第106話 部屋の外の温泉の使い方
「……何してんだ?」
美羽とのお出掛けを終えて帰ってくると、蓮が部屋に居た。
それ自体は何もおかしくはないのだが、いそいそと荷物を纏めている。
旅館を出るのは明日のはずだ。蓮の行動を訝しむと、悪戯っぽい笑みが返ってきた。
「予約したのは二部屋だ。その部屋に男女別々で泊まる、なんて伝えてないだろ?」
「……お前、ホントにやるのか? 下手したら家に連絡が行くぞ?」
蓮の言わんとしている事を理解して、顔が引き攣る。
部屋割りは悠斗達が勝手に決めたものなので、移動しても問題はない。
しかし、ここは蓮の母親の知り合いが運営しているのだ。
念の為に確認すると、蓮が大真面目な顔で頷く。
「当たり前だ。そもそも、俺と綾香が許嫁って事は知られてるんだ。同じ部屋で寝るのに何の問題があるんだよ」
「そう言われたらそうだが、俺と美羽は駄目だろ」
蓮と綾香は大丈夫かもしれないが、悠斗と美羽は違う。
付き合ってもいない未成年の男女が同じ部屋で寝るなど、旅館側としては見過ごせないはずだ。
わざわざ言いふらすつもりはないので、黙っていればバレないかもしれない。
それでも万が一を考えると、簡単に頷けはしないのだ。
しかし蓮は違う考えのようで、表情を呆れた風な笑みへと変える。
「雪合戦してる男女なんて、恋人に思われて当然なんだよ。そんな二人が一緒の部屋で寝るのに、文句なんて出る訳ないだろ?」
「何でバレてんだよ……」
「人目に付きやすい所ではしゃぐからだ」
蓮にはあの雪合戦を見られていないはずなので、おそらく旅館側から告げ口されたのだろう。
後悔はないが恥ずかしくて項垂れると、蓮がからからと笑った。
「因みに向こうは乗り気らしいけど、まだ何かあるか?」
「……ない」
蓮に注意はしたものの、美羽と一緒に泊まる事が嫌な訳ではない。むしろ、提案を受け入れたいくらいだ。
そんな悠斗に十分な建前を用意されては、反論など出来なくなる。
悠斗が首を振った事で、蓮が笑みを深めた。
「そういう事で、俺はあっちの部屋に行くぜ。布団は綾香の物を使うけど、もし東雲が使ってた部屋に俺を入れたくないなら交代するか?」
「そんな事でいちいち神経質になるか。気にしないっての」
他の男子なら少しくらいは思うかもしれないが、蓮に対してそんな感情は湧かない。
さらりと流すと、蓮が生暖かい笑みをしながら悠斗の肩を叩いてきた。
「大声を出したら俺らにも聞こえるから、気を付けろよ? 盛り上がるのも程々にな?」
「お前らじゃないんだからしないっての! 変な事を言うな!」
「まあ、悠ならそうだろうな。抑えるつもりだけど、声が聞こえたら悪いな」
暗にそういう事をするのだと伝えられ、羞恥が沸き上がる。
このままでは隣の部屋を意識してしまいそうで、へらりと笑う蓮を思いきり睨んだ。
「早く行け! 止めろとは言わないけど、頼むから抑えてくれよ?」
「ははっ、マジですると思ってたのか? 大丈夫だって、しねえよ。……多分な」
自制を効かせるつもりのようだが、やはり場の流れというものがあるのだろう。
悠斗も美羽と付き合えたのなら手を出したかもしれないので、止める事は出来ない。
準備を終えた蓮が最後に小さく呟き、荷物を持って出て行った。
「はぁ……。美羽と二人きりか」
二人きりの状況など毎日だし、一緒に寝た事もある。気にしなければいいだけだ。
それでも旅館という非日常な空間が、悠斗の胸をざわつかせる。
ジッとしていられずに部屋の中をうろうろしていると、ノックの音が聞こえた。
「はいはい、今行くよ」
なぜか急かされているような気がして早足で扉に向かい、鍵を開ける。
そこには恥ずかしそうにうっすらと頬を染め、上目遣いで悠斗を見つめる美羽がいた。
「……いいかな?」
「……ああ、上がってくれ」
何となくぎこちない空気の中、旅行鞄を持った美羽を部屋に上げる。
