第116話 二月のイベントとは
「はぁ……」
一月が終わり、外の寒さとは無関係な暖房の効いた教室内で、悠斗は重い溜息を吐き出した。
最近こんな調子が多いからか、蓮が呆れた風な目をする。
「また悩み事か? デートは上手くいったんだろ?」
「ああ、成功だった。それは間違いないな」
蓮にはデートの翌日に感謝を伝えており、自分の事のように喜んでくれた。
だからこそ、デート以外何もしていない現状が悩ましい。
「でもデート一回で全部が解決する訳じゃない。学校では会話すら出来てないんだからな。それに、気持ちを伝える時は待ってくれてるあいつに報いるだけの事をしたいんだ」
「まーた変に気負ってんなぁ……。学校での接点はないんだし、焦ったって仕方ないだろうが」
「それは分かってるんだけどな……」
デート終わりから何度も考えたが、学校で美羽に接触するいい案が何も思いつかなかった。
それだけでなく、どうやって想いを伝えるかも答えが出ていない。
結果として決意してから半月も経過しており、情けないにも程があると肩を落とした。
そんな悠斗を見つつ、蓮が微笑ましそうに微笑を浮かべる。
「あの人が不満そうにしてるなら問題だけど、そうじゃないんだろ?」
「むしろ無理しないでってさ」
現状で何もかも満ち足りているとは言えないだろうが、それでも美羽にはたった一度ですら文句を言われていない。
だからこそ申し訳ないと顔を顰めれば、反対に蓮がからりとした笑みになった。
「ならいいじゃねえか。変に急いでも失敗するだけだって。悠がどうしても何とかしたいと思うようになったらすればいいんだよ」
「……ホント、俺は皆に助けられてばかりだな」
美羽が全てを理解して待ってくれているのもそうだが、蓮も強引に背中を押さないでくれている。
普通なら怒りそうなものなのに、悠斗の意思を尊重してくれる心遣いが有難い。
小さく苦笑すると、蓮がポンと優しく肩を叩いてきた。
「人には人のペースってもんがあるんだから、誰かに合わせる必要はないんだ。顔を合わせる前に俺が綾香の婚約者として決められてたようにな」
「それは例外中の例外だろうけどな」
「違いない」
婚約を前提として付き合うのは納得出来る。しかし情報でしか知らない人と付き合うなど、そうそう起こるものではない。
悠斗よりも波乱万丈な人生を歩んでいる蓮に呆れた目を向けると、蓮の顔に苦い笑みが浮かぶ。
しかし、蓮との会話で少しだけ心の靄が晴れたのは事実だ。
改めて感謝を告げようとするが、蓮が先程までとは打って変わってにやついた笑みになった。
「背中を叩く訳じゃないけど、二月と言えばあれがあるよなぁ」
「あれ? 何かあったっけ?」
二月の学校行事は学年末テストくらいだ。
この話の流れで蓮が口にするとは思えない。
とはいえ他の行事など考え付かないので、首を傾げつつ蓮に尋ねる。
すると、蓮が呆れたと言わんばかりに大きな溜息をついた。
「そりゃあ、二月十四日だよ。もう分かっただろ?」
「ああ、なるほど。俺には縁がないイベントだな。爆発しろ」
日付を言われてイベントに思い当たったが、正直なところ心底どうでもいい。
中学校の時の事を考えるだけで苦痛だし、三年生の時は学校を休もうかと思ったくらいだ。
前を向いた瞬間にどん底まで叩き落としてきた蓮を、思いきり睨みつける。
しかし、返って来たのはやれやれと言わんばかりの肩を竦めた態度だ。
「もうお前にも関係ある事じゃねえか。あの人からもらわないのか?」
「……そうか、そうだったな」
二月十四日が憎いという思いだけが先行してしまったものの、確かに悠斗にも関係があるかもしれない。
ただ、明確にそういう関係ではないのだから、何もないという可能性もある。
それに例えもらえても、美羽を待たせている悠斗に受け取る資格などないのではないか。
期待や申し訳なさでぐちゃぐちゃな内心を読み取ったのか、蓮の目が穏やかに細まる。
「悠の事だからあれこれ難しい事を考えてるんだろうが、そういう日くらいは何も考えずに楽しめよ?」
「それが出来たら苦労はしないっての」
自信が持てぬまま、半月後のイベントに溜息をつく悠斗だった。
「そうだ。悠くんに相談というか、伝えておきたい事があるんだけど」
