3話:夢の街-3
ランプの火が照らす暖かな浴室は決して広くはないが、一人には丁度いい広さである。木の壁は簡単な造りで、装飾は少ないが必要なものは取り揃えられていた。円型の木製の浴槽にはこんこんと白濁した温い湯が注がれていて、シエルが湯から体を上げれば、仄かな白い湯気が、色白の裸体の首から腰にかけての曲線美を隠すようにまとわりついた。頬は上気して色っぽくほんのりと赤く染まっていた。
彼女の体は細身ではあるが、猫科の猛獣のようなしなやかな筋肉がついていて、全く無駄が存在しないかのようだ。言い方を換えれば、女性らしさという点においてやや控えめであった。
束ねられている銀の髪は、その艶を取り戻したように、照明の炎の揺らめきに煌めいた。眼帯はつけたままであり、水分を吸ってずっしりと重くなっていた。
シエルはため息を一つ吐く。後ろ頭の眼帯の留め金に手を伸ばす。僅かに震えているのは不安と緊張からだ。ぱちりと外せば眼帯は湯船にぽちゃんと落ちた。
近くの棚に置いてあった手鏡を取ってその曇りを拭い、そして恐る恐る覗き込んだ。その目的は世の女性がするようなことではないことは確かである。
「……く」
映っているのは当然ながら彼女自身の顔である。しかし今までと違うのは、眼帯で隠された顔の左側が露になっていることだ。
そしてそこにあったのは、一見悪趣味とさえ取れる刻印であった。閉じられた瞼の上からこめかみ、頬骨にかけて、獅子と狼を掛け合わせたような恐ろしい獣の印が赤黒く刻まれていた。
これこそが、彼女の尋常でない力の理由である。彼女は既にただの人間ではないのである。いや、もはや人間であるのは形だけなのかもしれない。
この刻印こそがその原因であり、彼らが狼と呼ばれる所以である。古い民族の慣習として地に生きる者の姿を象って、肉体にそれを刻んだ。そうすることで弱き人の身を超えようとしたのである。この人の身さえも歪ませる“狼”の刻印はまさしくそれから見出された技術、奇跡である。
シエルはゆっくりと顔に手を伸ばして、刻印を震える指でなぞった。
「……っ!」
その瞬間殴られたような衝撃が走って、彼女は身を固くさせる。痛みは一瞬にして幻だったように消え去ったのだが、体を弛緩させるにはやや少し時間がかかった。歯を食い縛り、姿も無しに襲い来る恐怖に耐える。両手を痛いくらいに組み合わせ、祈るように目を瞑る。
「……ま、まだ……わ、私は……」
と、その時控えめに扉が叩かれた。素早く眼帯を着け、厚手の布で体を隠す。だが警戒も無駄であった。声は老婆トゥレナのものだったからだ。
「もし? シエルさん、どうかなさった? お加減はどう?」
「いえ、大丈夫、です」
「そうですか? お髪につける油と代わりの服を用意してるので、上がった声を掛けてね。では」
トットットと、軽い足音が離れていく。その後には、水がぽちゃんと落ちる音だけが寂しく響き渡った。
◇
アルケーはいつになく上機嫌であった。鼻歌を歌いそうなくらいだ。
早々に体を洗い、ボサボサだった茶色の髪をモンスに短く切り揃えてもらい、肌触りのよくゆったりとした衣服を身につけて、簡単な靴を履いていた。今は暖かい野菜や肉がごろごろ入ったスープを心のそこから旨そうに食べていた。
塩味の効いた肉は唾液がじゅるりと溢れてしまいそうなほどで、よく煮えたの葉物野菜は何とも心地よい歯ごたえだ。熱い汁は腹の内側から彼の体を暖めた。腹を満たすわけでもないのに食らうことには、何も意味はない。
彼がいるのは商会の客室である。ベッドは離れた位置に二つあって、目隠しの仕切りが畳まれて端に置いてあった。窓からは眩しい白い光が入ってきていて、どこからか子どものはしゃぐ声が聞こえてきた。
