第107話 決意
「なあ美羽、俺の体の感想を言われたって事は、俺が美羽の体の感想を言っていいんだよな?」
温泉から逃げる事も美羽から目を逸らす事も出来ずに、体つきを褒められたのだ。
その後ある程度落ち着きはしたものの、心臓はうるさいくらいに音を立て続けている。
美羽も頬をずっと朱に染めているので、程度の差はあれど悠斗と同じ感情を抱いているはずだ。
それでも同じ思いをしてもらおうと、にんまりと笑みつつ問いかければ、美羽の表情が固まった。
「えっと、それは、恥ずかしいな……」
自分の番になって、先程までとは比較にならない程の羞恥が沸き上がってきたらしい。
美羽が首まで真っ赤にしつつ、視線をあちこちに散歩させ始める。
「俺だって恥ずかしかったから、お互い様だっての」
慌てる美羽は頭を撫でたくなるくらいに可愛く、決意が少しだけ鈍ったが止めはしない。
もちろんあまりに踏み込んだ事を言うつもりはないが、肩から上の感想くらいはいいはずだ。
女性の体を褒めた事などないので、緊張でつっかえそうになる口を必死に動かす。
「という訳で早速いくぞ?」
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私が悪かったから――」
「腕は細くて真っ白だし、鎖骨は色っぽいし、お湯で温まってるせいで頬が赤くて可愛いな。髪を纏めてるのは残念だけど、解いたら凄く綺麗なんだろうな」
「あの、その、あ、あう……」
美羽の静止の言葉も聞かずに本心を伝えると、美羽が忙しなくじたばたとしだした。
顔が今まで見た事のない程に赤くなり、このままでは茹でられてしまうのではと心配になる。
流石にやりすぎたかと思った瞬間、美羽が勢いよく立ち上がった。
万が一にも変な所を見てはいけないので、すぐに顔を逸らす。
「こういう時だけ狡いよぉー!」
脱兎の如く美羽が部屋へと戻っていく。走るのは滑るから危険なのだが、大丈夫だったらしい。
天国のような、地獄のような状況から解放されてホッと安堵の息を吐き出す。
美羽が着替えるまで待っていると「いいよ」と羞恥に満ちた声が聞こえてきた。
「はあ……。やっと上がれる」
いい加減のぼせそうだったので、小さく呟きつつ温泉から上がって体を拭く。
美羽が居なくなり、体の反応が収まってくれたのも有難い。
しっかりと着替えてから部屋に足を踏み入れると、鼻から何かが垂れてきた。
「何で鼻水なんか……」
「悠くん、それ違う! 鼻血だよ!」
美羽が先程の出来事など忘れたかのように、素っ頓狂な声を上げる。
手で拭き取ってみると、確かに赤く染まっていた。
「あ、ホントだ。鼻血なんて久しぶりに出したなぁ」
「何でそんなに冷静なの!? 早くこっちに来て!」
美羽が大慌てで悠斗を手招きする。
どうやらあまりに長く温泉に浸かっていたのと、美羽と一緒に居て心臓が頑張り過ぎたせいで、悠斗の鼻が決壊してしまったらしい。
鼻血くらい大した事ではないのだが、美羽が顔を青くしているので大人しく従うのだった。
美羽がお世話してくれたお陰で鼻血は収まった。ただ、なぜか悠斗は布団の上で美羽の膝に頭を乗せている。
安静にして欲しいとの事だが、美羽の甘い匂いや膝の感触で再び鼻血を出してしまいそうだ。
逃げようとしても瞳を潤ませて駄目だと告げてくるので、せめてもの抵抗として一言くらい言っておく。
「これは鼻血のお世話じゃなくないか?」
「お世話だよ! 私が長湯させたせいで悠くんがあんな目にあったんだから! 本当にごめんねぇ……」
「別に謝る必要はないんだけど……。まあ、そんなに言うなら甘えようかな」
今にも泣きそうな声で謝ってくるので、悠斗が気にするなと言っても無駄だろう。
これは美羽を納得させる為に仕方ない事だと言い聞かせて、体の力を抜く。
柔らかい膝に頭を委ねれば、ようやく美羽の顔に笑顔が戻った。
「うん。いっぱい甘えてね」
白くほっそりとした指が伸びてきて、悠斗の髪を撫でる。
悠斗を労う優しい指使いを堪能していると、少しづつ眠気が襲ってきた。
あまりの気持ちよさに目を閉じていれば、瞼越しの光が急になくなる。
「……なんで?」
「悠くん、眠そうだったから。ゆっくり寝て欲しいなって」
目を開いて尋ねると、月明かりに照らされた美しい顔がはにかんだ。
今日は雪が降らず快晴だったが、こんな所に恩恵があるとは思わなかった。
美羽の顔があまりに綺麗すぎて見惚れていると、どこか悲しそうに美羽が微笑む。
「もう冬休みが終わっちゃうね」
「……ああ、そうだな」
旅行から帰って一週間も経たないうちに冬休みが明ける。
残りの期間にイベントなどないが、現実を突きつけられて名残惜しくなった。
美羽も同じ気持ちだからこそ、笑顔に寂しさが混じっているのだろう。
「悠くんは、この冬休み楽しかった?」
「楽しかったよ。多分、今までで一番の冬休みだった」
