3話:夢の街ー1
シエルは寝苦しさに目を覚ました。胸の辺りになにか奇妙な重みをかんじたのである。獸避けのつんと鼻を突く香りがまだ辺りには漂っていた。空はようやく白み始めた頃だった。
「んぅ……?」
彼女は普段の堅い声色からは想像できない掠れてぼんやりとした声を上げつつ、のしかかる重みの正体を確認すれば、なんとそれは手であった。細いそれはアルケーのものである。地面にうつ伏せに大の字で寝そべって、涎を垂らして眠りこけているのだ。
「んんんー……やわら、かいぃ……」
どんな夢を見ているのか。
柔和な笑みを寝顔に浮かべ、アルケーの手は握るように僅かに力が込められて――――
「……っ!!」
シエルは咄嗟に飛び起きてその手を払い、拳を作って少年の頭を力一杯殴りつけた。地面に沈み込むほどの衝撃がアルケーの頭蓋に襲いかかった。
「いぃ、いたい! なに!? 何があったの!?」
慌てふためき飛び起きたのだが、ぐらりとまた倒れた。シエルはその腹を固いブーツで踏みつけた。その頬は僅かに上気して桃色に染まっていた。
「二度と私に触れるな! この、バカッ! 馬鹿者!」
「うえぇ? 何のことだが……痛い痛い! 踵が! 刺さるよぉ!」
「うるさい! 黙れ黙れ!」
静かな森の夜明けは、今日ばかりは騒がしかった。
◇
さて、ハプニングのお陰で朝日が昇る前に二人は出発することができた。アルケーは最初、眠り足りないようにぼんやりとしてふらふらと歩いていたが、そのうちしっかりとシエルの前を先導して歩くようになった。
彼は慣れたようにどんな険しいでもするすると進んでいき、シエルもそれに続く。明るい少年の声に、シエルは返事をすることは殆どなかった。彼女は不機嫌そうに、ナイフの鞘をパチパチと弾いているのだった。
白い太陽が段々と頭上に昇る頃には、アルケーの案内通り、灰の森を抜けて湿地に出た。木々が疎らに生え、森と比べれば何倍も明るい。しかし、それとは別に霧が濃い。踏み出せば水が溢れだし、泥で足を取られそうになる。実際にアルケーが踏み出した場所は底無し沼になっていて、あっという間にズブズブと片足がすっぽり沈んでしまった。シエルが無理やり引きずり出すと、履いていた古い靴は泥に取り残されてしまい、着ていたローブはずっしりと重くなった。また、泥の中に何か蠢くものがいた。
「うわぁ、蛭だぁ! でも、僕の血なんか吸っても美味しくないと思うけどなぁ」
アルケーは指で、自分の肌に吸い付いてびたびたと暴れ回るそれらを一匹一匹摘まんで投げる。見れば、シエルのブーツにも何匹か張り付いていた。潜り込む隙間が見つからないようで右往左往している。
肌を全く露出していない彼女の装束が好を奏したようだった。ただ、ちらりと見える右目は、気持ち悪そうにしかめられていた。アルケーの肌で蠢くそれらを見て、自分の体で想像してしまったのだろう。
張り付いたそれらを全て取り除き、アルケーはふぅっ息を吐いた。それは、不思議な気持ちが沸き上がったからである。例えるならば、慣れ親しんだ故郷にようやく帰ってきたかのような。
「ふぅ、なんだかここは落ち着くな……生まれたところに似ているのかな? 知らないから、多分だけどね」
「こんなところが? 全く理解できない……ん?」
その時何かに気がついてシエルは視線を向ける。そして、濃霧の奥に動く大きな影を見つけた。足の踏み場を確かめて、腰の得物に手をかける。アルケーも気づいて手を止め視線を追う。
段々とその影が濃くなってくる。ずりずりと何か重い物を引きずる音、そして巨大な太鼓のような響きが近づいてくる。地鳴りのような唸り声が腹の底に響き、震える。
霧を越えて、その首をもたげたのは、見上げるほどの巨大な亀であった。遥か下にいる二人を一瞥し、興味無さげ視線を戻して、すぐ横を通りすぎていく。それの甲羅は古い岩山のようで、苔がむして低木さえも生えている。また小さく可憐な桃色の花を咲かしていた。
