第112話 意外な昼食
「忘れ物はないか?」
日曜日の昼前。いよいよ、何の目的もないお出掛けだ。
戸締りをして問いかければ、白のニットに身を包んだ美羽が大きく頷く。
「うん、大丈夫だよ!」
「よし。……でも、しっかりマフラーはしてくれよ? 今日も冷えるんだからさ」
普段はしっかりと身だしなみを整えている美羽にしては珍しく、鮮やかな赤色のマフラーが歪んでいた。
こういう事もあるのだなと微笑ましく思いつつ、美羽の前でしゃがむ。
屈むだけでもマフラーは直せるが、いつもとは逆の立場になったのだからきちんとしてあげたい。
美羽を見上げながらマフラーに触れると、美羽は頬をゆるゆるにしてされるがままになった。
「えへへ。楽しみ過ぎて適当になっちゃった」
「ただ服を見に行くだけだろうが。……気持ちは分かるけどな」
どうやら、早く行きた過ぎて準備が適当になってしまったらしい。
大した用事でもないのに期待する美羽へ呆れた風な言葉を掛けたが、悠斗も人の事を言えないくらいに胸が弾んでいる。
マフラーを整え終え、美羽へと手を伸ばした。
「ほら、行くぞ」
「待って待って。悠くんもマフラーが乱れてるよ」
悠斗の手をするりと躱し、美羽が身を寄せてくる。
へにゃりと頬を緩めつつ、悠斗のマフラーを直し始めた。
折角のデートの始めなのに、どうにも締まらずに苦笑する。
「情けないなぁ……」
「ふふ。悠くんのお世話が出来るから、私は嬉しいんだけどね」
「……こういう日くらいはかっこつけたいんだよ」
クリスマスや初詣はリード出来ていたか怪しかった。
なので、こういう日くらいはリードしたかったのだ。
渋面を作って呟けば、美羽がくすりと小さく笑む。
「悠くんはいつもかっこいいよ?」
「はいはい。お世辞はいいから」
顔もそうだが、美羽に格好いいと思われるような事をした時は多くない。
あえて挙げるなら、球技大会くらいだろうか。
悠斗としては全くそう思わないが、美羽から言われた気がする。
いつもなどと気を遣わなくていいと告げれば、美羽の目が悪戯っぽく細まった。
「お世辞じゃないよ。ゲームする時の真剣な顔とか、一緒にご飯の片付けをしてくれる時の横顔とか――」
「分かった! 分かったから止めてくれ!」
からかうように告げられた言葉が、悠斗の心臓を虐める。
美羽がそんな冗談を言うとは思えないので、本心なのだろう。
けれど、明らかに悠斗を照れさせようとしている。
その思惑通り頬に熱が昇って来ているので、これ以上言われては堪らないと美羽の言葉を遮った。
流石に続けるつもりはないらしく、美羽が腰に手を当てつつ僅かに胸を張る。
「そういう訳で、悠くんはかっこいいの」
「……まあ、そういう事にしておく」
「まだ納得出来ないなら再開するけど?」
「本当に止めてくれ……」
どうやらまだまだ言い足りないらしい。にやりと悪い笑みを浮かべる美羽に、思いきり頭を下げて懇願した。
これ以上褒められると、悠斗の顔から火が出てしまう。
とっくの昔にマフラーは整えてくれていたので、改めて美羽に手を差し出した。
「ほら、行くぞ!」
「うん!」
小さな手をしっかりと掴み、二人の間で繋いだ手が揺れる。
ようやく悠斗達のデートが始まった。
「美味しそう! いただきます!」
「いただきます」
テーブルの上には、嫌いな男子など殆どいないはずのものがある。
薄い肌色のスープの中には黄色の麺。ネギにチャーシューと、これぞ定番のラーメンだ。
「早速昼飯なのはいいけど、ここに美羽が居ると違和感が凄いな……」
別にラーメンが男性だけの料理だとは思っていないし、店内には少数とはいえ女性客も居る。
それでも、これぞ美少女と言える美羽がラーメン店に居る事に違和感を覚えた。
ぽつりと呟けば、美羽がきょとんと首を傾げる。
「そうかな? 女の人が入っちゃ駄目っていう決まりはないでしょ?」
「そりゃあそうだけど、もっとこう……。おしゃれな喫茶店に行きたいかと思ったんだ。本当に良かったのか?」
折角デートをするのだからと、昼飯は外食に決めていた。
しかし内容は決めておらず何を食べようか迷っていると、美羽がラーメンを食べたいと言い出したのだ。
悠斗としては畏まった喫茶店よりも、こういう店の方が気楽ではある。
もう手遅れではあるが心配になって尋ねると、美羽が華やいだ笑顔で頷いた。
「いいよ。悠くんとは毎日一緒にご飯を食べてるし、わざわざ喫茶店でお話しする必要もないでしょ?」
「確かにな。でも、憧れとかはないのか?」
美羽は話そうと思えばすぐに話せるくらい、普段から傍にいるのだ。
会話の時間を作ってまで喫茶店に入る理由はない。
それでも、一緒にお茶をするのは女子の夢なのではないか。
疑問をぶつけると、美羽が何の憂いもなさそうな微笑で首を振った。