何も知らずに家の中で遊び惚けていた小学校とも、部活にひたすら追われていた中学校とも違う。
穏やかで、心地よくて、幸せな冬休みだったと断言出来る。
出来る事なら、ずっとこうして美羽と一緒に居たいと思えるくらいに。
(家の中だけじゃない。クリスマスとか初詣、それに今回の旅行のように、外に出るのも楽しかったなぁ……)
僅かな時間だが、美羽と外で触れ合うのは本当に楽しかった。
それがもう出来なくなり、以前のような学校生活に戻ると思うだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。
(……もっと、もっと、一緒に居たい。家の中でも、外でも)
家の中が不満なのではない。毎日外で遊ばなくてもいい。ただ、美羽との時間をもっと増やしたい。
それを実現させるのがどれだけ大変な事で、あまりにも我儘な願いだというのは分かっている。
しかし、一度沸き上がった願いを消せはしない。
その為に、ずっと逃げていたものに、ようやく向き合う。
「なあ美羽。俺は、外でも美羽と一緒に居たい」
「……いいの?」
言葉へと乗せた想いに、美羽が気付かないはずがない。
なのに、短い問い掛けには悠斗を心配する気持ちが溢れんばかりに込められていた。
どれだけ気遣われていたのかが改めて分かり、悠斗の顔に苦笑が浮かぶ。
一度目を瞑り、苦笑を消して真っ直ぐに美羽を見上げた。
「ああ。だから、頑張るよ。自信を持って美羽の隣に居られるように」
勉強も、運動も、何一つ自慢出来る事などない。自信なんて少しも持っていない。
だが、こんなにも悠斗を想ってくれる少女の隣に胸を張って立ちたいのだ。
決意を言葉にすると、美羽の顔が嬉しいような、悲しいような、複雑な笑顔に彩られる。
「……ありがとう、悠くん」
「俺の方こそありがとうだ。今まで見て見ぬフリをしててごめんな」
美羽からの好意を何となく自覚したのはクリスマスからだったが、おそらくそれ以前から向けられていたのだろう。
あまりにも申し訳なくて、少しでも美羽を癒したくて、手を伸ばす。
悠斗の手は抵抗などされずに、すべすべの頬へと吸い込まれていった。
触り心地の良い頬をゆっくりと撫でれば、美羽が気持ちよさそうに目を細める。
「いいんだよ。ずっと、ずっと待つつもりだったから」
はっきりと告げられた言葉からすると、悠斗が見て見ぬフリをしていても、美羽はずっと傍にいてくれたようだ。
月明かりの中でも、澄んだはしばみ色の瞳が強い決意を秘めているのが分かる。
これほどの愛情を向けてくれていたのに、それを無視し続けた自分自身を殴りたいくらいだ。
「あまり待たせない、って言えたらいいんだけどな……。正直、どうすれば自信が付くかなんて分からない。だけど絶対に逃げないから、待ってて欲しい」
更に待たせるなど、男として失格だと分かっている。
けれど、このまま美羽と一緒に居ては駄目だと思ったのだ。
あまりの情けなさに胸が痛むが、痛みを必死に隠して笑みを向ける。
悠斗の願いに、膝枕をしてくれている少女は溢れんばかりの歓喜の笑みになった。
「その言葉だけで十分だよ。忘れないで、どんな悠くんでも、私は傍にいるからね」
「本当に、ありがとな。……よし、もう鼻血も大丈夫だろ!」
改めてお礼を告げて、美羽の膝から起き上がる。
何をすればいいかはまだ思いつかないが、美羽から元気をもらった今なら心が折れる事などない。
「折角だから、頑張る悠くんにご褒美をあげるね」
鼻の調子を確かめていると、小さな体がゆっくりと近付いてくる。
悠斗の心臓を虐める甘い匂いが香り、柔らかな指先が悠斗の左の頬に添えられた。
「美羽?」
「……」
悠斗の問いかけに、互いの吐息すら掛かる距離で頬を真っ赤に染めた少女は応えない。
潤んだはしばみ色の瞳に見つめられ、身動きが出来なくなる。
どくどくと心臓の鼓動だけが響く中で、美しい顔が視界から消えた。
それと同時に、指ではなくあまりにも柔らかいものが右の頬に触れる。
「…………え?」
すぐに感触は消えたが、この状況で間違えるはずはない。
呆けた声を出す悠斗から、美羽が凄まじい勢いで距離を取る。
「も、もう寝るね! おやすみ!」
ばたばたと美羽が布団を敷き、毛布に包まってしまった。
まだ寝るには早い時間なのだが、悠斗と顔を合わせられなくなったのだろう。
とはいえ、悠斗もまともな会話が出来そうにない。
先程の感触を思い出すだけで頬が火に炙られたように熱くなり、心臓がうるさいくらいに跳ねてしまう。
(頑張らないとな)
あれほどのご褒美を前払いでもらったのだ。駄目でしたでは済まされない。
改めて決意をし、布団に寝転ぶ。
「おやすみ、美羽」
ぴくりと隣の布団が震えたが、返事はない。
布団の中で顔を真っ赤にしている美羽を想像し、小さく笑みを零して目を閉じる。
様々な事があったせいで、少しも眠くならないのだった。