第155話 花見
春休みも後僅かとなり、明日には両親が出張先に帰ってしまう。
美羽は連日家に泊まった事で、以前よりも正臣や結子との仲が深まったらしい。
完全に芦原家に馴染み、両親と賑やかな会話をしている。
それは良い事なのだが、だらけないようにと言われて最近は早起きだ。
閉じようとする目を開き、美羽と結子が作ってくれた朝食をいただく。
「折角だし、花見に行きましょう!」
「……唐突に言うなよ、母さん」
ちょうど桜が満開の時期なのは分かっている。しかし、両親の時間が取れるのは今日だけなのだ。
桜を見に行くだけなら出来るものの、本格的なものとなれば準備が必要ではないか。
何も提案せずだらだらしていた悠斗が言えたものではないが、それでもぽつりと零す。
すると、結子がニヤリと黒い笑みを浮かべた。
「大丈夫よぉ。昨日から美羽ちゃんと準備してたから」
「マジかよ。さては前々から計画してたな?」
「うん。でも驚かせようと思って黙ってたの。ごめんね、悠くん」
「……まあ、美羽がそう言うなら」
悪戯が成功した子供のように笑む美羽に毒気を抜かれ、溜息をつく。
そもそも両親にゆっくりして欲しいから苦言を呈しただけで、行きたくない訳ではない。
何より、満開の桜の中に佇む美羽が見たいと思った。
あっさり掌を返した悠斗を、結子が生暖かい目で見つめる。
「本当に美羽ちゃんに甘々ねぇ」
「彼女に優しくするのは当然だろうが」
「……えへへ。ありがと、悠くん」
何も恥ずかしがる必要などないので胸を張れば、美羽の顔がとろりと蕩けた。
嬉しさがこれでもかと込められた笑みに表情を緩めると、正臣がパンと手を叩く。
「さて。という訳で花見でいいかい? 大掛かりなものじゃなくて、見に行ってご飯を食べるくらいだけどね」
「元々そのつもりよ。ね、美羽ちゃん?」
「はい! 悠くんはどう?」
「行くよ。俺一人だけ留守番は勘弁してくれ」
三人が出掛けた後の家に居ても虚しいだけだ。
それに美羽と付き合ってから出掛ける用事がなかったので、両親は居るものの久しぶりのデートになる。
正臣の言葉に全員が頷き、唐突に花見が決まったのだった。
朝食後から美羽と結子が本格的に用意し始め、昼前に家を出る。
二人が作ってくれた弁当と荷物は男二人が持ち、電車に揺られる事三十分。
悠斗の地域ではそれなりに有名な花見スポットについた。
公園のあちこちで淡いピンク色に咲き誇る桜に、美羽が感嘆の声を漏らす。
「わぁ! 綺麗!」
「ああ、綺麗だな……」
これぞ花の美しさ、というのだろうか。
どこを見ても桜一色に染まっており、切り取られた別世界のように感じてしまう。
あまりの素晴らしい光景に圧倒されていると、正臣に軽く肩を叩かれた。
「四人で回るのもいいけど、やはりここは二人でだね。行ってきなさい」
「そうそう。荷物は私と正臣さんで預かっておくわ。代わりに、悠斗と美羽ちゃんが帰ってきたら私達も見て回るからね」
「分かった。ありがとう、母さん」
折角気を利かせてくれたのだ。素直に甘えさせてもらい、結子に荷物を預けて美羽と手を繋ぐ。
美羽は一瞬だけ申し訳なさそうな顔をしていたが、この数日で慣れたからか微笑を浮かべつつ頭を下げた。
「ありがとうございます。いってきますね」
「ええ、いってらっしゃい」
「気を付けるんだよ」
両親に送り出され、美羽と一緒にゆっくりと公園内を散策する。
悠斗達のような家族連れや、友人と一緒に花見に来ている人達がはしゃぐ姿にくすりと笑みを落とした。
「みんな元気だな」
「こんなに綺麗なんだもん。元気になるよ。悠くんは違うの?」
「美羽と一緒だからっていうのはあるけど、俺は元気というか落ち着くな」
誰も彼もが美しい桜の下で花見を楽しむこの光景は、幸福に満たされていて心が落ち着く。
そう思えるのは、隣に愛しい少女が居るからだ。
美羽の手を少しだけ強く握りつつ告げると、雪のように白い頬が赤く染まる。
「……もう、そんな事を言っても何も出ないよ?」
「何も出なくてもいいさ。こうして一緒に花見が出来るだけで幸せだ」
料理の美味さや世話焼きっぷりは有難いが、その為に美羽と一緒に居る訳ではない。
何もせず、こうして一緒に歩けるだけで心が満たされる。
思った事をそのまま口にしただけなのに、美羽が耳まで真っ赤に染めて悠斗の腕に抱き着いた。
「今日の悠くんは強気過ぎだよぉ……」
「そうか? ……まあ、綺麗な桜を見れてテンションが上がってるかもな」
桜が綺麗なのもあるが、美羽が思いきり照れる姿が可愛らしくて、悠斗の唇が弧を描く。
ぐりぐりと腕に顔を擦り付けてくる美羽と公園を一周し、最後に中央にある一番大きな桜の前に来た。
