第109話 頑張った結果
「ただいま」
旅行から帰ってきた次の日。昼下がりとはいえ、寒空の中帰宅した。
家の中に声を響かせれば、スリッパの軽い足音が近づいてくる。
可愛らしさとを詰め込んだ少女が、すぐに顔を出した。
「おかえり、悠くん」
昨日は丈一郎とゆっくりして欲しいと思い、すぐに美羽を家へ送り届けた。
その際に東雲家にお邪魔して晩飯すらいただいたので、丈一郎には頭が上がらない。
何はともあれ、こうして美羽が迎えてくれるのは随分久しぶりに思えた。
ただ、普段であれば美しい笑顔を向けてくれるのだが、今は嬉しさと申し訳なさが混じった苦笑を浮かべている。
その理由である、短くなった前髪を弄って笑みを向けた。
「一ヶ月半ぶりかな。変じゃないか?」
思いきり短くはしなかったが、それでも球技大会前と同じくらいの髪の長さだ。
念の為に感想を求めると、美羽が僅かに顔を曇らせたまま微笑を浮かべる。
「かっこいいよ。でも、無理しないでね」
「無理してないから、そんな顔すんなって。まずは身だしなみから変えるべきだと思っただけだ」
美羽の隣に居られるように頑張ると誓ったのだから、出来る限りの努力をするのは当たり前だろう。
髪を伸ばすのが悪いとは言わないが、前髪で顔を隠していては、いつまで経っても自信などつかない。
なので、まずは気が付いたところから始めた方がいいと思い、行動した結果だ。
気に病む必要などないと淡い栗色の髪を撫でれば、美羽の顔から負の感情が抜けた。
「ふふ。悠くんは一度決めたら絶対に譲らないよね」
「それが俺に出来る事だからな。という訳で、これからは自分の事は出来る限り自分でやるよ」
美羽が世話好きなのは知っていても、甘えっぱなしではいられない。
料理は流石に無理だが、身の回りの事くらいはやるべきだ。
当然のように手を広げ、悠斗の鞄を持とうとしている美羽に断りを入れた。
「え、どうして……? 悠くんの、お世話……。かばん……」
悠斗の選択は間違っていないはずなのに、美羽がショックを受けたように顔を曇らせる。
へなへなと力が抜けて垂れ下がる美羽の腕が、名残惜しそうに悠斗の鞄を目指した。
あまりのテンションの下がりように、悠斗の背中に冷や汗が流れる。
「美羽のお世話が嫌になった訳じゃないぞ! 何もしないのはだらしないから、これくらいはしないとって思っただけだ!」
決して美羽を悲しませたい訳ではないのだ。
しかし考えを伝えれば伝えるほど、はしばみ色の瞳が潤んでいく。
「もう、私はいらないの……?」
「違う、違うから! そうじゃないから!」
「……でも、お世話、したい、のに」
普段であれば鈴を転がすような、可憐な声が震えている。
どうやら、悠斗の考えている以上に美羽は世話好きだったらしい。
しっかりしようと思ってから一日しか経っていないにも関わらず、早速決意が揺らいでしまう。
美羽を泣かせてまで決意を貫くか、折れて世話をされるか。答えはあっさりと出た。
「……美羽、鞄を、頼めるか?」
渋々とだが頼み込めば、美羽の顔が歓喜に彩られる。
正直なところ、納得したくはない。ただ、美羽の表情を見る限りこの選択が正解のようだ。
「うん! 任せて!」
一瞬でご機嫌になった美羽が、悠斗の鞄を抱きかかえて二階へと上がっていく。
結局こうして世話を焼かれている事が情けなくて、がっくりと肩を落とすのだった。
その後も悠斗の部屋で過ごすのはこれまでと同じだったが、手伝おうとする度に美羽が顔を曇らせる。
「あれ、お風呂に入らないの?」
「飯を食べてから入ろうと思ってな。だから、手伝わせてくれないか?」
「私から、料理を取り上げるの……?」
「……何でもないです。風呂入ってきます」
ランニング後の風呂を後回しにし、晩飯の調理を手伝おうとしても駄目だった。
「今日は片付けを一人でさせてくれないか?」
