3話:夢の街ー2
窓掛けの隙間から差し込む光に手を伸ばす。腕は重く、力なく震え、しかしそれでも眩しいそれを求める。指は空だけを掴み、温もりすらも得られず、力なく落ちた。
彼女は知っていた。
もはや自らには、それらを享受する体も心もない。叶わぬ願いとか弱き祈りと、膨大な絶望と微かな希望が自らの中に渦巻いているのだと。
彼女は知っていた。
萎えた足は、地を踏みしめて歩くことも老いさらばえた体を支えることすらできない。痩せ衰えた腕は、体を引き摺って這い進む力もないと。
彼女は知っていた。
かつての歌声は、掠れたうめき声と変わり、彼らが救おうとした世界は運命としてやがて朽ちる。そして今や彼らは皆、死に絶え消え去り、残されたのは自分だけであることも。
彼女は知っていた。
彼らは人であった。獣、狼と呼ばれようとも、どれだけ忌み嫌われ、彼らの凱旋に石が投げられようと。彼らは人であった。酒を飲み交わし、下品な歌を歌い、作法も何もない踊りを踊り、あるべき生と来るべき死を重んじる彼らは、彼女の知る内で最も人間臭い者達であった。
だからこそ、彼女は彼らを愛しているのだ。彼らが成そうとしたことに敬服しているのだ。たとえそれが、彼女を滅ぼすことになったとしても、定めとしても、彼らを称賛するのだ。それこそが喜びである。
だからこそ、だからこそ、もう一度だけ。
彼女はもう一度、光に手を伸ばす。しかし、光は僅かに明滅して完全に遮られてしまう。
彼女は思う。それは後悔。
否、喜びである。
しかし、自分も彼らと共にあれば。もし、もっと自分に力があれば。もし、もしも、あれが最後の別れであったと知っていたならば。
彼女は思う。それは願い。
否、歓喜である。
もし、この背中に翼があれば。もし、この喉が歌を奏でられたならば。きっと、鳥のように自由に飛び立って、嵐のように布も窓も突き破って一直線に彼らの元へ行こう。木陰に休む彼らの頭上に止まり、心を一時でも癒す歌を囀ずろう。
彼女は思う。それは嘆き。
否、それは愉悦である。
手を尽くしたとて、いずれ滅びる。
夢を見、飛び上がった矮小なものは、天の光に眼を焼かれ、奈落へと真っ逆さまに落ちるのだ。人であれ獣であれ、行く道は似たようなものだ。
しかし、そうであっても、彼女は彼らの帰還を待ち続けるのだ。愛しい彼の姿を待ち続けるのだ。どんな姿でも構わない。今や忘れてしまった顔と声を待ち続けているのだ。
喜びである。
ただそれだけが、その呪いが、鎖となって彼女を人に繋ぎ止めていた。或いは人は、元からそのように恐ろしきものであったのだろうか。
◇
馬車ならぬ亀車に揺られ、彼らは街の外壁へと辿り着いた。古びた砦のようになっていて、多数の傷跡や、欠けた場所などが多数見かけられた。壁の上には何人かの人影が見え、油断なく辺りを見渡しているようだった。門は巨大であり、門番もモンスも慣れた様子で手続きを済ませ、巨大亀をゆっくりと進ませた。
門をくぐった先には、見事な街並みが広がっていた。煉瓦の壁は高く、瓦屋根は赤い。それぞれが二階建て以上で、高い煙突のあるものや、広いテラスのあるものもある。賑やかな声がどこからか聞こえて、子ども達が楽しげに走り回っていた。
舗装された道路は広く、巨大亀が歩いたとしたも、かなり余裕があった。当たり前だが、道行く人の興味をかなり引いた。また、馬車もすれ違うのだが、馬達が少し怯えたような視線を向けていた。ものともせず亀は道を進んでいく。
「あれが見えるか? あそこがラエティティア様の住む館だ」
モンスが道の先の、少し小高い場所を指差した。アルケーが見れば三つの塔があり、一際大きい館があった。遠くから見てわかるほど壁には蔦が生い茂っており、場所が場所であれば廃屋と見違えてしまうだろう。高い煙突から微かに白い煙を出していた。
モンスはある建物の前に荷車を停める。看板には"トゥレナ商会"という文字があった。並び立つ建物は巨大な扉のついた更に巨大な倉庫であった。モンスの連れている巨大亀さえも簡単に葉入れてしまう程の大きさである。ピカピカに磨かれた金具などを見るに、構造も立派なものであることは想像に難くない。
「あぁ、全く、変わらねぇなぁ……」
モンスはそれらを見上げつつそんな言葉を呟いたのだが、懐かしさを感じたのではないようだった。その証拠に、一瞬痛みを堪えるように顔を歪めたのだ。
