「そうですね。多分、俺以外となると一番仲が良いと思います」
彼氏である悠斗は例外としても、綾香や紬、蓮や哲也は、現状では美羽の最も親しい友人だろう。
最近ではクラスメイトともある程度仲良くしているが、どうしても綾香達には劣る。
悠斗が断言した事で、丈一郎の唇が大きな弧を描く。
「美羽にそれほどまでの友人が出来たのだ。今まで美羽を見てきた祖父として、これほど嬉しい事はない」
「そういう事ですか。美羽は、皆と凄く楽しそうに過ごしていますよ」
いくら悠斗という彼氏が居ても、友人が居ないという状況を、丈一郎は気にしていたらしい。
以前からある程度は美羽も話していただろうが、花火大会に行くほどの関係と分かった事で、安心したようだ。
ただ、丈一郎はすぐに眉を不機嫌そうに下げる。
「それなら良い。しかし、花火大会が終わった後にするのだろう?」
「……何で知ってるんですか?」
しわがれた表情の奥に潜む赤茶色の瞳は、恐ろしい程に真剣で、嘘や誤魔化しが出来なかった。
とはいえ、丈一郎が知っている事に疑問を覚える。いくら何でも、美羽が言うとは思えない。
頬を引き攣らせて尋ねると、丈一郎が重い溜息を吐き出した。
「最近の美羽はどうにも浮かれていたし、今日は明らかに挙動不審だった。それだけなら分からなかったが、時折頬を赤くして笑っていたからな。流石に気が付く」
「…………怒りますか?」
丈一郎の前で取り繕えない程に、美羽は今日を楽しみにしてくれていたらしい。
花火大会もそうだが、丈一郎の口ぶりからすると、その後もだろう。
恋人の祖父にバレるという、彼氏として最大の失態に逃げ出したくなる。
しかし、ここで背を向けるのは誠実ではない。
着付けをしてもらっている立場でもあるので、真っ直ぐに丈一郎を見つめた。
丈一郎はというと、凄みのある無表情で悠斗を眺める。
「……」
美羽に似たはしばみ色の瞳には、怒りや悲しみなど、様々な感情が浮かんでいた。
緊張で心臓の鼓動が激しく、手の平がじっとりと汗ばんでいるのが分かる。
それでも目を逸らさずにいると――
「………………ふん」
丈一郎が鼻を鳴らし、仕方ないなあという風に苦笑を浮かべた。
「一方的ではなくお互いに納得しているのだ。怒る理由も、止める理由も無い。それに、儂が以前言っていた事が来ただけだ。覚悟はしていた」
「……ありがとうございます」
付き合ったという報告の際に、丈一郎からは心臓に悪い発言をされていた。
その時が来たのだと、寂しさを押し殺した表情の丈一郎に感謝を告げる。
すると、丈一郎は怜悧な瞳を悠斗へと向けた。
「上手くいかなくとも良い。それでも、美羽にとっては一生に一度なのだ。大切にしてやれ」
「分かっています。出来る限りの事はしますよ」
悠斗が考えていた事を丈一郎に告げられ、より身が引き締まる。
大きく頷けば、ちょうど着付けが終わったようで、ぽんと頭を軽く叩かれた。
「頼むぞ。……美羽の方が終わるまで、ゆっくりしていろ」
「はい。ありがとうございました、丈一郎さん」
美羽の自室へと向かっていく丈一郎へ、深く頭を下げる。
悠斗を認めてくれたとはいえ、やはり寂しさは消えないらしい。
少しだけ曲がった背中の老人は、悠斗へ何も言わずにリビングから去るのだった。
東雲家のリビングで暫く待っていると、丈一郎が戻ってきた。
しかし美羽はリビングに来ず、どうやら玄関でお披露目したいとの事らしい。
駄々を捏ねる理由もないので、綾香が来るまで待っていると「もうすぐ着く」と蓮から連絡があった。
美羽より先に外に出て、東雲家の玄関に背を向ける。
「お、お待たせ……」
扉が開く音をあえて無視していると、じっと待つ悠斗へ恥じらいを込めた声が掛かった。
ようやくかと期待に心を弾ませつつ、ゆっくりと振り返る。
そこには、誰もが視線を向けるだろう美少女が居た。
「……どうかな?」
