第146話 恩人への報告
前回東雲家に入ったのが正月だったので、丈一郎と顔を合わせるのはこれが三ヶ月ぶりになる。
この家には泊まった事もあるが、それでも中に入るのは緊張した。
リビングに案内され、相も変わらず鋭い眼光の丈一郎と真っ直ぐに向き合う。
「先日から、美羽と付き合う事になりました」
「そうか」
もっと何か言われるかと思ったが、返ってきたのは短い返事だけだった。
あまりにも拍子抜け過ぎて、悠斗の思考を困惑が占める。
「そ、それだけですか?」
「元々、悠斗ならば構わんと言っていたのだ。それ以外に何を言う必要がある?」
「……そう言っていただけるのは有難いですが」
丈一郎には、正月の時点で美羽への気持ちを把握されていた。それだけでなく、美羽と距離を縮める許可をもらっていたのだ。
だからこそ、こんなにもあっさりした反応なのだろう。
しかし孫を大切に思っている祖父として、内心は複雑なのではないか。
交際を許されても素直に喜べず、渋面を作る悠斗を僅かに頬を緩めた丈一郎が見つめた。
「それとも儂の孫は渡さん、とでも言った方が良かったか?」
「丈一郎さんっぽくはありますけど、大声で言われたら流石に怖いですね」
明らかに冗談だと分かる口ぶりに体の力が抜け、悠斗の顔に笑みが浮かぶ。
丈一郎に怒鳴られていたら、悠斗は震え上がっていただろう。
少々失礼な気もするからかいに、丈一郎が笑みを深めた。
「儂を怒鳴る人だと思っていたのだな?」
「いやぁ、はは……」
丈一郎が美羽を大切に想っているのは知っているので、可能性はゼロではなかったはずだ。
質問を否定出来ずに乾いた笑いを零せば、ふんと鼻を鳴らされる。
「まあよい。見ず知らずの馬の骨なら一言二言怒鳴っていたがな。悠斗ならば大丈夫だろう」
「……本当に、ありがとうございます。美羽を悲しませないように頑張ります」
絶対の信頼を向けられて、胸に熱いものが込み上がってきた。
こうして許可をもらえたのは、これまでの積み重ねに他ならない。
溢れ出しそうになるものを抑えて宣言すると、鋭くも温かい視線が悠斗を射抜く。
「当然だ。喧嘩するのもいい、一人になりたい時もあるだろう。だが、その努力を忘れるな」
「はい! 絶対に忘れません!」
「美羽も、悠斗をきちんと支えてやりなさい。もちろん悠斗に支えてもらう事を忘れずにな」
「うん! ありがとう、おじいちゃん!」
大切な言葉を胸に刻み、美羽と二人して頭を下げた。
すぐに頭を上げると、何かを堪えているような表情の丈一郎が席を立つ。
「なら飯にするか。待っていろ」
「なら私も――」
「いや、儂一人でやる」
学校からの帰りに東雲家へ来たせいで、まだ何も食べていない。
美羽の手伝いを丈一郎が断り、キッチンへと向かって行く。
それでも何かしようと思ったのか、美羽が席を立つ。
しかしここで手を貸しては駄目だと、華奢な肩を掴んで止めた。
「今日は丈一郎さんに甘えよう」
「……分かった」
丈一郎だけでなく悠斗からも諭され、ようやく美羽が落ち着く。
おそらくだが、丈一郎には今日の話の内容を事前に把握されていたのだろう。
先程のあっさりした態度は、単に悠斗を認めていたからだけではないはずだ。
(なら、今は一人にさせた方がいい)
孫に恋人が出来たなど、そう簡単に飲み込めるものではない。
ましてや丈一郎は不器用ではあるが、美羽が幼い頃から気に掛けていたのだ。
人一倍愛情は強かったはずであり、気持ちを整理する時間が必要だと思う。
「……凄い人だなぁ」
悠斗が同じ立場であれば到底納得出来ず、一言どころか怒鳴っていたかもしれない。
素晴らしい人に認められ、嬉しいような、申し訳ないような気持ちで料理を待つのだった。
「そうだ、おじいちゃんに相談があるんだけど」
相も変わらず絶品の煮物を平らげていると、今日のもう一つの話題を美羽が口にした。
丈一郎と美羽が一緒にご飯を摂るのは朝だけだが、似たようなやりとりをしているのか、丈一郎が平静な表情で美羽を見る。
「何だ?」
「悠くんの家に泊まる日を増やしたいの。駄目かな?」
詳しく聞いてはいないが、冬休み中は悠斗の家に泊まるのを丈一郎が許可していたらしい。
しかし、休みが明けてからは特に話を聞いていない。普通に考えれば、駄目出しされるはずだ。
美羽も毎日泊まりたいというのは許可されないと思ったようで、どれだけ泊まってもいいかと提案した。
保護者である丈一郎はすぐに結論が出せないようで、顎に手を当てて首を傾げる。
「そうだな。……美羽や悠斗を疑っている訳ではないが、毎日泊まりに行って何かあったら困る。泊まるのは金曜日と土曜日だけにしておけ」
次の日に学校のない土曜日は許可されると思っていたが、まさか金曜日も許可されるとは思わなかった。
本当にいいのかと確認を取ろうとすれば、目を輝かせた美羽が先に口を開く。
「金曜日も泊まっていいの!?」
「それくらいなら構わん。土曜日の朝は悠斗の家で飯を食べて学校に行くといい」
「ありがとう、おじいちゃん!」
食事中なのだが、感極まった美羽が立ち上がって丈一郎に抱き着いた。
丈一郎も予測出来なかったようで、美羽に似た赤茶色の瞳が大きく見開かれる。
しかし、すぐに悲しみと喜びが混ざった笑みを浮かべ、皺の多い手が美羽の頭を撫でた。
「しっかりするんだぞ。悠斗にあまり迷惑を掛けるなよ」
「うん、分かってる!」
「……こうやって、子供は離れて行くんだったな」
小さな呟きがしわがれた口から洩れた。
娘である仁美は、とっくに丈一郎の元から自立している。
そして、孫である美羽も自身から離れて行くのを実感したらしい。
悠斗には何も掛ける言葉がなく、頬を流れる輝きを見て見ぬフリしつつ、飯を平らげるのだった。