すぐに美羽は荷物を置き、視線をあちこちにさ迷わせ始めた。
落ち着かないのがありありと分かる態度に悠斗の頬が緩む。
緊張が解れて座り込むと、美羽が意を決したような表情になった。
「ねえ、悠くん。傍に行ってもいい?」
「もう今更だろうが。お好きにどうぞ」
散々美羽と触れ合っているのだから、近くに行く許可などわざわざ取らなくてもいいはずだ。
言葉にするのは気恥ずかしかったので、素っ気なく告げる。
衣擦れの音が近付いてきて、悠斗の背中に暖かいものが触れた。
感触からして、美羽が背中をくっつけてきているのだろう。
あまりに軽い美羽の体重や、服越しかつ背中なのに感じる女性らしい柔らかさに、悠斗の心臓が暴れ始める。
しかし、それは悠斗一人ではないようだ。
「悠くん、心臓がどくどくしてるよ?」
「美羽こそ、自分でやっておいて緊張しすぎだろ」
悠斗の鼓動が美羽へと伝わるように、美羽の早鐘のような鼓動も伝わってきている。
人の事は言えないと注意すれば、背中越しに美羽の体が震えた。
「そりゃあそうだよ。いつも、いつも、悠くんに触れる時はこんな感じなんだからね?」
「……そっか」
悠斗を意識していると言われて、歓喜の感情が沸き上がってくる。
今の悠斗の顔は真っ赤になっているだろうから、見られなくて本当に良かった。
その後、互いの鼓動を感じつつ、スマホを弄ったり他愛のない話をしながら、晩飯までゆっくりとした時間を過ごすのだった。
「いやー、今日の飯も美味かったな」
「うん。豪華だったねぇ」
晩飯を終えた頃には悠斗達の雰囲気は普段のものに戻っており、今はあれこれと感想を言いつつ部屋で寛いでいる。
昨日と違って今日は美羽と二人きりの夜になるが、これなら問題なさそうだ。
気楽に構えつつ風呂の用意をしていると、美羽が「ねえ」と言葉を発した。
「今からお風呂に行くの?」
「ああ、今日もあちこち歩いたからな。冬でも汗を掻いてるだろうし、早めに入ろうかと思ってな」
「……なら、とっておきの温泉があるよ」
もじもじと居心地悪そうにしつつ、美羽が提案してきた。
頬は僅かに赤く染まっており、何となく悠斗の心臓に悪い事が起きる予感がする。
とはいえ折角提案してくれたのだから、聞いておいた方が良い。
「そんなものあるのか?」
「うん。この部屋の、外に」
「外って……。ああ、そういう事か」
各部屋に温泉があるという豪華な旅館だが、大浴場が凄すぎて頭から抜け落ちてしまっていた。
そもそも蓮と一緒に入るのなら、部屋で入る必要などないと思っていたからでもある。
ただ、一度くらいは入ってもいいかもしれない。
「それもいいな。なら今日は部屋の温泉に入るよ」
「分かった。じゃあお先にどうぞ」
にっこりと笑んで美羽が悠斗を促す。
変な言い方だなと思ったが、美羽も悠斗が上がってから入るのだろう。
「ありがとな。それと、見るなよ」
「じゃあカーテンをしておくね」
流石に覗くつもりはないらしい。美羽が分かっているという風に頷いた。
すぐに最低限の準備を終え、外の温泉へと向かう
こじんまりした作りだが体を洗うのに問題はなく、さっと体を綺麗にしてから温泉に浸かった。
「はぁ……。これはこれで悪くないな」
大浴場とは違い、誰も入ってこない一人での温泉は気が楽だ。
目を閉じてぐったりと体の力を抜くと、体を洗う事で冷えた体に温泉がじんわりと熱を与えていく。
「お湯加減はどう?」
「おー。最高だぞ。美羽もどうだ――はあ!? 美羽!?」
鈴を転がすような声につい反応してしまったが、美羽がこの場に居るはずがない。
しかし、美羽の声を間違うはずがないのも確かだ。
素っ頓狂な声を上げて振り返ると、体にタオルを巻きつけた美羽が頬を紅色に染めて立っていた。
普段見る事のない真っ白な二の腕や太股に、目が釘付けになる。
必死に理性を働かせて目を離すと、くすくすとおかしそうに笑われた。
