第179話 次の行事に向けて
聞き慣れた、鈴を転がすような声が悠斗の意識を引き上げる。
「起きて、悠くん」
美羽と別れる際のキスをした感触が忘れられず、昨日は夜更かししてしまった。
更に、五月半ばの陽気が容赦なく悠斗を二度寝へと誘ってくる。
もう少しだけ寝ていたくて、美羽に背を向けた。
「ふむ。今日はお寝坊さんだね」
思案するような声が耳に届いたが、今の悠斗には子守唄でしかない。
このまま微睡に身を委ねようと、少しずつ意識を手放していく。
そんな中、ベッドが軋む音がした。
もぞもぞと何かが近付いてきて、悠斗のものではない息遣いが聞こえ始める。
「でも、そんなに可愛い寝顔を見せられると、キスしたくなっちゃうよ? ふぅ――」
「うわぁ!?」
女をこれでもかと意識させる妖艶な呟きのみなら、心臓に悪いだけで済んだ。
しかし悠斗の耳を生暖かい吐息が掠め、跳ね起きてしまう。
「ななな何すんだ!?」
「悠くんがおねむなのが悪いんでしょ? 今度から、宣言無しでするからね」
美羽が悪戯っぽく微笑み、悠斗の文句を流した。
眠気は完全に吹き飛んでおり、二度寝はもう出来ない。
それに、弄ばれた事で悠斗の心臓がうるさいくらいに音を立てている。
必死に鼓動を抑えつつ、頭に浮かんだ疑問を口にする。
「……何を宣言無しでやるんだよ」
「さあ、何だろうね? 呼吸を出来なくしたら、起きると思わない?」
美羽に唇を塞がれて起きるのは幸福なのだろう。本心を言うなら、是非やってもらいたい。
けれど、息が苦しくなるまで唇を合わせ続けるのは過剰だ。
文句を言いたくなるが、すぐに起きなかった悠斗が悪いので、頭を下げて反省の意を示す。
「そうだけど、これからはちゃんと起きます」
「遠慮しないでいいんだよ? したくない?」
「したいかしたくないかで言えば、間違いなくしたい。でも、起きてからの方が美羽の感触が分かる」
「あ……」
雪のように白い頬に手を添えると、美羽が驚く程に大人しくなった。
それだけでなく、じわじわと頬を赤く染め、澄んだ瞳が期待で潤む。
昨日既に何回もしたが、それでも緊張で落ち着かない中、美羽と唇を合わせた。
「ん……」
美羽が気持ちよさそうに喉を鳴らし、力を抜いて悠斗へ凭れ掛かる。
寝起きに瑞々しい唇の感触を味わえて、幸福感に胸が満たされた。
一日中こうしていたいが、そうもいかない。名残惜しくはあるが、唇を離す。
ゆっくりと瞼を開けると、物欲しげな目が悠斗を見ていた。
「ゆー、くん。もう、いっかい……」
くいくいと悠斗の服を引っ張り、甘さを滲ませた声で美羽がおねだりしてきた。
可愛らしさの暴力で理性がぐらりと揺れ、流されそうになってしまう。
ぐっと奥歯を噛んで堪え、華奢な肩を掴んで体を離した。
「駄目だ。また後でな」
「あと一回。一回だけでいいからぁ……」
「俺もしたいけど、多分止まらなくなるだろ? 俺を起こしに来たのに夢中になってどうすんだよ」
美羽の善意に甘えておきながらおねだりを断る事に、罪悪感が沸き上がる。
しかし、ここで苦言を呈しなければ、下手をすると遅刻だ。
苦笑を浮かべて窘めると、美羽が不満そうに頬を膨らませる。
「うー。そうだけど……」
「俺は逃げないんだから、焦らなくてもいいって」
小さな頭を軽く叩いて励まし、ベッドから降りた。
流石にここまで来て駄々を捏ねるつもりはないようで、渋々ながら美羽もベッドから離れる。
寝起きからごたごたしていて忘れていたが、まずはここからだ。
「おはよう、美羽。起こしてくれてありがとな」
「うん。おはよう、悠くん」
もしかすると、これから寝起きにキスをするのが習慣になるかもしれない。
それもいいかと思いつつ、顔を綻ばせる美羽との朝が始まるのだった。
「はぁ……」
