第156話 春休みの終わり
花見から一日が経ち、両親が出張先へ帰る時間となった。
準備を終えた正臣と結子を、美羽と二人で見送る。
「本当にありがとうございました! 凄く楽しかったです!」
「私達こそ楽しませてもらったわ。悠斗の事、よろしくね」
「はい!」
笑顔で会話を弾ませる美羽と結子は、本当の親子のように見えた。
美羽に世話をされる事は否定出来ないので、結子の言葉に目を瞑りつつ、正臣へと笑みを向ける。
「それじゃあ無理せず頑張って。父さん」
「分かっているよ。悠斗も無理はしないようにね」
「止めてくれる彼女がいるから大丈夫だよ」
「……もう、悠くんったら」
「あら? 私だって正臣さんに無理させないように頑張ってるわよ」
貶めたつもりはないが、頬を染めた美羽をよそに結子が不満気にむくれた。
一児の母でありながら子供っぽい拗ね方をする結子に、正臣が柔らかく笑う。
「分かっているさ。結子のお陰で私は頑張れているからね」
「ふふ。そんなに堂々と言われると照れちゃうわねぇ」
「私は事実を言っているだけだよ」
「相変わらず上手なんだから」
両親が息子とその恋人が居る前で、堂々といちゃつき始めてしまった。
この数日一緒に暮らし、結子達のいちゃつきぶりにも慣れたようで、美羽が若干呆れ気味な視線を両親へと送る。
「そろそろ出ないと電車に遅れますよ?」
「おっと、そうだったね。それじゃあ悠斗、美羽さん、またね」
「二人共、体には気を付けてね」
「はい。また!」
「いってらっしゃい。父さん、母さん」
悠斗達の言葉に背中を押され、両親が慌ただしく出て行った。
普段通りの二人きりに戻ったはずなのに、四人で暮らしたこの数日があまりにも賑やかだったせいか、少し寂しさを感じてしまう。
美羽も同じ気持ちのようで、端正な顔には元気がない。
「部屋でのんびりしようか」
「……うん。そうだね」
淡い栗色の髪を一撫でし、沈んだ声を発した美羽と二階へ上がる。
ベッドの壁に寄り掛かり、膝をポンと叩いた。
「ほら、おいで」
「悠くんはいつも優しいねぇ。お邪魔します」
淡く微笑んだ美羽が、慣れた動きで悠斗の胡坐へと座る。
すぐに包み込めば、安堵とも悲しみとも取れそうな重い溜息が聞こえた。
少しでも寂しさが消えて欲しいと、梳くように美羽の髪を撫でる。
「……この数日、本当に幸せだったの」
悠斗にされるがままになっていた美羽が、ぽつりと沈んだ声を漏らした。
小さな頭を数回優しく叩き、続きを促す。
「お母さんには悪いけど、結子さんが本当の母親だったら良かったのに。正臣さんが優し過ぎて、こんな人が父親なら良かったのにって、何回も思ったよ」
美羽からすれば、何も束縛せずひたすらに可愛がる結子は理想の母親だったのだろう。
丈一郎を知っていても父親は知らないからか、穏やかで頼りがいのある正臣は理想の父親に見えたようだ。
この数日で実の両親との違いをこれでもかと知り、おそらくだが美羽は悠斗よりも両親との別れを悲しんでいる。
華奢な肩が、悠斗の腕の中で力なく下がった。
「比べても良い事なんてない。お母さんが居たから私はこうして悠くんと一緒に居られる。……分かってるんだけど、どうしても、ね」
何よりも辛いのは、結子と正臣のような人が両親だった場合、こうして悠斗と一緒に居られなかったと美羽自身が分かっている事だ。
聡明なのも考え物だと苦笑を落とす。
「悔しいけど、俺には美羽の気持ちを全部分かってあげられない。でも、寂しかったら甘えてくれ」
非常に申し訳ないが、悠斗と両親は仲が良い。それに、今美羽が感じている寂しさは、簡単に分かっては駄目な気がする。
両親が居なくなった寂しさを補うには役者不足かもしれないが、弱っている恋人を支えるのが彼氏の役目だ。