淡く頬を染め、瞳を潤ませる姿は、抱き締めたくなる程に可愛らしい。
普段は流している淡い栗色の髪は簪で纏められており、普段とは違う上品さと綺麗さを醸し出す。
そして綾香達と買ったという、桃色の布地に花をあしらった浴衣は、何も声が出ない程に似合っていた。
「……」
「あの、悠くん?」
「……」
「悠斗。見惚れるのも良いが、褒め言葉くらい送ってやれ」
「……え!? あ、あぁ! そうですね!」
美羽の戸惑いの視線と、丈一郎の呆れたと言わんばかりの声に、ようやく我に返る。
折角恋人が着飾ってくれたのだ。褒め言葉を送るのは、彼氏の役目だろう。
あまりの綺麗さにざわつく心臓を抑え込み、改めて美羽を真っ直ぐに見つめる。
「き、綺麗だ。上手く言葉が出て来ないけど、本当に綺麗で、可愛くて、似合ってるぞ」
口ごもりそうだったが、何とか気持ちを言葉にすれば、美羽が愛らしい瞳を輝かせて幸せそうに目を細めた。
「えへへ……。そんなに喜んでくれるなら、頑張ったかいがあるよ」
「ありがとな、美羽。正直、似合い過ぎて目に焼き付けたいくらいだ」
「そんな事しなくても、悠くんならいっぱい見ていいからね」
美羽がくるりと回り、簪に付けられた装飾が、しゃらりと小さな音を鳴らす。
再び美羽に見惚れる悠斗へ、とろりと蕩けた笑みが向けられた。
「それと、悠くんも似合ってるよ。凄く、かっこいい」
「……ありがとな」
心からの褒め言葉に、美羽に見惚れて熱を持った頬が更に熱くなる。
今すぐにでも抱き締めて頭を撫でたいのだが、折角おめかししてくれた髪や服を乱したくはない。
「盛り上がっている所申し訳ありませんが、迎えに来ましたよ」
ぐっと欲望を堪える悠斗の後ろから、涼やかな声が掛かった。
突然の声にびくりと肩を震わせ、後ろを振り返る。
黒色の浴衣と藤色の浴衣を着た美男美女が、生温い目で悠斗達を見ていた。
「お前は東雲の家の前でもいちゃつくのかよ……」
「う……」
「あう……」
「まあまあ。恋人の浴衣姿なんですから、仕方ありませんよ」
蓮達が来ている事に気付かず、お互いに褒め合っていた姿が見られていた事に、美羽と共に身を縮こまらせる。
そんな悠斗達を綾香が上品な微笑みで見つめ、綺麗な所作で頭を下げた。
「改めてこんばんは。美羽さん、悠斗さん」
「約束通り、迎えに来たぞ」
「こんばんは。綾香さん、蓮」
「二人共、こんばんは」
美男美女が着飾って集まると、ここだけ別世界のように思える。
全員が挨拶を終えて穏やかな雰囲気だったが、急に蓮と綾香の顔が引き締まった。
張り詰めた雰囲気の二人が、玄関に居る丈一郎へゆっくりと向かっていく。
「お初にお目にかかります。東雲美羽さん、そして芦原悠斗さんの友人の、風峰綾香です」
「同じく、元宮蓮です」
「東雲丈一郎だ」
深々と頭を下げた蓮と綾香の変わりように、流石の丈一郎も驚いたらしい。赤茶色の瞳を大きく見せている。
しかし動揺は表に出さず、簡潔に自己紹介を終えた。
「今日は丈一郎様の大切な孫娘である、美羽さんをお連れする事をお許し下さい」
「東雲に何かあれば、全力を尽くす事を誓います」
「……悠斗も居るから大丈夫だと思うが、美羽を頼む」
「「お任せ下さい」」
短く応えた蓮と綾香に頷きを返し、丈一郎が身を翻す。
そのまま扉を閉めるかと思ったが、僅かに振り返って小さく笑んだ。
「美羽、悠斗、それにお友達も、気を付けてな」
「はい。行ってきます」
「行ってきます! おじいちゃん!」
悠斗達の声を背に、丈一郎が扉を閉めた。
先程まで張り詰めた雰囲気を出していた二人が、急に穏やかな表情になる。
「さーて。それじゃあ行きますかね」
「はい。花火大会、楽しみましょうね」
「相変わらず、この二人の変わりようは凄いなぁ……」
「そうだねぇ……」
異常なまでに畏まる蓮と綾香に苦笑し、いつの間にか停めてあった高級車へ向かうのだった。