薄暗い色しかないその場には不似合いで、アルケーは久しぶりに見る美しい色に、頭がくらくらとするようだった。
地を鳴らし、歩くその姿は圧巻であった。沼に足を取られることもなく、力強く一歩一歩足を進める。外皮は、甲羅に籠る必要も無さそうなほど強靭であり、いわば岩石のようである。
よく見れば甲羅に見るからに丈夫そうな分厚いベルトが引っかけられて、首には手綱のようなものが付けられている。両側の鼓膜の隣に何らかの装置が付けられていて、それにも紐がつけられていた。微かにチリチリと小さな鈴の音を鳴らした。
「でっかぁ……!」
アルケーは思い出したように驚嘆の言葉を言う。一歩が少年の何歩分だろうか。シエルも思わず武器から手を離して、目の前の巨体を見上げていた。
後方に目をやれば、そこには馬車が引かれているのだった。亀の足の大きさに負けず劣らずの四つの車輪が、ぬかるみにはまることなく動いて、何かが軋んだりしてずるずると引きずられるような音を発していたのだ。
御者台は高く、平均的な男性の身長よりも背のシエルでも手が届かないくらいだ。御者台に座る人影は、それに見合うほどの大男であった。上半身だけでシエルよりも高い。巨人と呼ぶに妥当だろう。ぷかぷかと葉巻を燻らせていて、鼻の奥を刺激するようなつんとする薫りが辺りに広がっていた。アルケーはまた体に上り始めへばりついていた蛭達が、ぽろぽろと落ちていくのに気づいた。
アルケーは声を張り上げて、その御者台の彼に呼び掛けた。
「すいませーんっ! ねぇ! ちょっといいかなーっ!」
聞こえたようで、首をキョロキョロとさせる。しかし、馬車の高さでは足元の二人に気づけない。大亀は思ったよりも速く、アルケーが何度か呼び掛ける間にもずんずん先を行ってしまう。
「うーん、どうしようかシエル? 歩きでここを抜けるのは……」
「却下。こんなところをトボトボ歩いてみなさい。血を全部吸われて枯れ木のようになるのがオチよ」
シエルは思わずといったように自分の体を両手で掻き抱き、ぶるりと身を震わせた。だが、それも少しの間だけだ。すぐに表情を引き締めて、足元の泥を踏みしめて何やらを確認しだした。
「何してるの? ほら、どんどんあの人行っちゃうよ?」
「……よし、アルケー、お前に仕事をあげる」
「うんうん、何かな?」
少年が首を傾げると、シエルは覆面を下ろしてにこりと微笑んだ。詩のように表現するならば、汚濁の中に咲き誇る一輪の可憐の白花だ。釣られてはにかんだアルケーの体を、シエルはがしりと片手で抱えあげた。
「え? え? なに? なんで持ち上げたのかな?」
「さぁ、飛んでいけ!」
彼が言葉の意味を理解することはできず、代わりに身を以て体感することになった。
アルケーは力任せに宙へ放り投げられたのである。「うわぁぁっ!」と悲鳴が霧の中に響き渡る。放物線の頂点にあたるころには、巨大亀とその後ろの巨大な馬車の全貌が良く見えた。与えられた役目を果たすべく、アルケーは腹から声を出した。
「すいませぇぇんっ! とまってくださぁぁいっ!」
その声に、ようやく御者台の男も気づき、たまげた様子できょろきょろと見回し、遂に空を見上げた。
「うおぉっ!? 空飛ぶガキんちょが!」
思わずといった様子で男は立ち上がって、御者台にある多くの紐の一つを引っ張る。すると、かすかに鈴の音がして亀がその歩みを止めた。
アルケーは、声が届いたことと役目を果たせたことに顔を綻ばせつつ、ただ彼を迎えるのは地面だけであることに気付いた。
人を投げるなら先に言ってはくれないかとは思ったが、自分の扱いなど適当で構わないのだ。刺されて死なず、砕かれて死なず、そうであるから今更投げられた程度でどうこう言う必要も意味もないのだ。あっという間に近づく地面に、彼は目を瞑った。
しかし、その時は訪れなかった。代わりに二本の腕で受け止められたのだ。驚愕と疑問に目を見開くと、アルケーを受け止めたのは投げ飛ばした張本人であるシエルだった。碧い右目が彼を見下ろしている。ちょうどお姫様抱っこと呼ばれるように、仰向けになって首から首と膝を抱えられていた。
