第162話 友達
「わぁ、あの二人凄いね!」
「元宮は分かるけど、芦原が残るのは意外だったなぁ」
「でも芦原って確か元運動部でしょ? 体力あるんじゃない?」
「そっか。去年の球技大会活躍してたもんね」
スポーツテストの種目の一つである、シャトルランで男子が走っていると、美羽の周囲の女子が弾んだ声を上げた。
もう残り数人という状況で、お互いに好戦的な笑みで楽しそうに走っているからか、悠斗と蓮に注目が集まっている。
いくら毎日ランニングしているとはいえ、ここまで悠斗が頑張るとは思わなかった。
ただ、悠斗と蓮の様子を見る限り何かあったに違いない。
愛しい恋人が張り切る姿に笑みを零しつつ、女子の集まりからひっそりと抜け出して体育館の角へ向かう。
「隣いいかな、椎葉さん」
「う、うん。いいよ!」
美羽が隣に来ると思わなかったのか、紬がびくりと体を震わせつつ頷いた。
ここ数日、紬に話し掛ける度にこんな態度を取られている。
そんなに怖がらなくてもいいのにと苦笑を落とし、隣に座った。
わざわざ集団から外れてここに来たからか、紬が首を傾げる。
「あっちで芦原くんを応援しないでいいの?」
「もちろん応援するよ。でも、今は椎葉さんと話したいな」
頑張っている悠斗には申し訳ないが、今は紬とゆっくり話せる絶好のチャンスなのだ。この場を逃す訳にはいかない。
辛そうに眉を顰めつつも、唇に弧を描かせて走る悠斗を見ながら、ぽつりと呟く。
「椎葉さんだよね。悠くんに告白したの」
「っ! ご、ごめんなさい!」
紬が顔を青くし、思いきり頭を下げた。
何も悪い事などしていないと、ゆっくりと首を振る。
「謝らないで。むしろ、私はお礼を言いたかったの」
「お礼? 何で?」
「悠くんを見てくれた事のだよ。椎葉さんが居たから悠くんは前に進めたの。本当にありがとう」
紬には気の毒だが、結果だけを見れば紬が告白した事で悠斗は覚悟を決めてくれた。
あれが無ければ、悠斗はホワイトデーの学校で想いを伝えてくれなかっただろう。
もちろん他の要素もあるが、紬の件が大きな切っ掛けなのは間違いない。
なので、美羽以外の女子が悠斗の力になった悔しさはあれど、紬への恨みはないのだ。
美羽の感情は脇に置いて感謝の言葉を送れば、紬の目が驚きに見開かれる。
「……私を怒らないの?」
「怒らないよ。その理由がないもの。むしろ、椎葉さんさえ良ければ仲良くしたいくらい」
「な、何で私となの?」
おそらく、こうして体育館の隅に居る紬と大勢の女子に囲まれる美羽では、立場が違い過ぎると思っているはずだ。
悠斗に似た考えをする挙動不審な紬に、くすりと笑みが零れる。
「いろいろ理由はあるけど、一番はこういう静かな場所が好きな事かな」
「えぇ!? 東雲さんっていつも大勢の人と一緒に居るから、そういうのが苦手だと思ってた……。芦原くんと一緒に帰るのも楽しそうだったし」
「悠くんと一緒に居るのは楽しいけど、いつもはしゃいでる訳じゃないよ。それにーー」
残念ながら、美羽は周囲が思うような人間ではない。
毎日放課後にショッピングへ行く感性は分からないし、大勢ではしゃぐよりか数人の仲の良い人が居ればいいのだ。
しかし学校だけとはいえ、それなりに周囲が美羽を慕ってくれるのは、何だかんだで嬉しい。
ただ、休み時間等に悠斗と一緒に居られないので、最近は辟易する事も多いのだが。
宙ぶらりんな気持ちを表すように、苦笑を紬へ向ける。
「皆には申し訳ないけど、私は周りに色んな人が居ると疲れるの。……内緒にしてね?」
片目を閉じてお願いすると、紬の表情がようやく柔らいだ。
「うん、分かった。……でも、東雲さんと仲良くなれるなんて夢みたいだよ」
「私はそんなに大層な人じゃないよ。そういう椎葉さんは私と居るの、辛くない?」
美羽は紬と仲良くしたいが、紬が美羽を受け入れるかどうかは分からない。
紬にとって美羽は恋敵なのだ。恨まれて当然なので、もし紬が少しでも嫌なら離れようと思う。
しかし、美羽の言葉に紬は淡い笑みを浮かべた。
「辛くない――って言ったら嘘になるけど、いつまでも引き摺ったままじゃいられないよ。それに、芦原くんは私をきっぱり振ってくれた。だから、乗り越えなきゃいけないんだと思う」
振られた男性とその恋人が同じクラスに居るというのに、紬は前を向いている。