歩いて熱が引いたのか、美羽は悠斗の腕に抱き着いたままではあるものの、その頬は赤くない。
「本当に、凄いねぇ」
「……そうだな」
かなりの年月が経っているであろう桜は、綺麗過ぎて威圧感すらある。
二人して目の前の光景を呆けたように見つめていると、近くから「すみません」と声が掛かった。
声の方を向くと、大学生くらいの仲睦まじそうなカップルが居る。
「あの、写真を撮ってもらっていいですか?」
「いいですよ。どれで撮りましょうか」
「でしたら、これでお願いします」
「分かりました」
この桜の下で写真を撮りたい気持ちは分かるので、快く引き受けて男性のスマホを受け取った。
その後、問題なく腕を組んだカップルの写真を撮り終えるが、二人はこの場を離れない。
それどころか、爽やかな笑みが向けられた。
「今度はそちらの分も取りましょうか?」
「そうですね。お願いします。美羽、いいか?」
「もちろんだよ! お願いしますね!」
溌剌とした笑みを浮かべる美羽と、先程カップルが居た場所に向かう。
しかし、写真を撮られるというのに、美羽はカップルに倣ったのか腕を組んだままだ。
「そのままでいいのか?」
「うん。こうしていたいな」
「……まあいいか」
美羽の笑みの質が普段とは違う気がしたが、ここで変な事はしないだろう。
妙な違和感を覚えつつ、悠斗のスマホを持つ大学生へポーズを取る。
「いきますよー!」
「……っ!」
「あ、おい!」
大学生が写真を撮る瞬間に、美羽が悠斗の腕を思いきり引っ張ってよろけさせた。
体勢を崩した悠斗の頬へ、とてつもなく柔らかいものが触れる。
そして、無情にもカメラの音がした。
「わぁ! 私もすればよかったなー!」
「さっきからそうだけど、あの二人熱いなぁ……」
カップルの内、女性が弾んだ声を上げ、男性が微笑ましさを混ぜ込んだ呆れた風な笑みを浮かべた。
あまりに大胆な美羽の行為と二人からの視線に、悠斗の頬が一瞬で熱くなる。
「……何するんだよ、人前だろ?」
「何だかやりたくなっちゃって。駄目かな?」
「駄目っていうか、恥ずかしいだろ。美羽だって顔が真っ赤だぞ」
人前で頬に唇を触れさせる行為は美羽にもダメージがいったようで、小さな耳まで真っ赤になっていた。
悠斗の指摘に美羽が瞳を潤ませ、穏やかな微笑を浮かべる。
「恥ずかしいけど、いいの。今日は特別」
「へぇ、ならお返しをしないとな?」
美羽も恥ずかしいようだが、やられっぱなしにはなりたくない。
ニヤリと唇の端を吊り上げ、美羽の頬に触れようとすると――
「あのー、そこらへんで……」
「す、すみません……」
写真を撮ってもらっていた事をすっかり忘れており、大学生に指摘されて気が付いた。
凄まじい申し訳なさと恥ずかしさに深く頭を下げると、微笑ましい者を見るような視線をいただく。
「スマホをお返ししますね。それとお幸せに」
「貴女達みたいなカップルになれるように頑張りますね」
「え? あ、その……」
「ありがとうございます。お二人もお幸せに」
むず痒い賞賛の言葉にどう返せばいいか迷っているうちに、照れ臭そうに淡く穏やかな笑みを浮かべた美羽が大学生カップルに応えた。
すぐに二人は去っていき、美羽と二人きりになる。
「……」
ここに来て羞恥が限界に達したのか、美羽は顔を俯けて悠斗を見ようともしない。
居心地悪そうに悠斗の前でもじもじする美羽があまりにも可愛らしく、目を細めつつ柔らかな頬に触れる。
強引に顔を上げさせ、中腰になって美羽の頬に手ではないものを触れさせた。
「っ!? ゆ、悠くん!?」
びくりと体を震わせ、潤んだ瞳で美羽が悠斗を見上げる。
久しぶりの慌てた姿に、先程の行為によって弾んだ心臓を抑えつつ、ニヤリと悪い笑みを向けた。
「さっきのお返しだ。今日は特別だからな」
「うぅ……。はぅ……」
意趣返しをされて言い返せないのか、美羽が呻き声を上げつつ悠斗の腕で顔を隠す。
いじらしい態度の美羽を強引に引っ張り、両親の元へ歩き出した。
どうせ美羽は沸き上がる羞恥に感情の処理が追い付いていないので、悠斗の顔は見られない。
頬を掻きつつ、ぽつりと呟く。
「まあ、でも、ありがとな」
「悠くん、も、ありがと」
どちらもお礼を言うという奇妙なやりとりとしつつ、両親が待っている場所に着いた。
到着するまでに羞恥を逃がしきれなかったようで、悠斗の腕に身を隠す美羽を両親がニヤニヤとした視線で眺める。
「ふふ、流石は私の息子だね」
「よくやったわ、悠斗」
「誰も味方がいないよぅ……」
悠斗が何をしたかなど分かっていないはずだが、それでも二人はおおよその事を把握したらしい。
途方に暮れた声を出した美羽をよそに、両親が花見に行く。
その後、暫く美羽は顔を見せてくれなかった。