「う、あ、ありがとう……」
彼女は何も言わずアルケーを足から下ろした。足早に行く彼女の背中を呆然と見て、顔に喜色を浮かべてその後ろを追いかけた。
◇
「よぉ! こんなとこで人に会うたぁ珍しいこともあるもんだ!」
御者台の上から大男が、お似合いの胴間声で調子良さげに笑った。御者台へと上がる為の粗雑で手掛かりの幅が広い梯子を用意しつつ、言葉を続ける。
「あんたら、こんなとこで何してたんだ? まさか雑技団ってわけじゃねぇだろう、ガキんちょには羽根でも生えてんのかい?」
「違うよ! 僕はただ投げ飛ばされただけさ。見世物は嫌いだね。特におかしな道化師は。見るのはいいけどさ。ね、上がっていい?」
「おう。もちろんだ。そっちのも上がりな。下は気色悪い泥と淀みだらけだ、せめてここを抜けるところまでは乗っていけよ」
「……感謝する」
アルケーは幅の広く大きい梯子をもたもたと、シエルは身軽に上る。御者台に上がると、霧に隠れてよく見えなかった男は、かなりの大柄であることが分かった。戦士であれば、素晴らしい働きをすることだろう。とにかく、彼は一つ
うねった髪は長く、後ろで一纏めにしてあり、やや赤みがかった瞳には不思議な煌めきがあった。茶色のもじゃもじゃの髭に隠れている口から葉巻の煙を吐き出した。黒いコートを羽織っているが、前は留められておらず、また強靭な筋肉の肉体を曝していた。と、目を引くのはパッチワークのような傷跡と縫われた跡だ。その胴体を繋ぐように縦横無尽に走っているのである。黒いズボンは厚い布で丈夫な作りであるのがうかがい知れた。見るからに硬いブーツには乾いた泥がへばりついていた。
二人が上がると、彼は荷車の後ろを指した。巨大な荷車には、たくさんの箱やら棺やらが積まれていた。彼は「適当に腰かけてくれや」と言いながら、亀に繋がっている紐を引っ張る。力強い歩みを始めた亀によって荷車が引っ張られ、軋んだ音があちこちから鳴った。アルケーは興味津々に荷物などあちこちを眺めたり、ペタペタと硬い木の箱を触ったりした。
「俺はモンスってもんだ。見てわかると思うが、運び屋をしている。まぁ、こんなご時世だ。苦労はするがね。あんたらは?」
「僕はアルケー。こっちの、怪しげだけど実は優しい彼女はシエルだよ」
シエルは文句言いたげにアルケーを睨んだが何も言わなかった。
「アルケーとシエルな……ガキんちょは、まぁいいとして、シエルのその格好、また珍しい遠い所から来たもんだなぁ」
「……分かるの?」
「そりゃもちろん。俺は相棒と共にどこへでも行くからな、それが売りなもんでよ。大方、北の国のどれかが出身だろ。ランフかヒベイブか?」
「イーデルベルンよ」
「あぁ? イーデルベルン? あぁ、それはとっくの昔に……おっと」
モンスはそこで言葉を切った。シエルの片眼が危険な光を帯びていたのを見たからだ。身震いするような雰囲気に気づいたアルケーがからかうように口を挟んだ。
「ほらほら、また怖い顔してるよ! 今は隠してるからまだいいかもしれないけれど、素顔の時にそんな顔しちゃダメだからね! 子どもだったら泣いちゃうよ!」
「……黙れ」
シエルは不機嫌そうに足を組んで荷物に凭れ、帽子を傾けて完全に目元を隠してしまった。アルケーは御者台のモンスの隣に腰かけて小声で言う。
「ごめんね、モンスさん。シエルのお姉さんはちょっと気難しい所があって」
「いやぁ、まぁ、全然構わねぇよ。今のは俺が悪かった。誰にだって触れちゃならんことはあるさ。アルケー、俺に言わせりゃ、お前の方が触れちゃなんねぇ奴だと思うぜ? 俺の勘がそういってる」
「そう? 僕はどうしたって何の力もない子供なんだけどなぁ。ね、これからどこ行くの? この荷物は?」
ガタンと荷車が大きく揺れる。木々の太い根に引っ掛かったのだろう。荷車から見渡せば、濃い霧に隠れながらも、遠くで根を張る者達が、祈りのために組んだ腕のような萎びた枝を伸ばしていた。