二月に入っても何も変わらずに美羽と晩飯を摂っている最中、唐突に美羽が声を発した。
相も変わらず可愛らしい顔には、穏やかな微笑が浮かんでいる。
「相談? まあ、取り敢えず聞くよ」
「暫く土曜日と日曜日の日中は綾香さんの家に行くから、ここには夕方からしか来れないと思うの」
「美羽にしては珍しいな。分かったよ」
綾香と美羽の仲はいいが、あのマンションに行きたいと言うとは思わなかった。
とはいえ、美羽がやりたい事を止めるつもりはない。女子だけの楽しみもあるはずだ。
深く聞くつもりはないので短く応えると、美羽が悪戯っぽく笑む。
「ふふ、半月後を期待しててね?」
「半月後? まさかそれって……」
ちょうど学校で蓮と話題にしていたので、僅かな言葉だけで察せてしまった。
悠斗の為に作ると宣言されて、歓喜と申し訳なさが沸き上がって来る。
素直に喜べない悠斗を、蕩けた笑みの美羽が見つめた。
「ここで作ると、後での楽しみがなくなっちゃうからね。こうして伝えてる時点で楽しみも何もないけど、精一杯頑張るよ」
「……いいのか?」
作る側の美羽に聞くなど、冷静に考えれば有り得ない。
けれど蓮との会話だけではもらうと確定していなかったので、心の整理が出来ていなかったのだ。
口に出した瞬間に後悔して顔を俯けると、美羽が立ち上がって傍に来た。
すぐに細い指先が伸びてきて、悠斗の頭を撫でる。
「うん。もちろん悠くんの自信が付くまで待つつもりだし、焦って欲しい訳でもないよ。ただ、悠くんに喜んで欲しいだけ。だから、そんな顔をしないで?」
「……ごめん、美羽。本当に、ありがとう」
全てを赦すような微笑みと声に、目の奥が熱くなった。
唇を噛んでぐっとこらえていると、美羽の微笑みの質が変わる。
申し訳なさを僅かに混ぜた笑みが、悠斗を真っ直ぐに見つめた。
「代わりに、お願いがあるの。凄く我儘で、自分勝手なお願いが」
「何でも言ってくれ。俺に出来る事なら、何だってする」
女子にとって大切な日を、現状維持のまま待っていても良いと言われたのだ。
例え無茶な要求でも、どんな事をしてでも応えたい。
絶対に叶えると必死に告げれば、美羽の真っ白な頬に赤みが差す。
「私以外の、誰からも受け取らないで欲しいの。もちろん、何を言われても断って欲しい。……こんなお願いで、ごめんね」
「考えるまでもない。そんなの当たり前だ。というか、他の人からもらうなんて有り得ないから」
あまりにも当然のお願いに即答した。
想い人からの贈り物以外に興味はないし、興味すらない。
そもそも、悠斗にプレゼントするような物好きなどいないはずだ。
悠斗からすれば僅かな期待すらしない事なのに、美羽はむっと唇を尖らせる。
「そんなの分からないよ? 悠くんかっこいいから、勇気を出す人がいるかもしれないし」
「俺をかっこいいって思ってくれるのは美羽だけだって」
妙に心配している美羽が微笑ましくて、悠斗の顔に笑みが浮かんだ。
今度は悠斗が励ます番だと、立ち上がって淡い栗色の髪を撫でる。
「でも、美羽が安心出来るなら約束するよ。美羽以外の誰からも受け取らないし、何を言われても断る」
「……ん。ありがと」
不機嫌そうな表情を一瞬でご機嫌な笑みへと変え、美羽が気持ちよさそうに目を細めた。
意気地なしの悠斗に合わせてくれるのだ。可愛らしい嫉妬くらい、受け入れなくては駄目だろう。
ようやく胸の靄が晴れ、癖一つない髪の感触をただ堪能する。
「やっぱり、悠くんの手は気持ちいいね」
「半月後のお礼だ。これくらいしか出来ないけどな」
「ふふ。私が渡すのにお礼なんておかしいよ。……でも、甘えようかな」
バレンタインのお返しとして、この場で頭を撫でる必要はない。
しかしいつまでも撫でていたいし、美羽も目を閉じてされるがままになっている。
悠斗の部屋ならこのまま触れ合っていられたのだが、今は晩飯の途中だ。
指摘の為に断腸の思いで口を開く。
「……飯が冷めそうだな」
「なら、もうちょっとだけ」
「そうだな。もうちょっとだけ、撫でさせてくれ」
「……うん」
撫でたいのか、撫でられたいのか。きっと、どちらでもいいのだろう。
もう少し、もう少しと引き延ばした結果、晩飯が冷めてしまうのだった。