少し強めに抱きしめると、腕の中の愛しい少女が少しだけ震えた。
「……うん。そうさせて、もらおうかな」
美羽が体勢を変えて横向きになる。
胸に顔を埋め、頬を擦り付ける仕草に「離れないで」と言われている気がした。
勘違いかもしれないが、その想いに応える為に美羽へと顔を寄せる。
「美羽」
「うん? どうした、の……」
美羽がこちらに反応する前に、真っ白な首筋に唇を触れさせた。
最初は何をされたか分からなかったようだが、きょとんとした顔が見る見るうちに驚愕へと変わる。
「え、な、何!?」
「……まあ、何だ。昔の事はどうしようもないけど、今は俺が居るよ」
頬だけでなく耳すらも真っ赤に染めた美羽が可愛らしく、目を細めつつ励ました。
はしばみ色の瞳が忙しなく動くが、ここは悠斗の胸の中だ。
逃げ場がない事を理解したのか、美羽が顔を俯けて再び悠斗の胸に収まる。
「……ずるい」
「ずるくなんてない。美羽には心から笑って欲しいからな」
「………………そういう所がずるいんだよぅ」
羞恥をどこにも逃がせないようで、美羽がぐりぐりと顔を押し付けてくる。
いじらしい仕草に胸が暖かくなり、美羽の頭を何度も何度も優しく撫でるのだった。
「もう春休みも終わっちゃうね」
へにょりと眉を下げた美羽が、晩飯を摂りつつ呟く。
正臣と結子が居ない寂しさを乗り越え、先程まで元気だった。
しかし、今度は春休みが終わる事に名残惜しさを覚えたらしい。
美羽の言葉に実感が込み上げてきて、泣きたくなってしまった。
(そっか、美羽が帰るんだな……)
溢れ出る感情をぐっと堪え、細い溜息を零す。
美羽が起きるまで寝顔を眺め、会話こそ少ないが同じ空気を共有し、偶に触れ合う。そして抱き合いながら寝ていたのだ。
両親が居た時も、用事がない限りそれは変わらなかった。
もう美羽が泊まるのが当たり前だと思う程に、幸せな時間だったと断言出来る。
「ああ、今日で最後だ。……本当に楽しかった」
「私も。楽しすぎて、幸せ過ぎて、帰りたくないよ……」
「俺も同じだ。出来れば、ずっと居て欲しかったな」
明日は学校なので、我儘を通せない事は美羽も理解しているはずだ。
それでも駄々を捏ねるような声に込められた感情は否定出来ず、苦笑を浮かべて頷きを返した。
悠斗の言葉に美羽が表情を曇らせて俯き、箸の動きが止まる。
「でも、春休みが明ければ二年生だ。上手くいけば良い事があるぞ」
春休みが終わるのは確かに悲しい。しかし、悲しい事ばかりではないのだ。
気持ちを切り替え、名残惜しさを吹き飛ばすように笑みを作る。
「良い事?」
「二年生になるって事は、クラス替えだ。つまり――」
「悠くんと一緒のクラスになれるって事だね!」
先程の元気の無さもどこへやら。美羽が歓喜をこれでもかと込めた笑顔になった。
元気になったのは嬉しいものの、過度な期待を持たせたくはない。
眉を下げつつ、テンションの上がった美羽を窘める。
「でも、数あるクラスの中で俺達が一緒になる確率は低いだろうな。あんまり期待するなよ?」
「期待するに決まってるよ! 早く明日にならないかなー!」
「言わなきゃ良かったかもな……」
ここまで楽しみにされると、もし違うクラスになった場合の落ち込みようが凄まじいものになるはずだ。
美羽を慰める為とはいえ、余計な事をしたかもしれないと後悔する。
肩を落とす悠斗へ、純粋な喜びと親愛をこれでもかと注がれた表情が向けられた。
「明日からもよろしくね、悠くん!」
「……ああ、よろしくな」
もし期待が外れた場合、何かしらで美羽を励まそうと決意する。
とっくに同じクラスになったつもりの美羽に、重い溜息を吐き出すのだった。