そこで少しだけ、僅かな違和感を感じるくらいにモンスは黙った。
「……それより、俺はあんたらの話が聞きてぇな? もしかしなくても、あの森を抜けてきたんだろう? 普通の人間なら、全く頭がおかしいとしか言えないぜ?」
「えっとね、僕達はラエティティアさんを訪ねるために歩いてたんだよ。ね、そうだよね!? シエルぅ!」
「……えぇ、そうよ。私はある目的のために、行かなくてはならない。そのうるさいのは、まぁ、何と言えばいいのかしらね」
「ほぉ? そうかい。おっと、さっきこのガキ投げ飛ばしたのは、シエル、あんたなんだな?」
表情は人懐こそうな笑みではあるが、何か違う響き、例えば試すようなそれがあるように感じられた。だがシエルにとっては特に偽る必要のないことだった。
「えぇ、そうだけど……?」
「ほお、そうかそうか。おぉ、さっきのガキんちょの質問に答えなきゃなぁ! 奇遇なことに、なんと俺も、そのラエティティア様の住まう街に用があったんだよ!」
「ホント!? わぉ、なんて良い偶然なんだろう! ね、一緒に行こうよ!」
ぱーっと明るい笑顔でシエルを向くと、彼女はほんの少しだけ訝し気に顔を歪ませていた。
「おぉ、もちろん構わねぇよ。それにしても良かったなぁ。さすがに歩きであの沼地を抜けるのは、なぁ……」
葉巻の煙をぷかぷかと口から吐き出しながら言う。アルケーは喉にいがらっぽいのを感じたが、自分の足に懲りずにへばりついていた蛭の残党が落ちたのに気づいて機嫌良さげに頷いた。
シエルは固い口調で荷車から語りかけた。
「モンス殿、ありがとう。本当に感謝する。蛭は……というより、あのようにぶよぶよしたものたちはどうも……」
「あぁわかるわかるぜ、俺も嫌いだ。あいつら狭い所にもわんさか入ってきて、たらふく血を吸っていくからなぁ。ブーツの中も確認しておけよ、念のためな」
言われてシエルは慌てたようにブーツを足から引っこ抜いた。下に巻かれていた布を取ると白い肌が現れた。細かく確認して、どうやら最悪の事態は免れたようで心底安心して深くため息を吐いた。
「ほぉ、なかなか別嬪じゃないか? 覆面をしていてもわかるぜ、見ろよあの肌を」
「それ、直接言っちゃダメだからね。怒られるよ、何が悪いのかさっぱりだけどさ」
「綺麗な花にはってやつか。いや、俺はなにも言うまい」
シエルは男達のひそひそ話に顔をしかめつつ、元通りにブーツを履いた。「それにしても」とアルケーは言う。
「モンスさんは随分大きいなぁ。こんなに背が高い人は見たことがないよ。きっと見える景色もちがうんだろうなぁ」
「そりゃそうだ! ガキんちょも鱈腹飯食ってでかくなれよ! 生きるなら体が資本だ。なんせこんな世だ。何が起こるかわかったもんじゃない」
モンスはその厚い胸板に走る深い傷跡を、太い指でなぞった。いや、傷跡というよりは、無理やりつなぎ合わせたかのように見えるだろう。やや不自然な筋肉の盛り上がりが、その違和感を増していた。
「男ならな、あぁいや、女でもだな。男だ女だはもう古臭い! 人間なら、何か大切なものを守れる力を持ってなきゃなんねぇ。人間は絶対に変わらない何かを持ってないとな」
「絶対に変わらないもの? 何だろう。それは例えば?」
「さぁてな! そんなことはよ、教わって知るもんじゃねぇのさ。お前の人生次第だ。さぁ、そろそろ沼地を抜けるぞ、愛しい光はすぐそこだ」
モンスの言うとおり、今や地面はそれなりの固さになってきて、所々に下草が生え始めていた。段々と霧が晴れて、雲の絶え間から眩しい白い太陽の光が道行く彼らを照らした。巨大な亀も心地よさそうに空を見上げ欠伸をした。
すっかり霧が晴れると、見渡す限りの緑の平原が広がっていた。道なりには関所の残骸か、廃墟があって、遠くに街の城壁ともいえる壁が見えた。
ただ、その方角の空は重苦しく不吉な黒い雲によって覆い尽くされていた。
醤油ら~めんが好きです