ノックもなしにがちゃりと扉が開けられると、すこし身を屈めてモンスが入ってきた。手には彼に用意された食事だろうか、食べかけの大きなサンドウィッチがあった。
「よぉ! ガキんちょ、食ってるか!?」
「うん! こんなに美味しいのは久しぶりに食べたよ!」
「おぅ、そりゃ良かった! それで、着てた服は捨てちまって良いのか? まぁ、すっかりボロボロだったが」
「良いの良いの、あれは拾い物だし、僕には少し大きかったしね。借り物ではあったけど、まぁ、怒られることもないから大丈夫。これ、秘密ね。今のこの服と比べたら雲泥の差だね!」
衣服の裾を引っ張って自慢げに見せる。モンスは笑ってアルケーの頭をがしがしと撫でた。アルケーはまた食事に戻ると、モンスは近くの椅子を引きずってきて座った。椅子が彼の巨体に悲鳴をあげたが、彼は構う様子もない。モジャモジャの髭を弄りつつ、だがやや真剣な面持ちになったのだが、アルケーは一向に気づかない。
「なぁ、楽しんでるところ悪いが、すこしいいか?」
「うん?」
「少し頼みたいことがあるんだ」
「というと?」
「それは、彼女らが来るのを待ってからだな。おっと、噂をすれば」
扉が静かにノックされ、モンスが返事をするとこれまた丁寧に開けられトゥレナ、その後少し遅れてシエルが入ってきた。シエルが部屋に入った途端、ふわりと鼻腔をくすぐる華やかな香りが室内に満ちた。シエルは真っ白な絹のローブを着て、裾から伸びる裸の足はサンダルを履いて、随分楽な格好をしている。緩く纏められた銀の髪は艶を増し、眼帯で隠されていない方の頬は、薄く桃色に染まっていた。ただその細い腰には無骨な分厚いベルトが巻かれてあって、ナイフが二振り差してあった。
「わぁ、シエルってばお姫様みたいだ!」
「……黙って、これは仕方なかったから」
「うふふ! ごめんなさいねぇ、とっても汚れてたからついつい」
トゥレナは優しく柔らかな笑みでそう言ったので、シエルも強く文句を言うことはできなかった。
「ホントに綺麗だ……! そう、本当にお姫様みた、むぎゅ!?」
「くっ……黙れ!」
シエルは少し羞恥に頬を染めて机の反対側から身を乗り出して、アルケーの頬を鷲掴みにした。緩いローブのためにアルケーの視線は、或いは男としての本能からか、ちらりと見えた胸元に吸い込まれた。
「……? どこを見て……? っ!」
その不躾な視線の向かう先に気づいたシエルは、咄嗟に服を押さえて身を引いた。
「え? あ、ごめん! ちょっと、あんまり綺麗だったから!」
慌てた言い訳に、彼女は羞恥から怒りに頬を紅潮させ。
「このっ、バカ!」
「ぶぇっ!」
それはそれは、見事な平手打ちだった。
◇
シエルはとても不機嫌そうな顔で、背を壁に預けて立った。繰り返し「ごめんね?」と言っているアルケーの左頬は、赤い手形が綺麗についていた。モンスはトゥレナに席を譲り、彼女の後ろに控えるように立った。老婆は楽しげな笑みを打ち消し一呼吸置いて「さて」と口を開いた。
「お二人はラエティティア様にお会いしたいと、この街へいらっしゃったのでしょう? モンスちゃんから聞きました。とても素晴らしいことだと思うわ! 遠路はるばるご苦労様です」
アルケーは空になったお椀を名残惜しそうに眺め、ようやく食器を置いた。トゥレナは言葉を続ける。
「それでね、一つお願いしたいことがあるの。ついで、というのは言い方が悪いかもしれないけど。でもホントにそれくらいの、とっても簡単なお願いです」
トゥレナは明るい窓を遠い目で眺めた。
「この街は、もともとは滅びる運命でした。私達は皆歪んでしまって人でないものに変わるか、耐えきれずに息絶えるか、そのどちらかでした。ラエティティア様は滅び行く我らを救ってくださったのです。えぇ、とっても古い話ですが、そのお姿は……」