「特にないよ。それに、大事なのはどこで食べるかじゃなくて、誰と食べるかじゃないかな。悠くんと食べるなら、私はどこでも満足だからね」
「……それなら有難いな」
高望みしない美羽の考え方は嬉しいものの、申し訳なくもあって悠斗の顔に苦笑が浮かぶ。
無理強いはしないが、一度くらいは喫茶店等で食事をするのもいいかもしれない。
今度タイミングがあれば連れて行こうと決意すれば、向かいで美羽がラーメンを啜って表情を緩めた。
「んー、おいひいー! やっぱりお店の方がいいね!」
「家でラーメンを作る時は市販のものを買ってるからなぁ」
カップ麺は美羽に快く思われていないが、家でラーメンを全く食べないという訳ではない。
ただ、スープから作る人はほぼいないはずだし、美羽も具を工夫する程度だった。
流石にそれだけだと、店の物の方が美味しくなってしまう。
作った側の美羽も納得いかなさそうにしていたので、頻度は少なかった。
改めて店の物の美味さを実感しながら呟くと、形の良い眉がしょげるように下がる。
「私も店の物には勝てないからねぇ……。今度スープから挑戦しようかな」
「本格的なやつか。美羽なら上手く作るだろうけど、無理はするなよ?」
いくら美羽でも、スープから作るのは大変そうだ。
努力するのは構わないが、納得出来ないからといって無理に頑張る必要はない。
気負わないで欲しいと笑みを向ければ、美羽の表情がふわりと柔らかくなった。
「うん、分かった。……にしても、外でラーメンを食べるなんていつぶりかなぁ」
「家で料理の練習をするなら、外食なんてしないよな」
昔を思い返す美羽の言葉に苦笑を零す。
今回は美羽から言い出したので、本当にラーメンを食べたかったのだろう。
実際、ニコニコとご機嫌な笑顔でラーメンを啜っているので、お気に召したようだ。
「そうそう。だから、正直に言うと畏まった食事よりかはこういうものを食べたいな」
「なら今度どんぶりの店に行くか?」
喫茶店を忘れはしないが、男が好きそうな店の方がいいと言うなら望みに応えたい。
幸いな事に喫茶店よりかそっちの方が詳しいので、昼飯には困らないはずだ。
次のデートの提案をすると、美羽が輝かんばかりの笑顔になった。
「本当!? やったあ!」
「……喜んでくれるのはいいんだがな。まあいいか」
普通は嫌がるものではないかと小さく苦笑し、美羽と一緒に食事へ戻る。
何となく美羽を眺めながら食べていると、今回も美羽は美しい所作をしていた。
(俺と同じように食べてるのに、どうしてこんなに綺麗なんだろうな)
美羽が麺を啜る姿など何度も見ているが、その度に思う事だ。
特別な事などしていないし、音を出さずに啜っている訳でもない。
それでも、美羽の食べる姿には品があるように思える。
悠斗と何が違うのかと思って今回もそれとなく観察していると、美羽が垂れてきた髪をかき上げて耳に持っていった。
妙に色っぽい仕草に女らしさを感じ、悠斗の心臓が高鳴る。
「うん? ジッと見てどうしたの?」
流石に見つめ過ぎていたからか、美羽が不思議そうな顔で尋ねてきた。
普段であれば誤魔化していたが、今日はデートなのだし、多少褒めるくらいはいいだろう。
僅かに羞恥を感じつつ、意を決して口を開く。
「麺を啜る姿が綺麗だなって」
「ふえっ!? い、いきなり何? いつもと一緒でしょ!?」
美羽が一瞬で顔を真っ赤にし、顔を上げて目を白黒させた。
唐突に褒めた事で驚かせてしまったようだが、美羽の口元は弧を描いている。
大した事のない褒め言葉でも喜んでくれているのが分かって、悠斗の頬が笑みを形作った。
「前々から思ってはいたんだよ。でも、やっぱり美羽の食べる仕草は綺麗だ」
「う、あう……。嬉しいけど、そんな事で褒められるとは思わなかったなぁ……」
にへらと頬を緩め、美羽が食べるのを再開する。
しかし、口に運ぼうとしたところで手が止まった。
「……ねえ悠くん。こっちを見ないでくれるかな?」
「向かい合って座ってるんだし、無理だって。……というか、ジッと見ててごめん」
テーブルを挟んで座っているのだから、どうしても美羽の顔は視界に入ってしまう。
ただ、はしばみ色の瞳が潤んでいるので、見られるのが嫌だったのかもしれない。
今まで見るなと言われた事はなかったが、よくよく考えれば、人の食べている所を観察するのはマナー違反だ。
今更になって謝罪すると、美羽が耳まで真っ赤に染めて首を振った。
「普段見られる分にはいいけど。今だけは見ないでくれると嬉しいの……」
「……分かった。何とかする」
悠斗が感想を伝えた事で、見られるのが駄目な程の羞恥が沸き上がってきたらしい。
こういう場合は男の悠斗が折れるべきだ。
体を斜めにし、美羽を正面から見ないようにする。
「「……」」
同じテーブルで食べているのに、変な体勢で会話もなくラーメンを啜る悠斗達だった。