美羽と同じ小柄な体にも関わらず、美羽以上の心の強さを持っている少女に、深い尊敬の念を抱いた。
先程よりも仲良くなりたいという思いを強めつつ、悪戯っぽく笑む。
「私、結構避けられてた気がするんだけど」
「あれは、その……。『私の彼氏に手を出すな!』って言われたらどうしようと思って……」
紬が悠斗と気まずい関係になっている事については仕方がないだろう。美羽も哲也とあえて話していないので人の事は言えない。
しかし、そんな文句を言いそうな人だと思われていたのは心外だ。
むっと眉を顰めて紬を見つめる。
「そんな事言う訳ないでしょ? 酷いなぁ」
「ご、ごめんなさい!」
「ふふ、本当は怒ってないから大丈夫だよ。でも、そんな弱みに付け込んでお願いがあるの」
「お願い?」
引け目を利用するような事を言ったのだが、紬はきょとんと首を傾げた。
無垢な仕草にちくりと胸が痛んだものの、友人として始めるにはここからだと口を開く。
「名前で呼んでいい? 紬さんって言うのも変だし、紬かな」
「全然いいよ! ありがとう!」
同年代の名前にさんを付けるのはどうかと思って提案すると、紬の顔が歓喜に彩られた。
同じ男性に振られた側と付き合っている側だが、少しだけ距離を縮められたと思う。
ただ、美羽だけが名前で呼ぶのは不公平だ。紬とは対等の友人でありたい。
「じゃあ今度は紬の番だよ。さあ、名前で呼んで?」
「え、いいの?」
「いいのいいの。私がそう望んでるんだから」
「……じゃあ、美羽ちゃん」
「……むぅ」
自分自身の外見がどういうものかは嫌でも理解しているが、ちゃん付けで呼ばれるとは思わなかった。
苛立ちが込み上げてきて、唇を尖らせる。
「紬がそう呼びたいならいいけど、私ってそんなに子供っぽいんだ……」
「あぁ、ごめんね! それじゃあ、美羽」
慌てて紬が訂正し、名前を呼び捨てにした。
少々我儘だったとは思うが、悠斗の件は抜きにして、これで対等になれたのではないか。
可愛らしい紬の笑顔に、こちらも笑みを返す。
「うん。よろしくね、紬」
「えへへ……。美羽と友達になれると思わなかったなぁ」
「そうかな? 私はそう思わなかったけど……。あ、そうだ。後で連絡先を交換しない?」
「いいよ! 私の方こそお願いしたいな!」
新しく出来た友人とのやりとりに心が温かくなった。
悠斗に似た空気を持つこの女性は、いつか素晴らしい人を見つけるだろう。
その時に友人として在れたらいいなと思いつつ、ふと気になった事を尋ねる。
「折角友達になったんだし、休み時間とかもっと話さない?」
「美羽には悪いけど、それはちょっと……。美羽の周りは人がいっぱいだし、気後れしちゃうよ」
「……まあ、そうだよねぇ。こういう時はあの立場が不便だなぁ」
友人と満足に話せない美羽の立場に、思いきり愚痴を零した。
昼休みや放課後は悠斗を優先したいが、機会があれば紬とも一緒に過ごしたい。
流石に悠斗が居る場には連れて行けないので、タイミングがあればだが。
溜息とともに呟いた言葉に、紬がくすりと笑みを落とす。
「あんまり私が言える事じゃないけど、頑張ってね」
「紬に仕返しされた……。でも背中を押された事だし、そろそろ戻って悠くんを応援しようかな」
もう走っている人は悠斗と蓮のみだ。歯を食い縛りながら走っているので、そろそろ体力が限界に近いのだろう。
すぐにでも応援したいが、ここから悠斗に声を掛けると、紬と一緒に居るのがバレてしまう。
立ち上がって紬に別れを告げると、手をひらひらと振られた。
「うん。またね、美羽」
「またね、紬」
紬に背を向けて、先程まで美羽が居た女子の一団に戻る。
小さく「やっぱり敵わないな」という声が聞こえてきた。
しかし、その声に応える言葉を美羽は持たない。
いくら友人になったとはいえ、そう簡単に割り切れるものではないのだから。
あえて呟きを無視し、悠斗へ向けて声を張り上げる。
「頑張れ、悠くん!」
球技大会の時には出来なかった応援だが、もう遠慮する必要はない。
美羽の声が届いたのか、悠斗が一瞬だけこちらを見て強気な笑みを浮かべ、最後の頑張りを見せる。
汗だくで、辛そうで、必死に走る格好良い彼氏に胸が高鳴り、何度も何度も美羽は声を届けるのだった。