トゥレナは懐かしそうに目を細める。
「あぁ……そのお姿は、私達には、あの方は正しく聖女でした。その歌声は清く美しかった。あれは救い、そして祈りの歌でした。あぁ、何と表現すればいいのかしら。困っちゃうわ」
老婆はおどけるようにとても可愛らしい笑みを作って見せた。だが、シエルは静かに問を口にするのだった。
「……つまり、どうせよと言うのですか? 頼みとは?」
「あぁ、ごめんなさいね、年を取ると昔がなつかしくってついつい話しすぎちゃうわ。頼みは簡単です。聖女様の御姿を確認してきてほしいのです。きっとこんな頼みはは失礼なのでしょうけどね。でもね、せめて、これだけは届けてほしいの」
トゥレナは立ち上がり窓辺に歩み寄る。そこには、美しく咲き乱れる花が幾輪かあった。名は知らないが、大きく広がった五枚の花弁の、白いそれは、生気に満ち溢れていた。
「いつ頃から、あの方の歌声は聞こえなくなってしまった。それどころか、姿さえ見せなくなってしまったの。必需品や食料の依頼は届くのだけどね。でも、姿を見せるのは老紳士だけ……そういえば、あの人は誰だったかしら。聖女様のお付きの方は、だいぶ若かったのだと思ったけど」
と、そこで彼女は話があらぬ方に進めてしまっていることに気付いて、コホンと咳ばらいをした。その一種の沈黙の後、シエルが念を押すように言った。
「ラエティティア婦人の現状を確認してこい、ということですね?」
「そう、ね。街の為でもあるし、私自身の為でもある。恩着せがましいけど、きっと彼女の為でもあるはずよ。あの方はずっと私達の歪みを肩代わりしてくれていたのですよ。きっと今も……だから、どうかお願いします」
「どうして僕たちに?」
「あぁ、執事さんが言ったのよ。『主人は、"狼"をお待ちになられています。』って。だからね、シエルさんあなた、それ、なんでしょう? 私には何のことかわからないけど」
「……わからない、とは?」
「言葉通りですよ。その、"狼"というのがわからないのですよ。きっと動物のそれとも違うのでしょう?」
これは大変に不自然なことだった。歪みの怪物、不死なる化け物を殺すには、刻印者とも云う"狼"の存在が不可欠である。毒を以て独を制すように、怪物の歪んだ生を歪ませることによってそれを滅ぼすのである。
ならば、これを知らないということは、一体何を意味するのか。
だがシエルの中で答えが出る前に、トゥレナは彼女の碧い隻眼をまっすぐに見つめた。老成しても未だ若々しい瞳は、日の光を反射して輝いた。
「だから、どうか、聖女様を、よろしくお願いします」
深く深く、トゥレナは頭を下げる。それは臍を噛む思いからである。彼女にはどうしようもできないことに対し向ける矛先のない苛立ちと、この上なき無力感に苛まれてきたのだろう。アルケーにそれを完全に推し量ることは出来なかったが、彼の善性は彼女を助けたいという純粋な想いを産み出した。たとえ彼に助けられるような力なんてなくても、である。
「いいともさ!」
彼は勢い良く立ち上がり、トゥレナのしわが目立った手を取る。
「任せてよ! きっとラエティティアさんに会ってくるよ! ね、シエル!?」
「あ、あぁ」
やや面食らったようにシエルは頷いた。老婆は顔を少しあげて、もう一度下げた。
「本当に、お願いね」
「よーし! 話しは纏まったな?」
モンスは満足げに頷いて、トゥレナとアルケーの肩を、大きな手でぽんぽんと優しく叩いた。強面でも豪気に笑えば、なかなか取っつきやすいのであった。和気あいあいとした雰囲気が流れる中、一人シエルは一抹の不安を抱えていた。
堪らぬ血で誘うものだ