2話:人食いの森ー2
歪んだ獣は最早元の人ならざる膂力を発揮し、シエルに向かって飛び掛かり、その鋭い爪を突き出した。彼女は後ろに飛び退くのだが、僅かに遅れた銀の髪が簡単に切り裂かれ散らされた。避けられたとて獣はそれで止まらない。力任せに振り回される腕や爪は、何の技術や型もない野性味溢れる物である。
そしてそうであるからこそ、当たれば必殺であることは明白である。
シエルはその猛攻を、風に揺れる羽毛のように避ける。当たることは無いが、徐々に追い込まれているのも事実であった。ドッと背中が樹木にぶつかってしまった。
好機とばかりに、獣は女の細首に食らいつこうとする。シエルは身を即座に屈め、怪物のすぐ近くを潜り抜けて。標的が目の前からいなくなっても獣は止まらず、堅い幹にかぶり付き、強靭な筋肉の顎は簡単に生木をむしりとかみちぎってしまう。
『ゥゥゥ……コ、ォォスゥ……クッ……ク……アアア!』
呪詛ともただの唸り声ともとれる声を上げながら、かみちぎった木をむしゃむしゃと咀嚼して呑み込む。
「ひゅーっ! なんて力だろう! 正真正銘の怪物じゃないか!」
どこからか場違いな歓声が聞こえた。見ればよろよろと立ち上がったアルケーだ。手には血のこびりついたナイフがあったが、背中にはまだ矢が刺さっている。
その声に反応したのか、獣はギョロギョロした目玉をぼろぼろの少年へと向けた。
「あれ? なんだか、とっても嫌な予感がするよ。まだ死んだふりしていた方が良かったかなぁ……? 森で動物に出会ったら、そうしろっていうしね!」
『アアアァァァ!』
呑気に言う彼は、一瞬にして黒い暴力の暴風に吹き飛ばされた。狼が獲物に止めを差すように、獣は少年の首に食らいつき、噛み千切るためにぶるぶると振るった。圧倒的な力に少年の体は、乱暴に遊ばれて関節が多くなってしまった人形のようになった。
食欲のままに溢れる血をすすり、腸の肉を引きずり出して食らう。その様は最早人でも獣でもない。アルケーの言うとおり、正真正銘の怪物であった。シエルには目もくれず、ただひたすらに目の前の肉を貪る。
その様をシエルは見下ろす。手には鎚を握り締めている。
「……歪みは、滅ぼす」
決意を確かめるように静かに口に出す。シエルは恐怖を感じていた。その身に強靭な力を宿しているとしても、その心は人であるからだ。
歪み。
つまり、歪みとは、目の前のこの光景である。
人が人を喰らい、人が怪物になり、人としての尊厳さえも失ってしまう。恐ろしいことだ。それは人より生まれたものでありながら、人よりも強大であった。
シエルは覆面を乱暴に下ろして大きく息を吐き出す。どうしようもなく息苦しかったのである。視界が暗くなったように感じる。すがるように胸元のナイフに手を伸ばした。
「師匠……どうか、お力添えを……」
祈るように目を閉じる。ぐちゃぐちゃと気色の悪い咀嚼音は、その一瞬の間だけ消え去った。熱された頭がにわかに冷やされる。暗く霞んだ思考が晴れる。
ふっと目を開く。
彼女が見たのは、獣がずるりと臓物を引き出す所だった。殺さなくてはならない。歪みを切り取らなければならない。滅さなければならない。正しい世界に戻さなければならない。
呪いのような使命感を胸に、シエルは静かに得物の柄を握り直す。
そして、ひとッ飛びに踏み込み、肉を食らう獣の頭に鎚を振り下ろした。
◇
不死の少年は、今日何度目かの覚醒を迎え、のっそりと起き上がった。目を擦りつつ、今は夜であることを認識する。パチリと焚き火が爆ぜて、火花が舞って飛んで消える。きつい香りからして獣避けの香草を焼いたのだろう。横たえていた体に黒いレザーコートがかけられていたことに気づいた。
辺りからは、風鈴のような夜の虫の声が鳴り響いていた。キョロキョロと見回せば、周囲の灰の木々は焚き火にぼんやりと赤く照らされ、間に深い闇を作り出していた。そして地面に血溜まりを見つけた。そこから延びる三本の濁った血で描かれた曲線の先に、何か大きな影があるのに気付いた。アルケーは、それを怪物だと思った。
だが、それはただの見間違いであった。
目を擦れば、銀髪の女の跪いている背中であった。帽子は取られ、銀の髪が背に下がっていた。アルケーが見たのは火の揺らめきや木々の闇が造った幻想であった。
かつては純白だったのだろうブラウスには、返り血だろうか、すっかり古くなった乾いた血がついていた。
「……救いあれ」
シエルは静かに祈りの言葉を述べる。死んだ者のその後を祈るとは、なんと無駄なことだろうと、アルケーは思った。死後に救いなどない。彼にとっては死こそが救いであるからだ。
ただ、ここでそんなことを言うほど、アルケーは不粋でなかったし、誰かの祈りを邪魔するほど不届き者ではなかった。そう、ただ理解が出来ないだけであった。
腕を枕に、シエルの後ろ姿をぼんやりと眺める。今までコートに隠れていてわからなかったが、彼女の肩は細く華奢である。ナイフの留められた分厚いベルトが変に大きく見えた。祈りは終わったようで、ゆらりと立ち上がる。その影に倒れた人間の体が二つ、そして肉塊のような何かが一つ並べて置かれていた。