「悠くんと一緒に後片付けするの、楽しみだったのに……」
「……やっぱり、一緒にやろうか」
ずるずると普段と同じ流れに持って行かれてしまい、家事すらも一人でさせてもらえない。
改めて美羽に頼りっぱなしだったのだなと思いつつ晩飯の後片付けを終えると――
「悠くん、正座しなさい」
「は?」
美羽がむっと顔を顰めて命令してきた。
茉莉に怒った時のような冷たい雰囲気ではないが、逆らっては駄目な圧がぶつけられている気がする。
とはいえ唐突な発言を理解出来ず、呆けた声を出してしまった。
すると美羽の圧がぐっと強まり、悠斗の肩に伸し掛かってくる。
「正座しなさいって言ってるの」
「……ハイ」
普段であれば穏やかな光を湛えている瞳は、不機嫌さを隠してもいない。
これ以上の口答えは駄目だと頭の中の何かが訴えてきた。
感覚に従って美羽の前に正座すると、美羽が腕組みをしながら悠斗の前に立つ。
なぜだか、目の前の女性が般若に見えた。
「悠くんが頑張ってくれるのは嬉しいし、出来る限り支えたいとも思う。でも、私の楽しみを奪うのは違うよね?」
「いや楽しみって言うけど、結局――」
「悠くんのお世話をするのは私の楽しみなの! 生きがいなの! 私から奪わないで!」
溢れんばかりに感情のこもった、必死な声が悠斗の言葉を遮る。
生きがいとまで言われて、悠斗の胸に歓喜が満ちた。
口に出した事で怒りが収まったらしく、今度はへにゃりと形の良い眉が下がる。
「辛いと思った事なんてないの。だから、今まで通りの事をさせて?」
どうやら、悠斗の頑張りは空回りしてしまったようだ。
ここまで懇願されては、甘えないという選択肢を取れはしない。
美羽の気持ちを考えていなかった事に呆れつつ、大きく息を吐き出す。
「……分かった、変な事をしてごめんな。それと、これからも頼む」
「うん、任せて。何度も言ってるように、これが私のやりたい事なんだから」
美羽がようやく顔を綻ばせ、普段の柔らかい雰囲気に戻った。
正座を解き、ゆっくりと立ち上がる。
しかし普段する事のなかった体勢だからか、足が痺れて上手く伸ばせなかった。
そのせいでバランスを崩してしまい、美羽の方へと倒れ込んでしまう。
「うわ!?」
「きゃ!?」
幸いな事に完全に立ち上がる前だったので、全体重を掛ける事はなかった。
だが美羽のお腹に突っ込む形になり、上半身とはいえ悠斗の体を支えられずに美羽が倒れ込んでしまう。
視界が真っ暗になり、ミルクのような甘い匂いに包まれて心臓が強く鼓動した。
「ごめん美羽! すぐに退くから!」
こんな状態で居続けたら悠斗の心臓が壊れてしまう。
床に手を付いて美羽から離れようとしたのだが、何かが悠斗の頭に巻き付いてきた。
「美羽?」
「頑張ってくれるのは嬉しいけど、甘えて欲しいな」
ひたすらに優しく慈しむような声が耳に届き、細いものが悠斗の髪を撫でる。
その感触があまりに心地良くて、もっとして欲しくて、悠斗の体から力が抜けた。
美羽へと身を委ねれば、くすりと小さな笑い声が聞こえてくる。
「髪を切ってかっこいい悠くんも良いけど、こうして甘えてくれる悠くんも良いよ」
「……いや、待て、もしかして、これってすごく恥ずかしい体勢なんじゃないのか?」
ほんのりとからかいが混じった声に冷静になって考えると、この体勢は非常にまずい。
美羽のお腹に顔を埋めて甘えている光景を想像するだけで、顔から火が出そうだ。
慌てて尋ねれば、悠斗の頭を締め付ける力が強まった。
「あ、バレちゃった? でも残念、離してあげないよー」
甘さを滲ませた柔らかい声が、悠斗の心をくすぐる。
悠斗を溶かすような指使いに、ぞくりと背筋が震えた。
「離せ! やめろー!」
「やーだよ」
美羽を怪我させたくはないので、軽くじたばた暴れても、美羽は解放してくれない。
結局抵抗を諦めて、暫く撫で続けられるのだった。