テストはとっくに終わっており、今の美羽は周囲に人が居ないので、本来ならば悩み事はないはずだ。
しかし学校から駅への道を歩く美羽が、悠斗の腕に寄り掛かりつつ重い溜息を零した。
「体育祭なんて無くなればいいのに……」
中間考査を終えると、学校が五月末の体育祭に向けて動き出す。
美羽にしては珍しい毒舌だが、美羽の運動能力からすれば当然だ。
「まあ、美羽は嫌だよな」
「うん。私にとって、学校で一番憂鬱な行事だからね。……悠くん達と敵になっちゃったし」
「それに関しては本当にくじ運がなかったな」
苦笑を落としつつ、腕に頬ずりする美羽の頭を撫でる。
悠斗達の高校は進学校なので、部活単位ならまだしも、学校全体で運動に力を入れている訳ではない。
そのせいで、体育祭は盛り上がりに欠ける行事だ。
ただ、それを何とかしたいのか、各クラスで紅白に分かれ、学校全体で点数を競うようになっている。
勝っても報酬はないので盛り上がる訳がないと思うのだが、駄々を捏ねても仕方ない。
そして、美羽は一人だけ紅組となってしまった。
「まあ、単に別れるだけだから気にすんなって」
「確かにそうだけど、一緒が良かったよ……」
いじらしい愚痴に心がくすぐられ、悠斗の唇が弧を描く。
しかし決まった事はどうしようもないし、この場で今以上に慰める事も出来ない。
せめて気を紛らわせようと、少しだけ話題を逸らす。
「それはそうと、丈一郎さんは見に来るのか?」
「ううん。二つの理由で来させないつもり」
「二つの理由? ……まあ、一つは予想がつくけどな」
運動が出来ないので、みっともない姿を見せたくないのは分かる。
しかし、もう一つの理由が思いつかなかった。
首を傾げれば、美羽が心配そうに顔を曇らせる。
「あえて言葉にはしないけど、一つ目は多分合ってるよ。二つ目は、おじいちゃんには移動が辛いだろうなって」
「ああ、そういう事か」
丈一郎の歳は聞いた事がないし、背筋が伸びているのでまだまだ元気だとは思うが、電車移動は酷だ。
確かに、美羽ならば何が何でも来させないだろう。
納得の意を示すと、今度は美羽がきょとんと首を傾けた。
「正臣さんと結子さんは?」
「こっちも来させないつもりだ。たった数回何かに出るだけなのに、出張先から戻って来させるのは申し訳ないからな」
体育祭で活躍などありえないし、共通の徒競走以外は目立たない種目に出るつもりだ。
そんな悠斗を応援などしなくともいいので、両親は何が何でも来させない。
美羽の様子を見たいが為に帰ってくるかもしれないが、美羽としても遠慮したいはずだ。
肩をすくめて応えると、美羽が寂しさと嬉しさを混ぜ込んだ複雑な笑みを浮かべる。
「そうなんだ……。正臣さんと結子さんに会えないのは残念だけど、二人きりだね」
「だな。これが一番良いんだろうけど、昼はどうしようか?」
体育祭の時に食堂は開放されるものの、料理の提供はしていない。
普段食堂を利用している悠斗達にとって、結構な痛手だ。
とはいえ弁当を買ってくればいいだけなので、困り果てる程ではないのだが。
ふと思いついた事を口に出しただけなのだが、美羽が瞳を輝かせた。
「なら、私が作っていい!?」
「……美羽が大変にならないならいいぞ」
料理が得意なのは分かっていても、美羽に二人分の弁当を用意させるのは心苦しい。
なので選択肢から外していたのだが、にこにこと満面の笑みで懇願されては拒否出来なかった。
一応の釘を刺すが、美羽は蕩けた笑顔で頷く。
「うんうん。大丈夫だいじょーぶ! 任せてね!」
「絶対頑張り過ぎるやつだな……」
体育祭の憂鬱を吹き飛ばせたのは良かったが、美羽の中で体育祭は悠斗に弁当を作る為のものに変わってしまったらしい。
明らかに弁当の量ではないものが出て来そうで、頬を引き攣らせるのだった。