シエルは焚き火の近くの腐った倒木に腰を掛けた。碧い右目が炎に赤く輝いた。力なく項垂れて、深く息を吐き出した。そして肩からベルトを外して膝の上に載せ、ブーツに付いた泥や汚れを、手袋を填めた手で払った。
「ねぇ」
アルケーはいつもよりも少し小さい声を出した。とはいえ、彼が想定していたよりも大きく響いた。
「明日はどこ行くの?」
シエルは黙って焚き火に枯れ枝を投げ込む。湿り気があったようで、ばちりと爆ぜて。
「ここには何もないよ、ただの森だった。財宝も遺産も廃墟もない、あぁ、ちょっと陽気な人達がいるくらいかな? おかげでひどい目にあったけどね」
聞いてはいるようだと認識し、アルケーは続ける。
「ね、一先ず森を抜けない? 僕がちょっと前まで、あぁ、大分前かな? 過ごしていた街があるんだ。お姉さんが入ってきた方の真逆に抜けて、半日位湿地を行けば見えてくるよ」
「……それは、具体的にどれほど前になる?」
「うーん、僕の今までを人の一生とするなら、蝿の一生分……くらいかな」
「なにそれ、さっぱりわからない」
「いやぁホント最近だよ。あそこはご飯も美味しかったし家畜も元気だった。あぁ、外れに大きなお屋敷があってね。確か、ラエティティアさんっていう聖女様が住んでるらしいよ」
その名を口にした瞬間、シエルは顔色を変えてアルケーの襟首を掴み上げた。
「ラエティティアといったな」
「ぐ、えぇっ? うん、そうだけど……?」
「詳しく聞かせろ」
「いい、けどっ……でもその前に、ちょっと、離して欲しいかな、ぐぐ……」
シエルはしかめっ面のまま、アルケーを掴み上げていた手の力を緩め、すとんと地面に落とした。
「けほっ! あぁっ苦しかった! 全く、そんな怖い面されても困るなぁ。ほら、綺麗な顔なんだから、笑って笑って!」
こんな風に、とアルケーは自分の頬を指で吊り上げてみせる。シエルは顔を更にしかめて少年を突き飛ばした。そして舌打ちをしつつ、コートを奪い取って乱暴に丸くまとめて横に置いた。
それから、息を一つ吐いて荷物の中から一冊の革でくるまれた一冊のぼろぼろの本を取り出す。その紙は古く、触れば崩れてしまいそうだった。シエルはゆっくりと丁寧にページを捲る。汚れたり滲んだり、ページが大幅に破れて読めたものではないが、紛れもなく、彼女の支えになっているのである。
そして、辛うじて読める場所をアルケーに差し出した。
「えぇと? 古い文字だ……捨て人の森を抜け、麗しきラエティティア様の……? おぉ、なるほど!」
「これは銀狼隊の遺品の一つだ。師匠が保管していたのだから、間違いない」
「なるほど、これを当てにシエルはここまで来たんだね! 凄いなぁ、こんなものがあるなんて! 僕が彷徨いたここ何年かが全くの無駄足だったのに……」
アルケーは興味深そうにページを丁寧に捲って、とあるページに辿り着いた。そこにはまだ比較的新しいインクの香りが残されていた。そして、紙には大きく乱暴に書き殴った文字が。
”愛する子よ。不死を殺せ”
その意味に首をひねった時、シエルによって手記は取り上げられた。そして素早くかつ丁寧に閉じて荷物にしまい込んだ。
「日が昇る前にここを発つ。私をその街へ案内しなさい」
ふと、思いついて用に再度荷物の中に手を突っ込み、引っ張り出したものをアルケーに放り投げた。危なげなく受けとめ、見れば紐で括られた何枚かの干し肉であった。
「必要とは思えないが持っておいて」
「これは……ありがとう、久しぶりにちゃんとした食事だ! 本当にありがたいよ!」
「……私は寝る」
そう言って丸めたコートに頭を乗せ、焚き火に背を向けて膝を抱えて横になり、荷物に引っかけてあった帽子を目深に被り目元を隠す。それからは、アルケーが呼び掛けても応えることはなかった。そのうち安定した寝息が聞こえた。
一人になったアルケーは干し肉を一口齧る。噛めば噛むほどじゅわりと濃厚な獣肉の味と香りがした。
人らしい食事をしたのはどれくらい久しぶりのことだろうか。名前も知らないキノコを拾い食いしたのが記憶に新しい。舌先がしびれるほどの美味ではあったが、その直後には骨がぐにゃぐにゃになって、歩くことも這うことすらできなかったのを覚えている。不死たる彼にはもはや必要のないことではあるが、備わっていた機能の痕跡がうずくのだ。
飲み込んで、軽く息をつく。なんとなく笑いが込み上げた。
「生きていれば良いことあるって? その通りだね。まだまだ捨てたもんじゃないな、こんな僕でもさ」
うわ言のように独り言を言う。火の粉が狂った虫のように昇っていくのは、暗い雲が覆った空だ。星など見えない。
ただ、とっくの昔に見上げるのにも飽きた、いつものように陰鬱とした空も、何故だか違って見えた。厚い雲のその上に輝く月を感じ取れた。
「痛くても我慢できるし、死ぬにも慣れたけど……でも、やっぱり一人って寂しかったのかなぁ……あははっ……」
地面にそのまま横になり、空に手を伸ばしてみる。細く気色の悪いそれは、死人とよく似ていた。ふと考える。いつか訪れる筈のその時が来たら、一体自分は何に成って果てるのだろうか。いや、そもそもそんな時は来るのか。永劫に流離い、永遠に彷徨うのだろうか。
「…………なんてね」
自嘲気に笑って目を閉じた。
ハッサムが好きです。