「変な声が出ちゃってたけど、どうしたの?」
「いや、おかしいだろ。俺が入ってるんだぞ?」
「うん、知ってるよ。それの何が問題かな?」
未だに美羽は頬を赤くしているので、かなり恥ずかしいのだろう。それでも、こてんと可愛らしく小首を傾げられた。
この状況を作ったにも関わらず惚ける美羽に、じとりとした視線を送る。
「問題大ありだ。俺に見られるんだぞ?」
「……全部は恥ずかしいけど、これくらいなら大丈夫。それに、ここには男女別に入るっていうルールはないよ」
大真面目に指摘しても、羞恥を混ぜた微笑みで肯定された。
昨日蓮に説明された通り、男女が一緒に入るのならこの部屋しかないのは分かる。
一番大変な美羽がいいと言っているのだし、黙っていれば蓮達にバレる心配もない。
そう考えてしまった事で、美羽に文句が言えなかった。
「じゃあ体を洗うから、あっち向いててね」
悠斗の沈黙を肯定と受け取ったのか、美羽がご機嫌な笑みでいそいそと体を洗う準備をしていく。
このままでは逃げられなくなると思い、お湯から立ち上がろうとしたところで、美羽がくるりと振り返った。
当然ながら悠斗は美羽が入ってくるとは思っていなかったので、タオルを腰に巻いてなどいない。
見せられないものを隠すため、すぐにお湯の中へと体を戻す。
「ちなみに、振り返ったりお湯から出たりしたら怒るから、覚悟してね?」
「ハイ」
有無を言わせない迫力のある笑みに、逃亡も覗きも封じられてしまった。
元々覗くつもりはなかったが、これでは大人しく待機するしかない。
後ろから聞こえてくる美羽が体を洗う音が艶めかしく感じ、悠斗の心臓を虐める。
どこにも行けずに川の流れる音で気を紛らわしていると、隣から水音がした。
「お邪魔しまーす」
妙に元気な、けれど緊張からか上ずった声に、悠斗は首を反対方向に向ける。
手は下半身の大事な所を隠しているし、水の中なので詳しく見られる事はないはずだ。
そのままジッとしていると、美羽がほうと息を吐き出した。
「いいお湯加減だねぇ」
「まあ、そうだな」
「で、こっちを向いてくれないの?」
「……見れるかっての」
恋人ではない異性の温泉に浸かっている姿など、絶対に見てはいけない。
この状況なら仕方ないと誘惑してくる邪念を頭から叩き出していると、くすりと小さな笑い声が聞こえた。
「なら、私から近付いちゃおうかなー」
「待て待て、それは駄目だ」
「やーだよ。悠くんが目を合わせてくれないなら、もっと近付いちゃうからね?」
「ああもう、分かったから! 文句言うなよ!?」
温泉で、ほぼ裸で、美羽が至近距離に居るなど、絶対に悠斗の理性が保てない。
悪戯っぽい声にどうにでもなれと返事をし、美羽の方を向く。
「えへへ、やっと見てくれたぁ」
お湯で体が温まったのか、それとも羞恥からか、美羽の顔は耳まで真っ赤だ。
それでも、とろりと蜜が零れそうな甘い笑みをしている。
お湯から出ている綺麗な鎖骨や、細くて白い二の腕を視界に入れてしまい、悠斗の頬に熱が集まってきた。
「俺には刺激が強すぎるんだよ……」
「私も、どきどきしてるよ。悠くんは普段運動してるから、凄く体が綺麗だねぇ」
ぽつりと呟いた言葉に、美羽がはにかみながら答える。
今すぐにでも逃げ出したくなったが、タオルのない悠斗が温泉から上がる事は出来ない。
温泉の熱が、美羽の笑顔が、なけなしの建前を溶かしていく。
こんなに美羽が喜んでいるのだから、混浴くらい問題ないはずだ。
「恥ずかしいから言うなって」
「ふふ、ごめんね。でも、こうやって一緒にお風呂に入るのも悪くないねぇ」
「……ああ、そうだな」
好意を向けている人と二人きりで温泉に浸かる。こんな夢のような状況が嫌な訳がない。
美羽がへらっと緩みきった笑みを浮かべ、悠斗も同じく笑みを返す。
むず痒く、しかし幸せだと思える空気の中、二人でゆっくりと温泉に浸かるのだった。