だが、アルケーが疑問を尋ねる前に、モンスは亀の手綱を持って御者台から飛び降りてしまった。それに続いてアルケーも飛び降りたのだが。
「あいてっ」
彼の体には高過ぎた。情けなくドテッと尻から倒れてしまう。ひらりと身軽に降りたシエルに襟首を持たれて無理やり立たされた。
シエルはそのままの足で、巨大亀から多数の縄を外してやっているモンスに声を掛けた。
「感謝する。私達はここで別れようと思う。これは心ばかりのものだが……」
懐から小袋を取り出して差し出した。金属の擦れる音がする。モンスは豪胆に笑ってそれを押し返した。
「いらんいらん! 俺がそんなケチな男に見えたかよ!? もし金目当てだったら、別に馬鹿正直に目的地まで連れていくこたぁねぇだろう。ここの主人は馴染みだからな、ちょっと待っててくれよ」
モンスは軽く拳をつきだして、そして建物に入っていった。シエルは軽く息を吐いて、覆面をし直し帽子を被る。敬意を示す時以外に顔を見せないのは、抵抗があるからだろう。それは左目の眼帯のせいなのか、それとも他の何かなのかはアルケーにはわからなかった。
そもそもどんな格好をしようとも、それは人の勝手なのだろう。ただ、時と場所は考えるべきだ。彼は自分の成長を思い、うんうんと頷いた。
道行く人々のちらちらと視線を感じるのは気のせいではないのだ。
「ねぇ? その覆面とか、街中なんだからやめない? なんだか怪しげな物を見る目で見られてるような気がしてならないよ。ていうか怪しいよ」
「……お前が言うの?」
「え? どういうこと?」
首を傾げるアルケーにシエルはつと指を突き付け、鼻の頭から爪先まで示した。彼は自分の姿を見下ろして、なるほどとポンと手を叩いた。
彼は全くみすぼらしい有り様であった。拾った衣服はボロボロで、泥が乾いて付着していて見るも無惨だ。片足は靴を履いておらず、ほんの少し血の痕が残っていた。
「うーん、流石にこの格好じゃダメだよね……体を洗って、新しい服を着なきゃ。シエルもそうしない?」
「私はこのままでいい」
「いやいや、きっと着替えた方がいいって! だって……」
そこでアルケーはわざとらしく声を潜める。
「臭うよ」
「ぐ」
シエルの動きが一瞬びしりと止まった。そしてほんの僅か、動きを注視していなければ全くわからないくらいに、腕を上げすぐに下ろした。その行動は体臭あを確認しようとしたものではあるが、もし本当にアルケーの言う通りであった時、その事実を受け入れることができるかということに、シエルが思い当たった為である。
ただ、にやにやとしてアルケーが笑ってわざとらしく鼻を押さえていることが酷く癪に障ったので、握りこぶしを彼の頭に打ち付けた。アルケーはやはりわざとらしく痛がったが、いたずらがばれた子どものように笑うのだった。
そうしているうちに建物からモンスが出てきた。すると、シエルは素早い足捌きでモンスから、踏み込んでも届かない位距離を取った。
「おう、お待たせした……何やってるんだ?」
「……モンス殿、私に近づかないで」
「あぁ、モンスさん気にしないでね? シエルは言葉が足りなくて」
「? おう、わかった。さて、紹介しよう。こちら、トゥレナ婆さんだ」
そういった彼の巨体の陰から、とても小柄な老女が現れた。度の強く大きな眼鏡をかけ、桃色の花柄のエプロンを着て腰が伸びた彼女はとても若く見えた。
「はいはい、モンスちゃん、こちらの方々ね。どうも、こんにちは! 私がこの商会の主、名をトゥレナと申します」
見た目から全く乖離しないハキハキとした調子でそう言って、ぺこりと頭を下げて人懐こく微笑んだ。そしてシエルとアルケーの姿を見て一つ頷いた。
「お二人にはお部屋をお貸ししましょう。食事と湯浴みの用意をしておきます。替えの服も用意をしましょうね」
「い、いや、何もそこまで……」
「えぇーっ! いいんですか! これぞ渡りに船だ! 服を着替えたいし、シエルもくさいしで困ってたんです!」
「くさい言うな!」
「ふふ! えぇえぇ、それは良かった。ではついてきてくださいね。久しぶりのお客さんだわ!」
言われるがままにトゥレナの後をアルケーはついていき、そこから少しだけ距離を取り少し迷ったのちシエルもついていく。
「……くさくないもん」
ぼそりと覆面の下で呟かれたその言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。
好きな技は、究極!ゲシュペンストキックです。